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身分用語について(1) 「人民」「国民」「常民」

いわゆる歴史用語はその使用方法が曖昧なままに使われ、さらにはその用語から漠然としたイメージが作られている。何を根拠に、どうしてそのようなイメージになるのか、と疑いたくなることが多い。

その「元」となっているひとつが学校教育であることはまちがいないだろう。特に社会科担当の教師が授業において「歴史用語」をどのように具体的に例示してイメージ化させているか、教科書記述をどのように具象化して解説しているか、史料は何をどのように説明して使っているか、さらには最新の歴史研究を学んでいるかなどが大きく影響している。

別に教師を批判しているのでも責任を追及しているのでもない。ただ教科書記述だけに頼って授業を行うことの不十分さをより自覚することを求めているのである。長年学校現場で社会科を教えながら、私自身が痛感してきたことだからだ。
例えば、教科書から「士農工商・穢多非人」の身分制ピラミッドが消えてから20年以上が過ぎているにもかかわらず、未だにブログなどでも見かけるし、その言葉を耳にする。学校の職員室でさえそんな会話が聞こえてくることがある。しかも若い教員の中から…。

私が若き日、毎年教えていた江戸時代の「身分別人口グラフ」が、教科書改訂により「農民」から「百姓」に書き換えられたのを目にした時のことを今も覚えている。その数年前に、今回取り上げる網野善彦氏(確か雑誌だったと思うが…)の記述によってそのことは知っていたが、それでも衝撃的だった。歴史研究によって史実の解釈や史実そのものが変わることは少なからずあるが、教科書記述に反映されるには数年以上の年月を要する。なぜなら、改訂が4年毎であるし、何より歴史研究の成果や新説の真偽を判断しなければならないからだ。


網野善彦氏の『歴史を考えるヒント』を参考に、<身分用語>についてまとめておきたい。

…現代の日本には法律上、「身分」は存在しないことになります。しかし、歴史を振り返ってみると、近代以前の日本の社会には「身分」が明らかに存在しました。生まれながらにして特定の身分に位置づけられる場合もありましたし、その時代の状況によって、権力者との関係において身分が生ずる場合もありました。明治以後、法的に「身分」がなくなっても、敗戦前には経済的・社会的な地位に即して「身分」が生きていたと思います。

「身分」を正確に解説できる人間は少ないだろう。漠然とした意味はわかっても歴史的背景を含めて説明することは案外難しい。しかし、日常会話においても使われる時もある。TVの歴史番組などでは普通に「言葉」として使っている。だが、「身分不相応」「身分に紛れ」等々については厳密に理解していなければ、江戸時代の政治支配構造や民衆の規範意識、さらには<差別>について誤解を招くことになる。

…日本でも、敗戦後の労働運動の最中に、「勤労人民大衆」といった表現がさかんに用いられていましたが、それは明らかに戦前の「国民」に対するアンチテーゼとして意識的に使われた言葉でした。
…実は「人民」という言葉は歴史的には非常に古くからある言葉なのです。「天下人民」と書いて「あめのしたのおおみたから」と読む表現がすでに『日本書紀』の中で使われており、「ひとくさ」とも読まれています。その後、鎌倉時代から江戸時代にかけてはそれほど多くの用例が残っていませんが、一貫して使われており…普通の言葉である…

網野氏も「この言葉にはある種の色がついている」と書いているが、確かに「左翼系」のイメージが強い。社会主義を標榜するアジアの国々、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国のように国名に「人民」が入り、さも「人民のための」というイメージを強調している。
「人民」にしても、要するに「普通の人々」の意味であり、複数形そして「集団」であるが、全部(全員)を包括しながらも、実は「特定の集団(の構成員)」を意味する。つまり、その「集団」に所属していることが条件である。それゆえ「人民の敵」という表現で、「人民」外の存在を作り出す。同様に「国民」という言葉もある。

…「国民」も歴史の中で意味が変化した言葉と言ってよいと思います。中世においては、「国民」の「国」は武蔵国、相模国などの国を指していました。そして、その国における侍クラスの人を「国人」と呼び、それと同じような場合に「国民」という用法が記録の中に現れます。特に、奈良の場合には興福寺のもとに組織された大和の有力な地侍を、「国民」と呼んでいたのです。

中世においては「国司の支配下にある一般の人々のこと」を「国民」と呼んでいた事例もあるとのことで、国々の有力者を指す言葉であった。「国民」が現在のような「日本国の一般の人々」という使われ方をするようになったのは近代以降であり、歴史的背景には日本の国内統一と海外の国(外国)に対して自国(日本)という意味で「国」の概念が定まったからだろう。これも先の「人民」以上に、「その国の人々」=「国民」とすれば、他「国民」が存在する。そこには「壁」と「囲み」が見える。つまり前提として「国家」があり、その「国家」に所属する「国民」が存在する。

…これ(「庶民」)も「人民」同様、『日本書紀』から使われている非常に歴史の古い言葉です。古代のおいては、「庶民」または「庶人」と書いて、やはり「おおみたから」と呼んでいたようです。「おおみたから」は「人民「庶民」のほかに、「百姓」などさまざまな漢字で表現された言葉でした。

「庶民感覚」というように、「人民」「国民」「市民」などよりも普通感が強い。日常感覚で通常使われて、「一般人」「普通の人」というイメージが強い気がする。人々が日常的に使っていた言葉である。逆に「公的」な文書にはほとんど使われていない。「庶民」には「特定の集団」というジヤンル分けがない。

柳田(国男)さんはこの言葉(「常民」)を最初に使ったのは渋沢(敬三)さんだと言っていますが、柳田さんと渋沢さんとでは、「常民」に込めた意味が明らかに違います。柳田さんは、歴史学が世の中の変化を追究する学問なのに対して、たとえ政治の変動などによって時代が変わろうとも、簡単には変化しない普通の人々の生活の問題を追及することを、民俗学の使命と考えておられました。…その民俗学のキーワードとして「常民」の語を使われました。しかし、その中には職人や漁民、さらには定住せずに各地を遍歴する人々などは含まれていなかった。と考えてよいと思います。このように、柳田さんの「常民」には、「農民」という意味が濃厚に込められていたと言えると思うのです。
これに対して渋沢さんは、はっきりと「常民」は「コモンピープル」の訳であると言っておられます。まさしく「普通の人々」という意味であり、そのなかには職人や商人が含まれており、…被差別民も…含まれておられたと思います。

普段はほとんど耳にしない「常民」は元来の日本語の語彙にはないと網野氏は言う。朝鮮半島において普通の人々を意味することで、「特権的官僚の階級である両班(ヤンバン)あるいは被差別民以外の普通の人々を常民(サンミン)」と呼んでいたと言う。柳田氏や渋沢氏の時代、朝鮮半島は日本の植民地であったことから、日本語の語彙にはないが「普通の人々」を表現できる言葉として選んだのだろうと推測する。

なぜこんな紛らわしい分類をしたのかよくわからない。学問上の厳密を追求したのだろうが、その結果として「対立構造」を生み出すことになったと思う。つまり、その範疇(集団)に含まれるか含まれないかの二分化である。それが<差別>の表現に使われることにもなっていく。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。