#3 信じるって?
幼少の頃、私は世の中の大人たちをこう捉えていた。
「みんな何か役職を生まれながらに持っていて、各々の役職を皆完璧にこなしている」と。
母親は母親として、父親も父親として、完璧だと思っていた。
母は、どうやって覚えたかはわからないけど、料理洗濯ができるし、バスケットもできる。
父も、どうやって覚えたかはわからないけど、自転車の乗り方の「教え方」を知っているし、家族で毎年行ったキャンプのときに火を起こせたりテントを立てられたりする。友達を裏切ったら全力で叱ることも、お箸の持ち方の教え方も。
先生も、どんな質問をしても完璧な答えをくれる存在だと思っていた。さらには、自分にとって先生とは「正しさそのもの」だったので、彼らの言うことは絶対だと思っていた。絶対だ、と思うに足る知識と完璧さを持っている、と根拠はないのに感じていた。
さらには、「泥棒ってどうやって生まれるの?」そう母に聞いたのを今でも覚えている。「泥棒」は生まれながらにして悪であり、善人がある日突然犯罪を犯すことだってあり得る、ということが理解できなかった。
世の中の大人たちは、例えるなら、はじめから初期値を設定されプログラムされたとおりに動く、ゲームのキャラクターみたいなものと捉えていた。ゲームの中でマリオがマリオになった過去は語られないし、クッパはもとからずっと悪いやつで、いいやつになることはない。そんな感じ。
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だが大きくなった私は、大人たちがもつ「完璧さ」は、完璧でないことに当然気づく。
母も父も、生まれながらに親であったのではない。もとはただの大人で、結婚して私が誕生して初めて親になっただけ。彼らが親になる前、もっと言えば、出会って付き合う前は、彼らは自分のことだけを最低限考えて生きていけばよかったし、親なんて一度も経験が無いのだ。
学校の先生にもわからないことは山ほどある。
算数の「割合」を自分は先生よりもうまく解説できると気づいたし、理科の先生に「なぜ?」を投げかけても、返ってこないことが多々あった。
教員にとどまらず、医師も、パイロットも、タレントも、料理人も、「完璧」ではない。すべての人は各々の職に必要な能力を後天的に身に着けただけで、生まれてからずっとその職の「キャラクター」を背負うことはない。必ずその役職を取り払った、「ただの一人の人間」という存在に戻る瞬間がある。この職は天職だ、と言って勤勉に働いていらっしゃる方もいるけれど、お金がもし無限にあれば、どれだけの人が仕事を好んでするだろうか。
彼らはみな、その役職を「演じている」に過ぎないのだ。もとは、究極的には自分のことだけを考えていたい、そんな存在なのだ。私はそう思った。
「あなたのためなら死んでもいい」
「あなたのためならなんだってできる」
こう言う人がいるけれど、根本をたどれば、すべての人間の考えが100.00000%そういう考えであるとは言えないのではないか。
人間はみな、最後の最後は自分だけが幸せになりたい。そう思っているのではないか。こう思えて仕方ないのだ。
そして同時に、この考えはとても偏っている、という事実もわかっている。
他人の幸せも自分の幸せと同時に望めないのは、私の対人関係の未熟さを物語っていると思うし、「私と同じように、あなた(たち)も幸せであってほしい」と寸分の狂い無く100%の熱量で考える人もおそらく存在する。
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というのも、私はこの夏、2人の女の子とのトラブルがあった。
一つは、#2でも前述のとおり、何でも話せる女友達Aとの絶交。
もう一つは、私の家に呼んだ、こちらも女友達のBとのちょっとしたトラブル。詳しくは省略するけれど、私はBを信頼しすぎていた。何もかもぶっちゃけられる仲だったと思ったのに、余計な一言の刃は彼女にはあまりにも鋭利であった。
どちらも私が悪いのは変わりない。まちがいない。だが、彼女たちが私を拒絶する根本には、「彼女たちにとって私は”便利ではない”から」という魂胆がある、と考えてしまいたくなるのだ。
AもBも、自分の話を否定せずに受け止めてくれる存在として、私の良心を弄んでいた節がどこかにあったのではないか。推測でしかなく、被害妄想以外の何物でもない、極めて偏った考察でしかないことはわかっている。
筆者は男性なので、この考えで今後女性と接していたら、私の男性としての未来はないことも断言できるのは承知しているつもりだ。
でも。それでも。
負けた気がして、悔しいのだ。
対等ではない、利用されている、そのもどかしさが払拭できない。
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信頼ってなんだろう。
雲をつかむようなこの感覚を、明確なものにするには、もっと多くの人に出会わなくてはいけない。
小学生の時に、台湾の一般家庭にホームステイするという民間の青少年海外交流プログラムに参加し、見事ホームシックになって、期間の2週間中ずっと泣き続けた私は、
「人間はひとりじゃ生きていけないって気づいた」
なんてことを言った。
けれど、小学生以来信じ続けてきたこの気づきは不十分で、
「人間はひとりでは生きていけないけれど、ほかの人間には究極的には関心が無くて、自分一人が幸せになりたいのだ」
のほうが正確なのではないか、と思えてならないこの頃である。
信頼って、何だろう。
信じるって、何だろう。
絶賛の人間不信が炸裂した今回であったが、とりあえず新たな出会いを見つける必要があることは、明白ですね。
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