【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と…

【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と呼吸瞑想」を中心に毎月の「日曜説教」、短い法話の「一口法話」などお伝えさせていただきます。 【公式ホームページ】https://www.engakuji.or.jp/

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第1215回「ゆったり心を落ち着けるには」

四月の最後の日曜日に、一般の方の布薩を開催しました。 いつも第二日曜日に行うのですが、四月は第二日曜日の午後から講演が入っていたので、月の終わりになってしまいました。 今回の布薩では、礼拝を丁寧に行うことを意識してみました。 全体で、二十七回の礼拝を繰り返しますが、それを呼吸に合わせて行うようにしてみました。 基本的に、体を屈める、下に向くときには息を吐いてゆき、体を起す、起き上がるときに吸っていくのです。 これを一つ一つの動作に合わせて、息を吐いて、腰を折り曲げて、息を吸って起き上がり、息を吐いて頭を床につけ、吸いながら起き上がるというように行ったのでした。 そうしますと、よい効果が得られたようで、何度も参加されている方からもとても体も心も調ったという感想をいただきました。 二十代のお若い方で初めて参加された方もいらっしゃって、心が調ったという感想をいただきました。 戒の言葉を現代語訳で唱えながら、礼拝するので、言葉の意味を深く考えられたという感想もございました。 ホトカミの吉田亮さんと、ホトカミの方もご一緒にご参加してくださっていました。 その次の日は都内でイス坐禅の会でありました。 いつもは平日の六時半から八時半まで行っていますが、四月は私の予定がこんでしまって、平日に行う事ができなかったのでした。 そこで唯一空いていた二十九日のお昼一時半から三時半まで行ったのでした。 貸し会議室なのですが、平日だといろんな会議などがたくさん入って大勢の人が出入りしています。 ところが今回は連休中でもあって、会議などもほとんどなく閑散としていました。 大燈国師というお方は、京の四条五条の往来はげしい橋の上でも坐禅できないといけないと仰っていますが、多くの人が行き交う中でも静かに坐ることができないとならないのですが、やはり人間、静かな方が落ち着くものであります。 イス坐禅の会も昨年から始めてもう十一回になります。 毎回、あれこれと工夫してきました。 紙風船を使ったり、テニスボール、ゴルフボールを使ったり、ひもトレを行ってみたり、体を整える為に学んだことをあれこれとやってきました。 いろいろやってみて、イス坐禅の要領を四つにまとめることができました。 一、首と肩の調整 二、足の裏、足で踏む感覚 三、呼吸筋を調整 四、腰を立てる この四つなのです。 今や多くの人はデスクワークが多かったり、スマートフォンを見たりで、首が前になり、肩も巻き肩になりがちであります。 このまま坐っても深い呼吸ができません。 そこでまず肩や首をほぐして、安定させるようにします。 それから、足で地面を押して立つ、そのために足の裏を刺激してゆきます。 そうして呼吸をするのは肺ですから肺を、上下、左右、前後ろとそれぞれ広げるように運動をします。 そうして、腰椎五番を立てる体操をして坐ると心地よく坐れるものです。 今回はタオルを使って、肩や首をほぐすようにしてみました。 それから白隠禅師が画に描かれている狐の手を使ったワークも試みてみました。 手の指と肩が連動しているところから、狐の手をして肩甲骨を動かすという体操を行ってみました。 これは肩甲骨がほぐれてよかったというお声をいただいたので、成功でした。 今回も五十分かけて体を調えて、十分坐るということになりました。 そのあと、三十分ほと話をしました。 今回は、臨済録にある 「道流、心法無形、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては論談し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。」という一節を取り上げました。 岩波文庫『臨済録』にある入矢先生の現代語訳では、 「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹見したならば、いかなる境界にあってもそのまま解脱だ。」となっています。 心というと、体の中におさまっているように思いがちですが、もっと広く大きいものです。 その広い心が仏心です。 朝比奈老師は、「人は佛心のなかに生まれ、佛心のなかに生き、佛心のなかで息をひきとるのだ。 生まれる前も佛心、生きているあいだも佛心、死んだ後も佛心、その尊い佛心とは一秒時も離れない」と仰っています。 その仏心に気がつくために坐禅をします。 「坐禅をするということは、人はそういう尊い心のあることを信じて、心を静かに統一して、心が落着くところに落着けば、自然に雑念妄想は遠のいてしまう。 狭い心もだんだん広くなり、ザワザワしていた心も落着き、暗い心も明るくなり、カサカサしていた心もうるおいが出てくる。」 と朝比奈老師は説かれていますが、そのようにゆったり心を落ち着けるのはいろんな条件を調えないといけません。 まず土台となるのは、戒に基づいた暮らしです。 その上で食事や睡眠を調えて、更に姿勢を調えます。 そんな短い話をして後半の坐禅では白隠禅師の内観の法と軟酥の法を実践しました。 先日平林寺の老師に教わった方法で行ってみました。 これがとてもよかったという感想をいただきました。 やはり昔から伝わっている方法は素晴らしいのです。 初めて参加したという方からは、腰が立つという感覚がよく分かりましたという感想もいただきました。 おちついてしっかり肺を広げて呼吸するイメージができ気持ちよく坐れたという感想もいただきました。 印象的だったのは、イス坐禅の会を終えて片付けをしていると、ある方が私に言ってくれた言葉です。 その方はご職業柄、移動の多い仕事らしく、腰痛などで苦労してたそうですが、イス坐禅の坐り方でとても移動が楽になったと、晴れやかなお顔で報告してくれたのでした。 その通り、長時間の移動でも腰が楽になるのです。 今回は円覚寺で修行して今やお寺の住職になっている方も参加されました。 上半身が柔らかくなると、呼吸が楽になり、重心が下がって心地よく坐れると感じたと感想をいただきました。 熱心な和尚様でいらっしゃいます。 イス坐禅も多くの方に弘めてゆきたいと改めて思いました。 ただ、いただいた感想の中には、布薩にしろ、イス坐禅にしろ、申し込もうと思ってもすぐに満席になるらしく、たいへんだという意見がありました。 これは頭の痛い問題であります。 なんとか工夫をしてみます。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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      第1214回「季刊『禅文化』 – 南天棒老師の特集 –」

