「きのうはこの人が勤めていた高校の運動会でしてね」

元校長の奥さんは、いたわるようにご主人を見やりながら、話し始めました。

「今の校長さんから招待状を頂いて、なんとかやっと出かけたら、挨拶を頼まれて、台に上がることになってしまって・・」

そのお体で？ と原夫人は元上司をそっと見ました。十数年前、彼女が教師をしていた頃、職員室の教員全員が震え上がった厳しさは、今は片鱗もうかがえません。

「この人一人では、台に上がれなくて、お若い先生方が何人も手を貸してくださったのだけど、生徒たちはクスクス笑ってるの」

奥さんはしぐさを交えて、おかしそうに言いました。８７歳になる前校長も、顔をくしゃくしゃにして、笑み崩れています。

原夫人の目に、その日の光景が浮かんできました。

元八王子校庭での毎年の大運動会、テント、朝礼台、はためく旗の列、体操服姿のはつらつとした女生徒たち。流れるように進められていた開会式の手順が、元校長先生の出番で思いがけなく乱れてしまい、支えてもらってもなお、先生の脚が体が震えるのが、若い人にはおかしく、若さがはじけて笑いが広がって・・。

原夫人はふと胸を突かれました。この方は、生徒たちを真底、愛しておられるのだ。昔元気だった頃は、「まじめに話している者を笑うなっ！」と大声で怒鳴りつけることで。そして今、ご自分を笑う生徒をも愛おしみ、共に　笑う円熟した深い心で・・。