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見識を広めろという人は見識が浅い

外国の人や、海外に数多く行っている日本人と話したとき、「それはさすがにおかしい」と言われることがたまにある。なんの話題で言われたかは忘れてしまったし、その内容自体は重要でない。

問題はそのあと。そう言う彼らは、私が海外に行ったことがないと伝えると、口を揃えて「海外へ行ったほうがいい」と言うのだ。

いや、言わんとしていることが分からないわけではない。まだまだ私の住む世界は狭くて、それを広げるために外へ飛び出すという選択肢を取るのには一理ある。

でも、外へ飛び出した君たちは私を否定した。否定されたことを根に持っているとかではなくて、その事実から目を背けてやしないか、ということだ。

見識を広めたはずの君たちは、一方で狭い世界に対する理解や想像がおろそかになっているのではないか。あるいは、「広めたつもり」になっているだけで、その世界はちっとも広がっていないんじゃないか。それとも、広がりはしたものの、浅いままなのかもしれない。

人並みの想像力があれば、世界中にいろいろな人がいることくらいわかる。そこでどんな文化が、暮らしが営まれているか。それらは、数度の旅行で見渡せるほど単純なものではないはずだ。ついでに言えば、それと思考実験とで何が違うのか不思議でならない。

むしろ、だ。私たちは隣人はおろか友人や家族のバックグラウンドすら満足に知っているとは言い難いのに、どうして外に目を向ける必要があるのだろう。同じ国の人はみな似通っているとでも思っているのだろうか。

だとすればそれはやっぱり、あまりに見識が浅い。広くはあるのかもしれないけれど、表面しか見えていないのではないかと思うほどに浅い。

もちろん、それを否定する気は毛頭ない。浅く広く見渡したい人は浅く広く見渡したほうがきっといいし、狭く深く覗き込みたい人は狭く深く覗き込んだほうがいいのだ。

問題は、自分はどういうつもりで、相手はどういうつもりか、というスタンスの確認。自分が正しいと思って勧めていることが、本当に相手のためになっているか。


つまるところ何が言いたいかを一言にまとめてしまえば、好きにさせろ、だ。外に出たくなったら出るだろうし、興味がいつまでも湧かなければいつまでも出ることはない。避けているのではなくて、今じゃないだけなのだ。

家でゲームに熱中する子供に、外で遊びなさいと指図するのとはわけが違う。


とかなんとか言いつつ、数ヶ月後くらいには誰かの誘いに乗ってあっさり海外行ってそうな気もする。そういうとこあるんですよね……。

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