      中学生の頃の愛読書のひとつに『禅に生きる傑僧 南天棒』という春秋社の本があります。 一九六三年に春秋社から発行されています。 こんな書物を、中学の頃に、実に「血湧き肉躍る」思いで読みふけっていたものです。 当時私が南天棒老師に抱いた印象というのは、恐ろしい禅僧なのであります。 写真を拝見しても大きく太い南天の棒を持って、今にも打ちかかってきそうであります。 中学生の頃から、公案をもらって坐禅していましたので、私は自分の部屋で坐禅するときに、その恐ろしい南天棒老師が、大きな棒を構えて目の前に坐っておられると想像して坐ったのでした。 こちらがボヤボヤしていてはあの棒で打たれてしまいます。 真剣に坐らないといけません。 そんな南天棒老師というのは、どういう方なのかを知るには、今回発行された季刊『禅文化』二七二号がよろしいかとお薦めします。 まず『禅文化』にある南天棒老師の年譜をもとにご生涯のあらましを紹介します。 お生れは天保十年、西暦一八三九年、 長崎県唐津であります。 七歳の時にお母様をなくされています。 この亡き母を思う心が出家の一番のもとになっています。 十一歳で出家し、平戸 (長崎県) 雄香寺の麗宗全沢老師の下で修行されました。 十八歳で圓福僧堂(京都府) に掛塔します 二十歳の時に圓福僧堂に「誓詞の松」 を植えて、大悟の大願を立てられました。 二十三歳で梅林僧堂(福岡県)に掛搭されました。 二十七歳で梅林寺の羅山元磨老師より印可を受けます。 その後、諸国を行脚して二十四人の老師方に参禅されています。 三十一歳で大成寺 (山口県) に住しました。 四十七歳で本山の特命により、 麻布 (東京都) 曹渓寺に東京選仏道場を創設します。 更に四十八歳、山岡鉄舟の尽力で市ヶ谷 (東京都) に道林寺を開創しました。 五十三歳で松島(宮城県) 瑞巌寺にお入りになっています。 五十五歳で「宗匠検定法」を本山へ提出します。 六十四歳で西宮(兵庫県) 海清寺に入寺します。 以後二十二年 「人作り」に東奔西走しています。 八十歳で海清寺開山・無因宗因禅師五百年遠諱を厳修します。 その際、自身の「入定式」 (生前葬) を行っています。 西暦一九二五年、数え年八十七歳でご遷化なされました。 特筆すべきは、印可を受けてから更に二十四名の老師方に参禅されていることです。 そして更に南天の棒を大分の山の中で切り出して、それをもって再行脚し、全国の老師方を点検して回ったというのです。 宗匠検定法というのは、当時の師家全員を本山に呼び寄せて問答して再試験をして、合格しないと師家の資格を剥奪して再行脚を命ずるという内容のものです。 乃木希典大将が参禅されたのが、この南天棒老師でありました。 そんな南天棒老師のことについて、今回の『禅文化』で、圓福寺僧堂の師家である政道徳門老師と対談させてもらって、巻頭に記事にしています。 これは各先生方の論文だけですと、どうしても難しい内容になってしまいがちなので、一般読者にも読みやすいように、対談を最初にいれています。 対談していろんなことが話しあえて、理解が深まったのですが、なんといっても政道老師が、お師匠さまの加藤月叟老師の言葉を教えてくれたことでした。 対談をしたのが、南天棒老師が住された西宮の海清寺でありました。 その対談した前の日に南天棒老師百年諱の法要が営まれたのでした。 本堂には頂相、遺偈と共に、南天棒老師の「達磨図」 (南天棒自画賛 海清寺蔵)がかけられていました。 政道老師は「今回の齋会で、ぜひ掲げたかった一幅です」と言って紹介してくださいました。 