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第八話 97年、野口健のエベレスト挑戦の映像

  超人サイクリスト長尾のシェアハウス入りで情熱を取り戻した野口健は、1997年5月、田附や宮上ともにエベレストに挑むことになる。
 直前に行われたネパールでの高所トレーングには、エベレストには行かない長尾も参加することになった。
 このエベレスト遠征は、家電メーカーがスポンサーについていたこともあり、野口たちはそのメーカーのビデオカメラをよく回していた。

 私がシェアハウスに引っ越してきたのは、野口がエベレストから敗退してから1年経った後、1998年のことだった。エベレストの7000m付近から吹雪の中撤退していくビデオのシーンは、シェアハウスに来た日に見せてもらっていた。 
 大学の講義が早く終わったある日、まだ見ていない他のシーンを私は一気に見てみることにした―—。



長期高所トレーニング

 ネパールの青い空の下、ヒマラヤの急峻な雪山がそびえていた。
 その麓にある村で、野口と長尾がキャッチボールをしている。遊びではなく、かなり本気で投げ合っており、手にはしっかりとした野球グローブをはめていた。グローブをヒマラヤに持ち込んだのは、野口が世界初ではないだろうか、と私は思った。
 野口は高校野球経験者のような、しっかりとしたフォームだ。それだけにヒマラヤが背景にあるのはかなりシュール。そう思っているとボールがカメラの方に飛んできて、ボコッという音とともに、一気に画像が乱れた。
「痛てえ! 狙ったでしょ!!」
「狙ってない。狙ってない」
 走って駆け寄った野口は、田附を助けることなくカメラを拾い、倒れている田附を映し出した。

 次のシーンは、岩だらけの山をダッシュで駆け上がっているカットだった。
「もう5000mを越えているぞ」
「さすがに息がきれるね」
「まだまだ」
 田附と野口と長尾の三人が、走りながら会話をしている。
 頂上につくとその向こう側には、そこよりもはるかに高いエベレストが そびえていた。指さしながら、野口がカメラに向かって言う。
「来月は、あの世界最高峰を反対側のチベットから登ります」

 さらに次のシーンでは、宿でおばさんに出された夕食を野口たちは食べていた。
 宿と言っても、村人の住まいを少し改造したもの。そこにはおばさんだけでなく、旦那さんや、子供さんもいた。
 彼らと一緒に、野口はヒマラヤ山岳民族のカレー「ダルバート」を食べていた。また野口がカメラに向かっていう。
「ここにはじめて来たのは、18歳の時で、そこから毎回、このお母さんのご飯を食べています」
 子供と遊びながら、その「お母さん」がカメラに向かって微笑んでいる。

 そんなビデオを私がひとりで見ていると、野口がシェアハウスに帰ってきた。
「おっ! いい映像みているな」
 ここはなんという村ですか? と聞くと、
「ゴーキョという標高4700mの村。世界で一番高い村だと思う。ここをベースにして、何度も5300mのゴーキョピークという岩山に登ったんだ」
 野口たちは1か月間、その村に滞在して、高所トレーニングを続けていたという。
 体の「血中酸素濃度」を上げるためにマラソン選手などは、高所トレーニングを行うことがある。しかし、それは高くても3000m代であり、5000mで高所トレーニングを行うことはない。
 その後、長尾や田附もシェアハウスに帰ってきて、そのビデオを見た。
二度とやりたくないというような顔で野口が言った。
「この時は、大変だったなぁ。日がたつに連れて、どんどん疲れがたまって、最後の方は気力だけで登っている感じがしましたよ。」
「自転車の旅ではあんなに疲れることはなかった」
 長尾がそう言い、田附も同調する。
「ほんとにきつかったよなぁ」
 トレーニングでは負荷をかけ、それが回復する時に筋肉は向上し、パフォーマンスが上がる。
 トレーニングよりも「回復」のほうが重要とも言えるだろう。
 しかし4700mの村では、希薄な空気のために体が回復しなかった。それがわからずに、野口たちは毎日のようにゴーキョピークへのダッシュを繰り返していた。
 げっそりとした顔で、村の宿で三人が横たわっているシーンもあった。トレーニングをしていないマネージャーの宮上だけはケロッとした顔をしている。
 ビデオを見ながら、野口は
「この時はゴーキョ村に長く居すぎたよなぁ。しかも、がんばった割に体力は上がってないような気がした」
 と振り返っていたが、実際は疲労で逆に体力が落ちていたのではないだろうか。だとすれば、仮にその年、エベレストが晴天続きでも、野口たちは登頂できなかったのかもしれない。

チベット高原からエベレストへ

 1か月にも及ぶ高所トレーニングを終えると、ネパールから「エベレスト登山公募隊」の集合場所であるチベットのラサに飛行機で飛んだ。ヒマラヤ山脈の南側のネパールから、北側のチベット高原に来たのだ。
 ラサでヨーロッパの登山家11名とシェルパ10名、そして日本の登山家・大蔵喜福と合流。大蔵は有名な登山家だったが、野口のアドバイザーとしてこの隊に参加し、ともに山頂を目指すことになっていた。
 大蔵以外は初対面。国籍も文化も違うメンバーだが、共通の目的は「エベレスト登頂」。この「公募隊」というスタイルは、いまでこそヒマラヤで多く行われている登山スタイルだが、90年代の当時は、かなり珍しいものだった。
 何台かの四駆自動車に乗り込み、ダートロードをエベレストに向かって進む。チベットの大地はどこまで行っても、赤茶色の大地が広がるばかりだった。
 高所トレーニングを行っていたネパール側は、草が生え、ヤクと呼ばれる高所牛が、それをつまんでいた。優しい山岳民族の営みもそこにはあった。しかしチベット側に、そんな牧歌的な風景はない。
 標高4000mを越える大地の上の空は、深い群青色をしていた。その色は、昼間でも宇宙がすぐそこにあることを告げているようだった。ビデオカメラはダートロードに揺れ動く車内で、居眠りをしている野口と田附のアップを映す。長尾は帰国したが、宮上はベースキャンプマネージャーとしてまだ同行しており、彼女が撮影したものだろう。オーバーワークともいえるトレーニングで、野口と田附の顔はやせ細っていた。

