#6 太陽

中学校の卒業式。

私が卒業したのは、一学年100人くらいの小さな中学。全国レベルの吹奏楽部を指導する音楽の先生に鍛え抜かれた合唱が、部活のバスケットで3年間縦横無尽に走り回った体育館に響き渡る。

曲名は、アンジェラ・アキの「拝啓十五の君へ」。

ひな壇の至るところから、泣く声が聞こえてくる。隣の友達も、前に立っているあいつも、指揮棒を振っているあの子だって、耐えきれずに袖で涙を拭っている。曲が曲なのも相まって、3年間学年を築き上げてくださった担任も、目を真っ赤にしている。

当然、私も泣くと思っていた。人生で男が泣くのを許される数少ない時間。あれだけ頑張ってきた中学3年間だったのだから、涙が出ないわけないだろう。そう思っていた。

おかしい。
なぜか泣けない。

感動を表現する手段として、むしろ泣いてみたかった。

でも、なぜか泣けないのだ。


一人だけ不完全燃焼なまま、卒業証書を片手に友達と帰路につく。

後で友達と会う約束をして、家に着いた。


しばらくすると、電話が鳴った。

「あと1週間の命です。顔を見に来てやってください。」

らんちゃんの旦那さんからだった。


らんちゃん、というのは、所属していた留学団体の集まりのメンバーだったとあるおばちゃんのことである。

彼女は、がんと闘っていた。
ステージ4の乳がん。発見時にはすでに全身への転移があり、かなりの数の治験も受けて、でも八方塞がりで自宅療養に切り替えた矢先の一報だった。

虫の知らせだったのだろうか。涙腺が崩壊した。


らんちゃんとは幼稚園児のころからの知り合いで、いつもその集まりで可愛がってもらっていた。

らんちゃんは、太陽みたいに明るい。
彼女自身も陽気な人が好きで、中南米・コスタリカと地中海に面するチュニジアにホームステイに行ってくるほど、ラテンの地が大好きだった。
らんちゃんの大きな声とはち切れんばかりの笑顔は、メンバーの皆にいつも注がれていたと、今思う。
らんちゃんの"Hoooola~!! (スペイン語で「こ~~~~んにちは!!」)”というエネルギーたっぷりな挨拶が懐かしい。

泣き虫だった少年期の私にとって、彼女ほどポジティブになれるのは考えられなかったし、らんちゃんみたいな笑顔を届けられるようになりたいとも思っていた。
闘病中にもかかわらず、らんちゃんはいつも明るい。底なしのポジティブを前とほとんど変わらず届けてくれた。

らんちゃんは、結局卒業式の1週間後、私の高校合格を報告できなくなってしまった。

高校入学前の私は決心した。
医者になってらんちゃんのような人を救うんだ、と。

そのころからだろうか、私の完璧主義が加速しだしたのは。

入学できた高校は、出身の愛知県内でも有数の進学校。当然ライバルの壁は高い。
「あいつらよりも自分は劣っている」
「どうせ自分なんてあの子に勝てやしないんだ」
泣き虫坊主だった幼いころから悩まされてきたネガティブが、「どうせじぶんなんて」という鳴き声とともに、私の中で急成長を始めたのだ。

一見、「ただのネガティブ思考の人」と思うかもしれない。
でも、私の<ネガティブ>は一味違う。
私の<ネガティブ>には、「卑屈」という名前がふさわしい。
ただ単に自信がないというネガティブを名乗るなんて御法度な、卑屈なのだ。

テストで上位を取れたり、バスケットが上手かったりする人から発せられる「できるかどうか不安だ、どうしよう」というネガティブは、ある意味で透き通っている、と私は思う。

対して私は言い訳をして、降りかかるものから逃避する。
それができるということも、ちょっとは賢い証拠なのかもしれない。
でもなぜ私はここまで、正面衝突ができないのだろう。
自分にできない、と断言ができる証拠はどこにもないのに、いつから私は姑息にもどうにかして抜け道を見つけてしまうのだろう。
「あいつは真面目なやつだ」と魅せるのだけが上手で、自分では謙虚であることを美学と思っていたのに、それは潜在的には「卑屈」以外の何物でもない。

完全にはき違えていた。謙虚というものを。

私が吐き続けてきた<ネガティブ>は、「どうかボクを見てよ、注目してよ」というような自己顕示欲を赤の他人にぶつけているだけのものであり、このままでは私は「とんでもないわがままぼうず」なのだ。

当然こんな厄介な<ネガティブ>を対処できず嫌煙するチームメイトだっていたし、対処に困って部活の空気を壊してしまったことも、今思えばあった。彼らには本当に申し訳ない気持ちでいる。

神様のような何かはちゃんと理解っていて、私は結局学力不足を理由に医学部医学科に挑戦すらしなかったし、なんとか合格できた薬学部にいてもなお、ちょっとした心残りがある。もっとも、この心残りと、医師を実際に職業にすることの過酷さ、生活の質をある程度優先したいことを天秤にかけ、このままの道を邁進しようと今は思っているのだが。



らんちゃんは、太陽みたいに明るい。
明るかった、と書きたくはない。
自分の<ネガティブ>が大きくなったとき、私はらんちゃんを思い出す。
らんちゃんは今でも、私の中で、ポジティブをプレゼントし続けてくれる。
本当にありがたいことだ。
私は彼女を忘れない。
だからこそ、正直になりたい。
らんちゃんもきっと、そんなふうにポジティブを、<ネガティブ>の「中和剤」として無駄遣いしてほしくはないだろうから。
そして、<ネガティブ>をばらまくのはもうやめよう。

オトナになった姿を見せられるように頑張るから。
どうか見守っていて、らんちゃん。




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