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4章-(2) 天才ラスキンの悲運・幸運

● 詩人・画家・美術評論課・19世紀の英国の道徳基板に挑戦した「社会改革家」・教育家・経済学者・自然保護論者の草分け・自然環境破壊を警告し、100年以上も前に、汚染の気候への影響、つまり今日「温室効果」と呼ばれる(=地球温暖化)ものを記録し、予見していた。

● その履歴・経歴:

◎1819年、ロンドン生まれ。シェリー酒商人の息子。早くから広い自宅の 庭の小さな草花をよく観察していた。

◎ラスキンは19世紀後半における最高の「水彩画家」。彼はターナーを  崇拝。1843年、ターナーの絵が、新聞で辛辣な批評を受けた時、激怒して ターナー弁護のために、24歳で『現代の画家達』を刊行。その後17年間に 5巻書き続け、「美術評論家」としての名声は、2巻目の出た1845年までには定まっていた。

◎ラスキンは少年時代から『地質学会会長』になりたい夢を持ち、15歳で アルプスの地質に関する学術論文を出版。晩年にも美しい鉱石の収集品に 慰められていた。

◎ラスキンは〈手造り〉を賞賛。中世の石工の彫刻、ヴェネチアのゴシック建築などに、古き黄金時代が見えると。彼の批評の影響はすぐに表れ、ゴシック建築と装飾品への関心が急速に高まった。作品、製品に「真実」と「力強さ」が認められるかどうかが、価値判断の基準となった。ウイリアム・モリスとヨーロッパの「建築の発展」に深い影響を与えた。

◎彼は1848年(29歳)、ユーフィーミア(エフィ)・グレイと結婚したが、うまくいかず、1854年離婚。エフィはすぐに再婚。その相手は、ラスキンが支援し、最も称賛していたラファエル前派のジョン・エヴェレット・ミレーで
あった!

◎1860年『この最後まで Unto This Last』と題した4つのエッセイシリーズの中で、資本の投資は高利貸しである、と宣言。因習にとらわれた「経済学」に軽蔑感を浴びせた。『命の他に財産などない』『最大多数の気高く幸せな人々を育成する国こそ、最も豊かである。自分自身の命の役目を最大限までまっとうさせ、自分の財産を使って、他者の人生にも最大の助けになる影響を及ぼせる人こそ、最も豊かな人間なのである』

このエッセイの読者層は徐々に広がり、1904年、若きマハトマ・ガンジーは強い衝撃を受け、その後の人生をラスキン主義に従って生きることを決意。

◎ラスキンは、資本主義と同様に、社会主義も軽蔑。両者は同じ悪の違う 側面に過ぎず、両者ともに人間を非人間化させる機械と工場システムによっている。大切なのは人間であって、しくみではない。彼はどんなレッテルも嫌う「自由人」であった。

◎1871年、ラスキンは自己資金をつぎこんで「セント・ジョージ・ギルド(協会)」を設立。彼の理想に従って生活し作業する共同体作りを目指した。その目標は『無税。誰もが充分な衣料。充分な宝石。最高の質の大量の本や絵を、手近な図書館や美術館で読みたいだけ、見たいだけ得られること』であった。そのような美術館は「シェフィールド」に創設され、今日でも素晴らしい建物で運営されている。

◎ラスキンが『Unto This Last』やその後の著作で取り上げたものの多くは、20世紀になって浮上。『無償の教育。社会保障。老人や貧民のための住居。最低賃金法。地代制限。輸送権の国有。ヨーロッパ貿易共同体!』などは、ラスキンに発したもの。

◎1869年(50歳)からオックスフォード大学の美術教授となり、1871年「プラントウッド」の土地を購入して以来、『園芸』にも力を注いだ。彼は温室花を軽蔑。

◎1880年代 (60歳代) に入って、ラスキンの心は次第に陰鬱に。長年記録し 続けてきた気象観測から、気候の変化に気づいていた。『19世紀の嵐雲』と題して1884年に講演した中にも、『人類が生き方を変えなければ、由々しい結果を生じるだろう』と。当時「温室効果」の概念はなかったが、急速な産業化がもたらした汚染は、ヨーロッパが原因、とラスキンは指摘。

◎ラスキンは「自然保護運動」に情熱と勢力を傾けた。「緑地帯」や「無煙地帯」を町造りの基本とした。ウインダミアからケズビックまでの鉄道延長工事は停止させた。
『ナショナルトラスト』創立者3人のうち2人がラスキンの教え子であり、弟子。そのひとりがキャノン・H・ローンズリーで、ベアトリクス・ポターに大きな影響を与えた。

◎ これまでの激務が晩年の彼の体をむしばみ、うつ病の発作に。

◎ 1872~1990年まで、ラスキンが湖畔のプラントウッドに在所したため、ここがヨーロッパ最大の文化的中心となり、多くの信奉者が訪れた。ラスキンの天才は、トルストイ、ガンジー、マルセル・プルースト、FL・ライトなど国際的な人物たちに影響を与えた。

◎1881年以後ずっと、ラスキンは教え子のウイリアム・G・コリンウッドの支援を受けた。彼は画家、考古学者、作家、アイスランド語やノルウエーのサガ (一代記) の翻訳者であったが、ラスキンに献身的に奉仕。ラスキンの身近にいられるように、家族と共に、プラントウッドから1マイルばかり北のレイン・ヘッドに移住。息子のロビンも父と共に、コニストンのラスキンの近くに埋葬されている。

● ラスキンは1900年1月20日、インフルエンザで死去。81歳の生涯であった。その功績により、ウエストミンスター寺院に葬られる名誉を得られたが、愛した土地に埋葬されたいと願い出て、コニストン教会墓地に埋められている。

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