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2章-(5) かよとつるの身分

おくさまはつるを本気でこの家の娘として、育てようとしている。有り難いことなのに、かよには、つるが手の届かない世界へ奪われていくことだった。これからは、おつる様と呼ぶように、とも言われた。

・・うちが学校へ行っとる間、つるはだれが見るんじゃ。行きとうない。

かよはろうかの途中で足を止めた。からっぽの胸がうすら寒い。おくさまに抱かれている今さえ、かよには取られた気がするのに、その上、学校にやられるのだ。期待に膨らんでいた気持ちが、しぼんでいくようだった。

「とうちゃんは今日は帰る。苗代に種まきがまだじゃけん、また来るわ。  夜は、じいちゃんとこで休め」
とうちゃんは、台所で働いている3人の女ご衆にあいさつをして、外へ      出た。かよも送って行った。

井戸のそばで、足を洗っていた男がとうちゃんを見つけ、それから、かよをじいと見つめた。
「おう、こりゃ、おちよさんにそっくりじゃ。そりゃそうと、このたびは、おちよさんがとんだことで・・」
男はほおかぶりの手ぬぐいを取って、頭だけ下げた。とうちゃんよりは大柄で細身の、目ばかりするどい男だ。とうちゃんはペコリとあいさつだけ返すと、足早にすりぬけようとした。
「余平さん、おれを避けぇでもよかろうが。今は、おとなしう小作人におさまっとんじゃ。おちよさんのことじゃ、おめえはわしに義理もあるはずじゃ」

とうちゃんは振り切るように、門へ向かって突き進んだ。かよは後を追って、石段の下まで走った。

「とうちゃん、あの人、かあちゃんを知っとるが。だれじゃあ?」
「あいつはキケンシソウじゃ。あばれの作造ちうてのう。あいつの親父の 土地を旦那様に買いとられる時、あばれこんできたんじゃ。文句を言うても、どうにもならんのに・・」

とうちゃんは、あごで道の先の方角をしゃくった。          「あの向こうに、六地蔵さまの立っとる田があるんじゃが、その脇に住んどる。かよくれぇの娘がおるが、近づくでねえど」

去年も年貢を負けろと、このへんの小作人をかり集めて、お屋敷に押しかけたという。そんな時、間にあって苦しい立場に立つのが、小作人頭の じいちゃんなのだ。とうちゃんとしては、たとえ作造に義理があったとしても、じいちゃんを苦しめる者に味方したり、近寄ったりはできないのだった。

「今日はまた、なんじゃ、ごねに来たに決まっとる」           とうちゃんは苦々しげに言うと、とにかく近づかんがええ、と言い置いて帰って行った。

かよが台所に戻ってみると、つるを抱いて、さっきの女の人が乳を飲ませている。かよを見ると、すぐに他の人に声をかけた。
「おシズさん、この子には、早昼したげてぇな。あ、そうそう、あっちの人がおキヌさん。わしは、おトラさん。寅じゃ」

ハッハッハ、その人は、名前にふさわしく豪快に笑った。

おシズさんはさっそく、箱ぜんをひと組取り出してきて言った。
「けぇからは、あの棚から、自分で出したり、しもうたりするんよ。もうじき男衆が戻って来たら、忙しいけん」

おシズさんは、一重まぶたのおとなしい顔立ちの、30くらいの人だ。下女がしらのおキヌさんという人は、もう40歳をこえているのか、髪に白いものがちらちら混じっている。口数の少ない、笑顔も少ない人だった。仕事は手早く、むだのない動きで、つぎつぎと片づけや準備をこなしている。

麦飯に、ねぎの浮いた吸い物。おこうこ (たくあん)、ジャガイモの煮物を、かよは物も言わずに詰めこんだ。朝暗いうちに、朝がゆを食べただけで、おなかがぺこぺこだった。
お代わりをしてもいいよ、とおシズさんが言ってくれた。

つるもまた、おっぱいが離れそうになると、ふるえついて飲み続けている。

その時、ろうかをどすどすふみ鳴らす音がして、あばれの作造が戻ってきた。東の間で、旦那様に会ってきたらしい。

「断られたろうが」
おトラさんが、おかしそうに斜めに見上げた。

「なんじゃ、あの石あたま! 話にもならん。言いたい放題言うてやったわ!」
おトラさんがすぐに答えた。
「もうかる見込みがねえのに、旦那様が乗るわけなかろうが。スイカ畑を増やすちうても、損するのは見えとんじゃけん」            「損やこさせるか! このわしが、ええ苗をぎょうさん作ったちうに・・損 させんと、スイカをごろごろ生らしてやろうちうに・・」         作造は腹だたしそうに、顔をしかめ、にらみつけた。

おトラさんは旦那様の味方だ。
「肥料がぎょうさんいるで。手がかかるで。虫がつきゃ、終りじゃし、雨次第で、洪水にでもなりゃ、パアじゃ」
「百姓はお天道さましでぇぐれえ、わかっとらあで。米じゃておなしじゃあ。旦那の味方ばあ、してくれるな。」

作造は、ふくれ面のまま、わらじを履き終え、土間に下り立った。ふっと、かよが自分をみつめているのに目を止めた。

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