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善をうやまう者は身をそこなうことはなく、彼はおのれを高く持し、人間生活をむだに生きはしない――デマ、転売、善悪、SDGs

善をうやまう者は身をそこなうことはなく、
彼はおのれを高く持し、人間生活をむだに生きはしない、
彼はかかる生活の価値と利益を知り、
より善いものに身をゆだね、祝福の道を進む。
  —―ヘルダーリン「人間」(手塚富雄訳)

デマ・転売・悪意

店頭からマスクが消え、トイレットペーパーが、ティッシュペーパーが、キッチンペーパーが消え、ネットで高額取引が行われはじめた。ウィルスは熱に弱いのでお湯をたくさん飲めばいいなどというLINEメッセージも家族から届いた。思えば、震災のときも、妙なデマが拡散して、そういう「悪意」はどこからやってくるのだろうかと考えたのを思い出していた。

今回のマスク転売で100万ほど儲けたとかいう話を聞けば、ああ、自分もマスク買いだめしておけばよかったなどと、一応目先の金欲しさに冗談を言ったりはする。しかし、値段は500円にしておいて、送料を10000円などにして転売防止に引っかからないようにするのだといった「悪知恵」を耳にすると、それは思いつかなかった、頭いいなと思いつつもやはり嫌悪感を抱かざるを得ない。

今日は特段、転売許せんという話がしたいわけではない。それはTwitterで散々言われていることだから、ここで言う必要もない話だ。今日話したいのはこの「悪」ということだ。

「善悪」とはなにか?

これも「悪」許せんという話ではない。自分のなかにはなかったデマの拡散といった「悪意」が、いったいどこからやってくるのかという問いでもある。なぜ、ドラッグストアの棚が空っぽになっているのだろう。どこで、そのようなことが起こっているのだろう。答えはおそらくはっきりしているのだが、この現象自体を遠目で見つめてみる。

突然だが、僕は「善く」生きていたい。それは、これからの人生が幸福であるように願っているということだ。やがて家族を持ち、たいへんでも仕事に誇りを持ちながらお金を稼ぎ、趣味もマネタイズしながら充実した日々を送りたい。そのためには、(漠然とした言葉を使うが)「清らか」であることが条件であると思う。当然、お金を稼ぐ以上、人の「欲望」に付け込むわけだから、そこに「悪意」がないと言えば嘘になるだろう。そして、僕が何らかの「幸福」を手にすれば、きっと誰かが相対的に「不幸」になっているはずだから、完全なる「善」や「清らか」であるというのはありえない。

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そういう意味で、人の「欲望」に付け込むというデマの拡散というと、仕事をするというのは、「悪」を内包しているという点でそう変わらないのかもしれない。だから、どこからやってきたのかわからない「悪意」というのも、ただ、「善」だと思っている自分(しかし自分もまた「悪」を内包しているのに)が、そういうやり方は思いつかなかったというだけのことなのかもしれない。たしかカフカはこんなことを言っていた。

悪は善のことを知っているが、善は悪のことを知らない。
  ――カフカ(吉田仙太郎訳)

「悪」は人の欲望のことをよく知っているのだ。しかし、そうすると「ビジネス」自体が「悪」ということになってしまうので、それもまた言い過ぎのような気もする。できればヘルダーリンの詩のように、「彼はかかる生活の価値と利益を知り、/より善いものに身をゆだね、祝福の道を進む。」であることを信じていたい。だが、このグローバル資本主義社会において、「善いものに身をゆだね」ていられるのは聖職者くらいなものかもしれない。

アニメ「バビロン」での「善悪」

より善く生きる、悪とはなにか。そんなことを考えはじめたらきりがないのだけれど、このまえアニメ「バビロン」を見ていたら、「善悪」の話になった。「バビロン」は野崎まどによる小説を原作としたサスペンスアニメだ。「自殺」を合法とする「自殺法」の制定をめぐって検察官である「正崎善」がいわゆる「悪」に立ち向かうストーリーだ。