 荒漠な世界を何日も走っていくと、地平線に、突如白く輝く宝石のような山々が現れた。画面の中で野口が、一番高いトンガリを指さし、隣の登山家に聞いていた。
「Is that Mt.Everest?」
「I think so.」
 彼らは車を降り、何もない岩砂漠の上で、彼方のエベレストを眺めていた。
 西欧人、日本人、そしてシェルパたち。生まれた背景が全く違う人々が、赤茶色と群青色の世界の狭間にたたずんでいた。
 1997年5月のワンシーン。そのビデオが撮影された時、私は高校3年生で、狭い教室の中、机を並べ受験勉強をしていた。私の全く知らないところで、いや、日常生活を送る日本人が想像することもない世界で、野口たちは異文化の人たちとチームを組み、ひっそりとエベレストを目指していたのだ。
 島国の中、足並みをそろえることで昔から日本人は生きてきた。そんな日本のシステムから遠く離れてしまったところに佇む彼らの姿は、とても印象的だった。
 社会の中で守られて暮らすことで、人は安心感を得る。そこから飛び出し、チベットのような何もない場所に来てしまう行為に、社会的な意義はなく、つまり意味性もない。
 意味がなくて、わけのわからない行為は、現実感を持ちにくく、想像もし難い。だからまっとうな社会人は「なぜ山に登るのか?」「なぜ冒険に出るのか?」という問いを登山家や冒険家にぶつける。
 だが、野口や田附と出会い、シェアハウスで一緒に暮らしはじめてしまったことで、そのチベットの映像は圧倒的なリアリティーをともなって私に降りかかっていた。
 何もないチベット高原は信じられないような光景だ。ともすればCGで作られた仮想空間のような世界。だが目の前の人たちが体験し、カメラに収めてきたものなのだから、まぎれもなく本当の風景なのだ。
 そして、そのような異世界に行くことには、何かしらの意味が、確実にあるということも、動画の中の彼らは、私に強く訴えかけてきた。

 もっともその遠征の1年後、シェアハウスにいた野口と田附に、チベットの時のような、研ぎ澄まされた雰囲気はなかったのだが……。
 ビデオを見るのに飽きて、台所に立った田附の声が聞こえてくる。
「今日は、夕飯ぼくが作るよ」
 リビングにいる野口が応える。
「またいつもと同じベーコンとレタスのシチューはやめてほしい。鍋を洗うの大変だし」

 エベレストにたどり着き登山をはじめてからは、野口たちは終始悪天候に苦しめられ、吹雪の映像が続いた。
 最後は、シェアハウス初日に田附に見せてもらった映像となった。標高7000mの吹雪の中、満身創痍の田附が言う。
「俺はもう降りるよ・・・・・・。生きて帰ってくれば次があるじゃん。」

登頂の失敗よりも・・・。


 その夜、野口たちが自分の部屋に帰ってからも、私は巻き戻しをしてビデオを見続けた。同じ映像を続けて何度も見るようなことは、生まれてはじめてだったと思う。
 深夜になり、トイレに起きてきた野口が、
「お前も長尾みたいにテレビを持ってなかったのか?」
 と言った。トイレから戻ってきた野口は、台所に行くと、瓶の底の方に残っていたウイスキーを持ってきて、二つのグラスに注いだ。
「このエベレストからもう一年が経ったよ。トレーニングとスポンサー活動だけで、一年が過ぎてしまった。エベレストだけで、こんなに時間をとられるなんて人生を無駄にしている気がしてならない」
 希望溢れる新入生に言うべきでないようような、ネガティブな言葉だけを吐いて、野口はダイニングテーブルから離れた。そして、
「エベレストで本当に大変だったのは、カメラで映してない部分だったんだよ。吹雪で登頂できなかったこともそうだけど、それよりも悔しい別のことがあったんだ……。」
 と、言って自分の部屋に戻っていった。

 高校の時、私がはじめてテレビで野口を見た時、画面越しに彼から「独特なエネルギー」を感じていた。
 だが、そのエネルギーは錯覚だったのではないか、とその時思った。
 普通、体育会系の合宿所であれば、「トップを目指すぞ!」「俺たちならできる!」みたいな、勢いのある飲み会が毎日のように続くのではないだろうか。そういった「エネルギー」は、まるでなかった。
 登山の記録ビデオを後輩の私が見ていたら「お前もできる!」というような言葉をかけるのが、先輩としてのあるべき姿だったのだと思う。 
 そして田附に至っては、エベレストに再挑戦するどころか、「今年はミシシッピー川を下る」というわけのわからない計画を打ち出していた。
 だが「独特」という点では、当たっていたのかもしれない。体育会系のノリが全くない、こんな山岳部の合宿所は、他にはないだろう。
 わずかに残っていたウイスキーを飲んでから、私は自分の部屋に戻った。

 少し酔った頭で、野口の言っていた「登頂できなかったことよりも悔しい別のこと」とはなんだろう。と私は思いながら畳に寝転がった。
 野口がスポンサー活動のために作った「エベレスト計画書」に、私の名前が「清掃班」として書かれていることなど、その時は知る由もなかった。

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