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江戸社会(3):江戸時代の物価

『お江戸の素朴な大疑問』『お江戸の意外な「モノ」の値段』(中江克己)PHP文庫,『江戸の賭・女・出世』(山本博文)角川ソフィア文庫などに,江戸時代の武士や庶民の生活事情に直接関係する物価についての記述がある。現代と比較してまったく違うものもあれば,似たような事情のものもあって,なかなかに興味深い。ただ,あらためて江戸時代の長さ,現代とは比較にならないほどの緩やかさではあったが,確実に変化しつつ約270年間という年月を積み上げてきた,その歴史の変化・変容を痛感する。

また,江戸時代の武士と庶民の収入形態のちがいが生活事情の違い,武士の困窮化と深い関係にある。つまり,武士の収入は米が基準であり,米価が収入額の基準となる。だが,物価は必ずしも米価を基準とはしていない。現代のサラリーマンのような貨幣による給料制でないことが,米価との対比による物価の影響を大きく受ける結果となった。まして「家禄」が加増されることは稀である。だから,武士は出世による「役料」を求めたのである。

江戸時代は身分制の時代であり,個人の能力よりも「家格」重視のシステムが確立していた「身分世襲制」の時代である。こうした武士社会をみると,身分が家格に反映されたピラミッド型社会であり,固定化社会であることがよくわかる。つまり,身分制は,支配者・権力者である徳川幕府が「安定化」「固定化」を維持するために武士階級を統制するシステムであり,大名も各藩を同様に統制したことで構築されたのが,幕藩体制である。江戸時代における身分制は,他身分との関係(差異・差別化)よりも同じ身分内における「身分内身分」の関係(差異・差別化)において明確化・厳密化された。

流動・変動・変容が行われないよう幕藩体制の「安定化」をはかることが,江戸時代の政治であった。平人に対する経済政策も統制政策も,体制維持・体制の安定化のためであり,その根幹が「身分制」の堅持であった。贅沢禁止・倹約令には,財政再建の目的と同時に,身分統制=身分制の維持があった。大名や大身旗本などの上級武士が自らの生活基盤を守るために,下級武士・平人を支配・統制する手段としたのが「身分制」と考える。しかし,それが商品経済・貨幣経済の浸透により崩壊していった。その保守に固執した幕藩体制と,時代の流れに従った民衆との相克が「身分制度の変容」に表れているように思う。やはり,歴史は動きの中で理解しなければいけない。

『お江戸の意外な「モノ」の値段』(中江克己 PHP文庫)より,いくつか紹介しておく。物価(ものの値段)を知ることは,その時代の社会を理解する上で重要なツールとなる。

