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本当の『格好つける』ということ。

幼少期、我が家は“周りと比較して”割合と厳し目の家庭だった。

例えば、着るものはほぼ親戚からのおさがり(それも年齢も合わない感じの服)、スニーカーは穴が空いても履く、大雨が降ろうと学校へは徒歩(中学は自転車)。

なんとなくこの流れでお察しかも知れないが、学生時分というものは妙に周りと比較して恥ずかしくなったり、冷やかされたり悪口を言われたりするものなのだ。ご多分漏れず私もそうだった。

小、中ととにかく恥ずかしかったり悔しかったりしたのを憶えている。雨にずぶ濡れになって登校してはからかわれていた。中学に至っては次の日が雨の日と判れば当日は早起きし、まだ先生達もいないような時間帯に服を着てずぶ濡れで学校へ→玄関先でビニールに入れておいた制服に着替える(田舎なので見ているのは小動物くらいだろう)なんてこともしていた。

しかしね、そこまでしてもからかわれる、悪口を言われる。“なんか臭い” “何?あのおっきいビニール袋?汚くない?” おまけにテニス部で肌の色が真っ黒だったのも拍車をかけ余計に汚い“モノ扱い”された。

服もおさがりばかりでチグハグな格好しか出来なかったので(工夫はしてたけど)やはり人と出かけるのも億劫で断ったりしていたら変人扱いされた。

そして元来の性格も災いしてか、独りで居ることが気楽だったし、強がりもあってか友人なんて要らないとさえ思っていた。(結構尖っていたと自負している)

そんなこんなで、高校は絶対に定時制に入ろうと決めていた、夜間校である。夜間校なら働くことができるし自分の自由が増えると思ったのだ。

しかしその決断までも晒し者にされた。私の学校の風潮は“定時制は頭の悪い落ちこぼれ”が、“滑り止めすら落ちて行く場所がない奴ら”が、通う場所。という暗黙の認識があった。これは学校全体の認識だ。

私が進路面談で「定時制に行きます」といったら、面談が終わった次の週、わざわざ“誰がどこ志望か”を書いた用紙が掲示板に貼り出されることとなった。

見せしめだ。

私は中学卒業位になった頃には既に尖りまくっていたためそんなことをされてもへこたれもしなかったが、私と同じ定時制をひっそり志望していたもうひとりの彼は貼り出しにいたたまれなくなった様で志望校を変えた。これは彼が弱いのではなく、学校全体の仕組みが嫌らしいからに他ならない。犠牲者と言ってもいいだろう。

そして私は“難なく”夜間高校デビューした。

働きつつ、自分で稼いだ小遣いで大好きな服や音楽に関連するものを購入したりした(初任給で買ったのは6万位のストラトだった)。

その頃位からだ。今現在も私の中にある“格好良さの定義”みたいなものの基礎がその時代に培われた。

さて、ここでようやく本題、本当の『格好つける』ということの意味が登場する。

格好良さとは何か、他人が基準なのか。人と違ったらいけないのか、流行りじゃなきゃいけないのか、お金が必要か、

全部違う。

どんな格好をしようがどんなにお金を持っていようが、『心が格好良くなかったら何も格好良くない』気持ちが格好良くなかったら何も格好良くない。

何事も堂々とすることだ。

大人になればそんなこと当たり前なのかも知れないが、それを多感な年頃に得られたという経験値が私にとっては尊い。

周りがどんなに馬鹿にしてこようと、悪口をいわれようと、嫌味をいわれようと、自分が自分で在れば問題ない。何も問題ないんだ。

何よりも、堂々としてる奴は格好いい。

『かっこ』付けてるだけじゃ意味がないんだよ、『かっこ』の中身が重要だ。私はよくそんなふうに話す。


私は今日も、自分の格好良いを貫く。

これが私の『格好つける』方法だ。


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