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光田健輔論(35) 善意と悪意(5)

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』(無らい県運動研究会)所収の徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」を参考に、小川正子と『小島の春』が果たした役割をまとめてみたい。

<ハンセン病問題に学ぶ>ことは、過去のできごとを<歴史>として学ぶことではない。その<歴史>の中に潜んでいる、決して繰り返してはならない「原因(要因)」と「意図(思惑)」を学ぶのである。過ぎ去ったことと振り返ることなく見過ごせば、同じことが再現されていることは多い。

国全体が軍国主義化していく最中にあって、若い女性医師が「悲惨」な状態におかれている患者を救い出すために献身的に尽くすという『小島の春』の世界は、国民の圧倒的な支持を受けて一大ブームを巻き起こし、映画化されて多くの国民の涙を誘うこととなった。
そのヒロイズムをより鮮明にするため、「救い出される」患者の姿はまさに悲惨極まりないものとして描かれることになったのは必然であり、それは、小川の意図如何とはかかわりなく、「救う者」と「救われる者」の立場を決定的に固定化することとなった。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

上記の一文の「註」として、徳田氏は次のように書いている。

このような形で、困窮している人びとに献身する人物の偉大さを際立たせるために、「救われる側」にいる人びとをことさらに悲劇的に描き出すという手法は、現在でもしばしば用いられる。ミュージカル「ドクターサーブ(※)」(2011年)は、その一例であり、主人公の比類なき誠実さとスケールの大きさを印象づけるために、「救われる側」のハンセン病患者を正体不明の無気味な存在として描き出し、多くのハンセン病回復者の厳しい批判を受けるに至ったことは記憶に新しい。差別される側にいる者が、その差別を克服するためには「救済の容体」としてではなく、「解放の主体」と位置付けられることが不可欠であることを私たちは肝に銘じるべきである。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

※ 市民団体による憲法劇「ドクター・サーブ」の中で、アフガニスタンのハンセン病患者の人々が人間以下の存在であるかのような悲惨な描写であり、崇高な使命感をもった医師による、救済の対象という印象を強く抱かせるもので、ハンセン病患者への差別・偏見を助長するものではないかとの物議がおこった。

差異を強調する方法の一つに、一方を極度に高めるために、他方を極端に低位に置く手法がある。「ドクターサーブ」だけでなく、このような手法はよく見られる。どこに主眼を置くかではあるが、安直な方法である。事実や実際よりも誇張して表現される場合が多い。これ一つにしても、過去から学ぶことの意義はある。小川や中村の「善意」を強調したい意図はわかるが、表現によって「悪意」に転じることもあるのだ。
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徳田氏は、『小島の春』の世界が、無らい県運動の成功に果たした役割を、次の2点に要約できるという。

第一は、多くの国民に患者を収容隔離する行為が、患者を「救い出す」行為であるという認識を植えつけたということである。こうした認識が…ハンセン病と疑われる者を当局に通報し、地域社会から家族もろとも「あぶり出す」という行為に、多くの国民が参加していくことを可能にしたことは明らかである。いわば「救い出す」行為への手助けという意識が、通報という行為自体に内包する「後ろめたさ」を滅殺することになったのである。

第二は、無らい県運動の推進者である光田らの「救らい者」としての名声を確立したということである。「救らいの天使」が生涯の師と仰める存在としての光田の名声は、小川の存在なくしては国民に周知されることはなかったはずだからである。こうした「名声」の確立は、療養所内における苛酷な人権侵害を世間から隠蔽することを可能にしたのであり、ひいては日本のハンセン病隔離政策が世界に例がないほど長い期間、存続することを可能にしたということができる。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

光田の「隔離政策」の基本構想は、1915年に内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」で提言された「孤島隔離論」に認めることができる。

…島に移すというと残酷に聞こえるが、患者はあちこちで苦しめられるよりも、一つの楽天地に入ることを希望している。島に一つの立派な村落ができ、宗教的慰安や娯楽ができれば、そこは一つの楽天地である。逃走できない絶海の孤島にそういう施設を作れば、そこで一生を終えるという考えを持つようになる

徳田氏は光田の考えを次の2点に要約する。

第一は、社会内で苦しめられるよりも、社会から隔離された施設での生活のほうが患者にとっては幸せだという考え方である。この考え方には、患者の苦難の原因であるハンセン病の発症という事実と社会的差別の存在について、これらが不変のものであるという考え方が前提とされている。前者は不治の難病であり、後者は解消されることがないという考え方である。

第二は、地域社会へと帰れない状況に閉じ込め、宗教的慰安と娯楽を与えることで患者に楽天地であると受け入れさせることができるという考え方である。
家族と別れ、地域社会から永久に離れるという痛苦の代償として、宗教的慰安と娯楽しか与えることができないということを前提として、それゆえに絶対的な隔離が必要だという考え方である。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

