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書けたものしか書けない。 | 20220801

新連載「On the way」

3か月ほどあいた。その間の出来事。

今年度は「びーぐるの新人」をいただけて、それにともなって一年間の連載詩の枠をいただくことになった。すでに一年分の締切日が決まっていて、それぞれの締切までに詩を仕上げなければならない。かつてないハードワークのなかで、さてどうやって書いたものか、なにを書いたものか、途方に暮れていた。

ちょうど5月から6月あたりのころは、とにかく身体を持たせるためにサウナに足しげく通っていた。登山にも興味を持って、休みのたびに山登りに励んでいた。そういう、生きるために(仕事で奪われた精神をとりもどす)何かをするという行為は、とても「詩」に似ていたような気がした。

だから、そういうものを素材にして書こうかなあなんて漠然と考えていたが、やはり、それはそれ、で、詩が書けるかどうかはまた別物だった。連載だから、何かテーマのようなものが必要だし、一貫した何かがいいだろうと思った。

すると、もういまの「生活」そのものしかない。「びーぐる」に投稿しつづけてきたのは、いまの生活の「帰り道」ばかりだった。別種の物語詩のようなものを書くことはあるが、あまり作風が変わってしまっても問題かと思って、今回は「On the way」と題して「途上」を描くことにした。

第1作目は、「Who am I ?」。なぜか英語しばり。
それこそ、仕事の帰り道に歩きながらiPadにアップルペンシルで書いた。これまで何度も何度も書きつづけてきた道だから、いつもと変わりばえしないといえばそれまでだが、でも、第1作目はここからはじめたいと思った。何も変わらないいつもの帰り道。ここは、僕の「途上」でもあり、誰かの「途上」でもある。そういう「時空」だ。

書けたものしか書けない

ちかごろ、「詩」をめぐる衝突がいくつかあった。衝突自体は、文学形式としての「詩」が生まれた明治時代から侃侃諤諤の議論が絶えず、「人生相涉論争」だとか「詩と詩論」で萩原朔太郎と春山行夫の喧嘩だとか、ある種、ゆっくりと、時間をかけて行われていた。それが、いまやTwitter上で、短文でスピーディに行われるようになったのだから時代を感じる。

それはともかく、たぶん「詩」はとても「私的」なものなのだと思う。文学史的に認められる「詩」があって、じゃあ、切磋琢磨して、そういう詩が書けるようになるかというと、そういうものでもない。

結局は、「書けたものしか書けない」。そして、それは、自分で、やりながら、どこかに辿りつくもので、その途上で、他の誰かと隣接するタイミングがあったりする。その途上では、詩人たちはいつもこう思っている。「これは、詩なのだろうか?」そういう問いを抱えながら書きつづけている。

それを、ふとTwitterで投げかけてみると、隣接した問いを抱えている人たちに接触し、良くも悪くも衝突が起きることになる。みな、それぞれの途上にいて、それぞれの到達度にある。もちろん、志を同じくする者同士、切磋琢磨することは望ましい。だが、「詩」は何かということは永遠に「問い」でしかなく、他人から与えられる答えは、あくまで他人の「詩」だ。

他人の「詩」に沿って、ああしよう、こうしよう、と思ってみたところで、いざ書こうというときは、いつも、丸裸になったようになる。選者の方々からも散々「長い長い」と指摘があり、先日恩師に読んでいただいたときも「現代詩のなんでもありの長さ」について言及があった。じゃあ、今度は短く、とやってみても、どうもうまくいかない。おれは才能がないんだろうなあ……と、絶望することになる。そうして、書けない時期が続いて、「書けないおれ」が出来上がる。

それで書けなくなって絶望するくらいなら、書けるものを書く方がいい。いや、「書ける」というのも、この場合は語弊があって「書けた」もの、と言ったほうがいいか。おそらく「書ける」ものなどなく、「書けた」ものしかないのだから。

そして、この感想も、いまの僕の感覚的なものだ。ここをとっくに通りこした人たちは、青二才め、と思うことだろうし、到達していない人にとっては、偉そうなこと言ってら、と思われるだろう。

でも、「詩」は、そういうどこまでも「私的」なものだ。

最低限、共有できそうな定義として「言葉にできないことを言葉にしようとする」というものがある。もちろん、これに異論がある人もあるだろうが、「感覚」そのものを「言語化」して「感覚」ごと伝えようとするわけで、その「感覚」自体はどこまでもその人のものだ。だから、「言語化」されて生み出された「詩」自体は、誰とも似ていなくてもきっといいはずだ。どんな形をしていてもいいはずだ。

そういう言い訳をしながら、「びーぐる」とは別に、いままであたためつづけてきた物語詩を最近発表しはじめた。これは、誰のためでもない、自分が読むための作品だ。自分のためだったら、発表しなくてもいいじゃないかと思われるかもしれないが、自分のためだといつまでも書かないので、毎週日曜日に一章ずつ公開することで、強制的に書こうとしている。

叙事詩「岬のヒュペリオン」

その名を「岬のヒュペリオン」という。なんかロボットアニメみたいな名前で、大それた夢だけれど、この長編詩がアニメになったらなあと思っている。まだ僕のなかにしかない物語だが、一歩ずつ、完成に向かうためにこれからnoteでも更新しつづけていきたいと思う。

みなさんにも、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。

「ヒュペーリオン」というのは、ギリシアの神様で、これを書簡形式で「小説化」(ぼくは叙事詩化だと思っている)したのがヘルダーリンの『ヒュペーリオン』だ。あと、長篇詩『エンディミオン』を書いたキーツも、次のテーマはこのヒュペーリオンだった(多い邦訳は「ハイペリオン」)。どうやら「かなたへいくもの」という意味があるようで、とても惹かれた名前だった。

ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』が愛の物語であったように、この「岬のヒュペリオン」も「アユカ」をめぐるラブロマンスの側面もある。恥ずかしいことを、これから大真面目に書いていくことになると思うが、大目に見ていただきたい。

それでは、また。




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