第1192回「「空」を感じるには」

先日お世話になったプラムヴィレッジのブラザー・ファップ・ユン師から書をいただきました。

emptyと大きく書いています。

そのあとに、of a separate self  entity と書かれていました。

空とは、分離された自己自身というものがないという意味です。

島田啓介さんからいただいたティク・ナット・ハン師の『大地に触れる瞑想』には、こんな言葉があります。

「すべては無常であり、分離した個という実体はないことを理解します。」

という言葉です。

まさにこれが「空」ということです。

更にティク・ナット・ハン師は、

「あなたと、父なる太陽と、すべてのブッダ、菩薩は、同じ本質をもちます。

究極の次元では、あなたの寿命、父やすべての存在、葉っぱや花のつぼみなどはことごとく永遠であり、生と死、存在と非存在を超えていることがわかります。」

と説かれています。

また『大地に触れる瞑想』には、食事についても説かれています。

「食事に手を合わせるとき、私は呼吸に気づきながら心と体をひとつに合わせます。

その純粋な気持ちと気づきによって、私は食卓の上の、器の中の食べ物を見つめ、五つの深く見つめる瞑想 (五観)を行います。

1.この食べ物は、宇宙全体、地球、空、数え切れないほどの生き物たち、多くの努力と愛ある働きによってもたらされた恵みです。」

というように五つの言葉が書かれています、

そのあと、

「茶碗の中のご飯を見つめると、それは大地や空からの贈り物だということがはっきりとわかります。

その中には田んぼや野菜畑、太陽の光、雨、堆肥、そして農家の人びとの多くの働きが見えます。

美しい金色の麦畑、麦刈りをする人たち、 脱穀する人、パンを焼く人たちも見えます。

大地に豆が蒔かれ、成長してサヤができていくのも見えます。

リンゴ園、梅園、トマト畑、それらの果樹を世話する人たちも。

ハチやチョウが花から花へと飛びかい、 花粉を集めハチミツを作り、それを私はいただきます。

今この手にあるリンゴや梅、しょうゆに浸す野菜のゆでた一枚の葉っぱを作るために、宇宙の元素の一つひとつが働いています。私の心は感謝と幸福で一杯になります。」

と説かれています。

一椀のご飯をいただくにしても「空」を感じることができます。

また、「空」の世界を体感するために、禅の修行では「無になれ」と教えるのであります。

何が「無」になるのかというと、それは我執が無になるのです。

森信三先生は『不尽聖典』の中で次のように言っています。

 宗教とは、第一に「我執」という枠が外れること。
 第二には、現実の世界そのものがハッキリと見えるようになること。
 第三には、この二度とない人生を、力強く生きる原動力となること。
 真の宗教には、少なくともこうしたものが無くてはならぬでしょう。

この我執というのは「我に対する執着、自分さえよければという気持ち、わがまま」のことです。

我執があるから、私たちはこの現実の世界を自分の都合のよいようにしか見ないのです。

しかし、それではこの二度とない人生を力強く生きることはできないのです。

争い、競い合って終わってしまうのです。

まさに仏陀が説かれたように、

勝つ者 怨みを招かん 
他に敗れたる者 くるしみて臥す 
されど 勝敗の二つを棄てて 
こころ安静なる人は 
起居(おきふし)ともに 
さいわいなり(『法句経』201、友松円諦訳)

なのです。

何が無になるかというと、わがままなものの見方、考え方が無になるのです。

分離され、隔絶された自己という実体が無になるのです。

無になることによって現実の世界そのものがハッキリと見えるようになり、この二度とない人生を力強く生きる原動力となっていくのです。

一遍に空を体感し理解することはなかなか難しいものですから、まずは「諸行無常」ということを観察してゆくのです。

すべてのものは移ろいゆく。

毎日毎日、刻々と変わっていくのです。

私たちは、本当は変わらないものが欲しいんです。

今年も去年と同じようにやっていると安心です。

今までのように同じことができないと不安になります。

でも、すべてのものは一瞬一瞬移ろいでいくのです。

これが真理であります。

そこに常住不変のものはないのです。

それからもう一つ、お釈迦様が説かれた真理は「諸法無我」です。

無我というのは独立して存在しているものではないということです。

孤立して、それだけで存在しているものは何一つないとお釈迦様は説かれました。

我々にしても、両親のお陰で命をいただいたのですし、世間の皆さんのお陰で今、生かされているのです。

私はたくさんの方々のお陰で生かされています。

自分だけで存在しているのだという思い込みを否定するのです。

そうすることで「涅槃寂静」という心境を得ることができます。

これは「己れなき者にやすらいあり」ということです。

「己れなき」というところが、分離された自己という実体がないことなのです。

それは本当の安らぎです。

私たちは刻々に移り変わって生かされています。

そして、自分ひとりで生きているのではなく、皆さんのお陰で、多くのものの関係性の中で生かされています。

自分の命というものは、自分だけに大事なものではなく、多くのものの命の関わり合いの中にある大切な命であるから、自分も皆のために尽くそう」ということになります。

つまり、無になることが力強く生きる大きな原動力となっていくのです。

空を体感することで、現実が分離された物ではなく、お互いに関わりあっているとはっきり見えて、力強く生きる原動力ともなるのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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