続けて徳田氏は、光田が「楽天地」構想を「大家族主義」へと深化させ、「隔離によって生じる家族との別離に代わっての大家族の提供という論理」による「救らい思想」を展開したと述べる。

…光田における「救らい思想」は、患者を差別に満ちた地域から根こそぎ療養所に取り込み、家族や地域社会と隔絶することを患者にとっての救いであると捉えていたことが明らかであり、それゆえに「楽天地」建設のため、無らい県運動の必要性を愛生園開設の当初から認識していたということになる。
しかしながら、その「取り込み」を効率的に遂行する手段として、ハンセン病に対する差別と偏見に満ちている地域社会の構成員である住民を動員するということは、その差別や偏見をいっそう助長することになるはずであり、患者は地域社会で生活することを許されない存在として、激しい排除にさらされることになる。
社会の偏見から守るという「救う」行為が、逆に偏見や排除を助長し、激化させるという結果をもたらすという点に救らい者が提唱した無らい県運動の深刻極まる背理があるというべきであろう。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

ハンセン病を根絶する目的を達成するためには、ハンセン病患者を「絶対隔離」することで「癩菌」の蔓延(感染)を防ぎ、「癩菌」保有者であるハンセン病患者がすべて「死滅」(死亡)することを期して待つ。「絶対隔離」のために「強制収容」を行う。そのために法整備と警察権力の動員が必要であり、患者とその家族および地域社会の「理解」が必要であった。「理解」と「協力」のために、ハンセン病を「遺伝病」ではなく「伝染病」であり、強力な感染力をもつこと、療養所が「楽天地」であること、療養所に入所することが患者本人だけでなく家族や地域社会、国家にとって最善の方法であること等々を宣伝(啓発)する必要があった。

宣伝により、患者やその家族にとっては地域社会からの偏見や差別はさらに耐えがたいものとなり、逆に地域社会や住民にとっては「感染」の恐怖が増大することで即刻の「排除」を願うものとなった。「排除」「強制収容」を正当化する論理が「救らい思想」であり、「楽天地」である療養所であった。だからこそ「無らい県運動」が全国的に拡がり、各地の住民が「患者狩り」に主体的に参加することができたのだ。

患者の発見において住民が果たした役割は「通報」である。内務省や厚生省が全国的に実施した調査で把握されなかった「患者」の存在を知らしめるうえで大きな役割を発揮したのは隣人と教師であり、とくに子どもの「患者」を発見し、当局に通報するうえで教師の果たした役割は決定的に大きい。
一方で、「患者」の地域からの排除に関しては、地域住民による「患者」家族に対する「村八分」以上の徹底した差別が大きな役割を果たしている。家族への差別を回避するために、療養所に入所せざるをえないという選択を迫ることになるからである。
こうした意味において、無らい県運動は「患者」を地域からあぶり出していく直接の加害者の役回りを地域住民に演じさせたということになる。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

実に巧妙な「手法」であり、何よりも住民自身は少しの良心の呵責はあったであろうが、「加害者」という意識はほとんどなかったであろう。むしろ「通報」することで「楽天地」での生活を患者に勧めることができたという「善意」の自己満足を得ていたようにさえ思える。

徳田氏は、国賠訴訟の熊本地裁判決(勝訴)で「日本のハンセン病隔離政策を憲法違反であると断罪し、無らい県運動がハンセン病に対する偏見と『患者』家族への差別の元凶となったことを厳しく批判したが、その運動の担い手としての社会の側の責任に触れることはなかった」ために、「その排除を導き正当化してきた社会(住民)の側の病根は温存されたままで経過することになった」という。そして、「熊本判決の翌年に熊本県黒川温泉で発生した宿泊拒否事件」が「無らい県運動を支えた住民意識が、今なお強固に残り続けていることを明らかにした」と、「無らい県運動」によって住民の中に形成された「排除の正当化」という意識が残存していることを指摘している。

人生そのものを奪い去られる被害を受けた人たちが、あくまでも同情されるべき存在として慎ましやかに存在する限り、限りなく同情もするし理解もするが、「人並の言い分」を主張しはじめると身のほど知らずと嫌悪するに至るからである。

無らい県運動の渦中において、住民の多くは心ならずも加害者の役回りを演じさせられたのだが、その行動を正当化した論理が「患者」の救済のためであれ、深い「同情」に基づくものであれ、あるいは「恐ろしい伝染病」から社会を守るため等という国の誤った宣伝に乗せられたがゆえの恐怖心や「使命感」によるものにしろ、その共通の病根として、自らが差別する側にいるという加害者性の認識が欠如しており、それゆえに差別される側にいる人たちの側に立つという視点の重要性を省るということが失われ続けてきたということを私たちは、同事件の教訓として胸に刻みつけておく必要がある。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

この「病根」は、ハンセン病問題だけでなく部落問題など、今も日本社会の中に根深く残存している「差別意識」であり、「排除の正当化」である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。