「自殺法」は日本だけでなく世界中でも支持する地域が現れ、世界的に「自殺」の可否について話し合われるようになっていく。そして、各国の首脳が集まって「善悪」の哲学をはじめ、アメリカの大統領(現大統領のような強硬派ではなく温和な人物である)が「善悪」とは何であるかという答えに辿りつく。そのときに提示されるのは、「善」とは「続くこと」だという答えである。つまり、「悪」とは「終わる」こと、ということになる。

もちろん良い「終わり」があるのも、良くない「続くこと」があるのもそうだが、概ね僕はこの定義に納得した。先ほど、唐突に「善く生きていきたい」と僕は言ったが、つまりは「続くこと」を望んでいるのだ。そのためには、この「社会」が、身のまわりの「人々」が、「僕」自身が「善く」あらねばならないということだ。

「続くこと」とSDGs

最近は「続くこと」を「持続可能性(サスティナビリティ)」なんて言ったりする。あまり縁のない人も多いかもしれないけれども、簡単に言えば「続くこと」であり、「善」なのだと僕は最近思った。

この「持続可能性」は、国連で採択された「SDGs(Sustainable Development Goals)」という17のゴールを掲げた目標として、世界的活動としていまは行われている。貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を、質の高い教育をみんなに、ジェンダー平等を実現しよう、安全な水とトイレを世界中に……と、貧困や環境、さらには労働問題まで掲げたものだ。「SDGs」という言葉を聞いたときには、また名ばかりのことをはじめたなと思ったが、「僕」という個人レベルで「続くこと」を求めていけば、こうした「世界」レベルの問題になるし、こうした目標が立てられることは「善い」ことだと少し腑におちた。より、SDGsの「善さ」に気づかされた落合陽一氏の本ではこんなことが書かれている。

 考えている中で、ふと思ったのが現代の日本はサスティナブルな考え方が希薄になっているのではないか、ということです。もともと長い歴史のなかで自然とサスティナブルな様式を獲得していった日本ですが(式年遷宮や修繕による侘び寂びを愛でる文化などがよい例でしょう)、明治維新や戦後以降、工業化の最中で半ば流される形で自由主義に舵を切った現代の日本には、目先の利益・生活・自分の得などを必要以上に重視するきらいがあるように私は感じます。
 さらにそれが、もともとのプライベートとパブリックの区別が曖昧な風土のもとで成り立っている文化と相まって、現代の日本では公共に対して社会を守ろうという感覚が薄いような気がします。それは昨今のSNSの炎上の構図や、一度失敗した有名人を執拗に追い込むような場面からも見てとれるのではないでしょうか。
(落合陽一『2030年の世界地図 あたらしい経済とSDGs、未来への展望』SB Creative 2019.11)

マスクの転売も、デマの拡散も、言ってみれば「公共に対して社会を守ろうという感覚が薄い」ということになるのだと思う。なんらかの、自分たちが所属する「社会」が「続くこと」に対して、意識的なところがないということだ。つまり、僕が「悪意」として感じていたのは、そういう「悪」(「終わること」)をはからずも望んでしまう人々の「公共心」の欠如だったのかもしれない。

善をうやまう者

公けに「善」を掲げることはなんだか少し恥ずかしいことだ。それはカフカが言ったように「善は悪を知らない」からなのだと思う。無知っぽいところがあるからだ。それでも、「続くこと」であるとするならば、僕は何らの恥ずかしげもなく、目標として掲げることができる。「善悪」ですら、現代版にアップデートして、僕たちの行動の指針にしていかなければならないのではないか。再びヘルダーリンに戻ろう。

善をうやまう者は身をそこなうことはなく、
彼はおのれを高く持し、人間生活をむだに生きはしない、
彼はかかる生活の価値と利益を知り、
より善いものに身をゆだね、祝福の道を進む。
  ——ヘルダーリン「人間」(手塚富雄訳)

あるいは、分岐

 悪の不意打ちというものがある。突然悪は振り向いて言う、「お前はわたしを誤解していたのだ」と。ひょっとしたら、これはほんとうにそうなのかもしれない。悪は君の唇に変身し、君の歯によって自分を噛ませる。すると君はあたらしい唇で、もって——以前の唇も、君の歯並びにもっとしっくり馴染んでいたわけではない——君自身おどろいたことに、善のことばを発するではないか。
  ――カフカ(吉田仙太郎訳) 

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