町人たちは身分の低い武士を「サンピン侍」といってばかにしたが。漢字で書くと「三一」で,もともとは賽の目に由来する。もっとも身分の低い武士は,一年に三両一人扶持という安い給料をもらっていたので,賽の目の呼び方にならい,そうした武士を貶めて「サンピン」と呼ぶようになったのである。
江戸時代,武士が主君からもらう給料は「禄」といい,禄高は「石」や「俵」で表示された。つまり米で支給されたわけだ。
禄高が一万石以上を大名,一万石未満を直参(旗本と御家人)といい,御目見得以上(将軍と謁見することができる武士)が旗本,それ以下が御家人と呼ばれた。
たとえば,享保七年(1722)には,旗本は五千二百五人おり,禄高の合計は二百六十四万千九百石,一人平均の禄高は五百七石だった。それにたいして,御家人は一万七千三百九十人と多いのに,禄高合計は五十六万三千六百四十石にすぎない。一人平均三十二石である。それだけ御家人の暮らしは楽ではなかった。
高い禄高をもらっているのならともかく,百石から百五十石程度ではかなり生活が苦しい。貧乏旗本といわれたのは,このクラスとそれ以下である。先に述べた「サンピン」,三両一人扶持は,年給三両と一人扶持の米だけだから最悪だった。一人扶持とは玄米が一日に五合で,二人扶持だと一日一升となる。
禄(給料)の支払方法は,大別すると「地方取」「蔵米取」の二種類があった。地方取は知行取ともいうが,これは禄を土地でもらうことである。百石の知行といえば,百石の米が収穫できる土地だが,当時は「四公六民」とされ,六割が農民のものとなった。したがって,百石の知行といっても,実収入は四十石にしかならない。一石一両として,四十両の給料である。
蔵米取とは蔵米(倉庫に貯蔵した米)をもらうもので,これを「禄米」とか「扶持米」と称した。年三回に分けてもらうため,「切米」ともいう。自分たちが食べる米以外は札差(旗本や御家人の代理となって米をさばいた商人)に売却し,金に換える。
そのほか,先の「サンピン侍」のような身分の低い武士,徒士とか足軽などは,扶持米をもらうが,一人扶持といえば一日玄米五合である。
これが基本給で,そのほか役職につくと,役料(役職手当)がもらえた。寛文五年(1665)三月から実施されたもので,たとえば大番頭二千俵,大目付千俵,町奉行千俵,目付五百俵となっていたのである。
百石取の武士でも,中間一人,下女一人を雇っていると,食べる分がやっとで,売りに出せる米はほとんどない。主食は確保できたものの,あとは無収入という状態だった。
たとえば,中間を一人雇うと年三両の給金は必要だし,住み込みだから年に四俵か五俵の米を食べる。さらにお仕着(着物)も与えなければならない。その費用は主君が出してくれるわけもなく,結局は自分で負担することになる。
当時「千両の身代」といわれたのは,大通りに店をもてない中店クラスである。
文化十三年(1816)に成立した『世事見聞録』によると,浅草蔵前の伊勢屋には年給が二百両の手代が四人いたという。二百両といえば五百石取,千石取にも匹敵する年収である。大店の番頭のなかには数百両の年給をもらう者も珍しくなかった。
町人なら千両程度の金持ちはさほど目立たないし,ほとんどが借家住まいだが,実際の生活は豊かだった。千石取の武士は九百坪の敷地に建つ大きな屋敷に住み,形式を取り繕うのに金はかかる。形だけを張って,暮らし向きがともなわない。生活の実質は中店にもおよばなかった。
さらに大名はほとんど「借上げ」を行なった。諸藩では財政が窮迫すると,名目上の禄高はそのままにし,借りると称して,家臣の禄を減らしたのである。少ない場合は十分の一程度だが,多いときは三分の二も減らされた。これを「半知」と称したが,実情はそれ以上だった。

多くの庶民が着たのは木綿だが,『守貞漫稿』によると,天文年間(1532~54),木綿一反は銀6~7分(39文から46文)だったのに,寛永年間(1624~43)には銀2匁(132文)と,約三倍強になった。さらに享保年間(1716~35)になると,銀4~5匁(264文から330文)になり,寛政年間(1789~1800)には銀9~10匁(594文から660文)になったと,その値上がりぶりを紹介している。

また,これらの木綿は縞木綿で,主に着物にするものだった。嘉永年間(1848~53)には手拭いにする白晒木綿が一反5~6匁,縞木綿は下品といえども17~18匁というからさらに値上がりしたわけである。
江戸時代は約270年間,物価が高くなるのは当然であるが,米価は収穫量によって左右された。米価が下がってもそれ以外の物価が高騰することもあり,その場合は武士の生活は苦しくなった。では,凶作時は米価の高騰により武士の生活が豊かになったかといえば,必ずしもそうではなかった。なぜなら収穫量自体が少ないから,当然,知行米も扶持米も減るからである。

貨幣ではなく米を基準とした給料体系と商品経済(貨幣経済)による物価変動の矛盾が江戸時代の経済問題の根本であったといえるだろう。

部落史を考察する場合,その歴史的・社会的背景を的確に把握する必要がある。その一つが庶民生活の実態である。従来のように,穢多・非人などの被差別民を単に差別と結びつけた貧困からだけの理解ではまちがった歴史認識となるし,逆に皮革業などによって豊かであったという理解もまた一面的な歴史認識となる。
江戸時代の支配体制・政治組織だけでなく,庶民の生活様態から経済・社会状況を理解することで,総体的な認識をもつことが重要である。その上で,身分制による社会的立場・相互の社会的関係性を考察する必要がある。つまり,江戸時代における身分と何か,身分制度下における差別とは何かについて,「差別」の概念や「役務」「役目」からだけでなく,社会状況の実態・(他身分の)人々の生活との関わりからみていくことが重要な視点となる。

物の値段一つとっても,その貨幣価値がわからなければ実感は得られない。下駄の値段が,江戸の中期で紙緒の下駄は並製で50文,上製は100文,革製の鼻緒つきとなると銀二匁から三匁と高価で,庶民は12文の藁草履か12~16文の草鞋を愛用していて,下駄は雨天用であったことや,衣類の値段などがわかっていなければ,また商売の状況を知っていなければ,倹約令や統制令の意味や目的もまちがって認識してしまうことにもなる。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。