そして政道老師は「私が雲水のとき先師 (加藤月叟老師) が海清寺から借りてきて曰く、『今まで私は間違えていた。 この達磨さんの絵を見て、この方はこんなに純真な方だったんだとわかった」 」 と仰ったことでありました。 達磨の画を描くと、その描く人本人が露わになると言われますが、実に南天棒老師の真面目が現われています。 この達磨図も対談記事の中に写真で掲載されています。 特集には「南天棒 その生涯と思想展開」として、 モール・ミシェル先生が「二つの居士禅ー南天棒老師と釈宗演老師」と 蓮沼直應先生が「明治の瑞巌寺と南天棒」と 堀野真澄先生が「南天棒の書画ー衆生接化の苦行」と 花園大学の福島恒徳先生「南天棒のことば」と 衣斐弘行和尚、「南天棒と乃木将軍」と寳積玄承老師がそれぞれ玉稿を寄せてくださっています。 実に読み応えのある特集であります。 ほかに「リレー連載 叢林を語る」はこのたび妙心寺の管長にご就任遊ばれた、正眼僧堂の山川宗玄老師が登壇されています。 「誌上提唱」『碧巌録』は第三則 馬大師不安を安永祖堂老師が提唱してくださっています。 また「修行者たちのために 東陽英朝「大道眞源禅師小参」を読む」は河野徹山老師の提唱です。 「唐物と禅」は最終回で「破れ虚堂」について彭丹さんが書かれています。 「世語を楽しむ」も最終回で、重松宗育和尚が書いてくれています。 「岡村美穂子先生のこと」として書いてくれている前田直美さんの文章は秀逸です。 「永平道元の四六文」を西尾賢隆先生「初めての人のための漢詩講座」は平兮正道先生です。 「禅における心身について」の連載は「何もしないことに全力をあげる」河合隼雄から学ぶ禅の姿勢」として佐々木奘堂和尚が書いてくれています。 河合隼雄先生の「私は時に、自分の仕事の理想は「何もしないことに全力をあげる」ことではないかとさえ思う。 人びとは自分の力で治ってゆく。 自分の力で治ってゆく人の自己治癒の力を最大限に発揮させる最良の方策は、他から余計な力を介入させないことだ。 こんな観点からみると、心理療法家としての失敗は、何かしなかったためよりも、何かしたために生じることの方が多いように思われる。」 という言葉を引用されて、「この言葉を安直に受け取ると必ず、「全力をあげる」が抜け落ちてしまい、ただ「何もしない」になってしまいがちです」と書かれて、「何もしない」ことの弊害を論じてくれています。 禅の修行もまたただありのままでよいという悪い「平常無事」になってしまう恐れがあります。 そのへんを佐々木奘堂さんが手厳しく論じてくれていますので、大いに励まされます。 今回も季刊『禅文化』をお薦めしておきます。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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        第1213回「良い言葉が力を生み出す」

        湯島の麟祥院で、榎木孝明さんの古武術の講座があると知って、先日受講してきました。 麟祥院でチラシを見て、ご住職にお願いして参加したのでした。 そっと会場の片隅で受講しようと思っていましたが、会場に入ると何と既に榎木さんがいらっしゃいました。 これはご挨拶しなければと思って、名乗りますと、既に私のことをご存じで、還暦ですねと言われたのには驚きました。 榎木さんは八つ年上でいらっしゃいます。 姿勢もよろしく、さりげない身のこなしもさすがでいらっしゃいます。 これは「榎木孝明さんに学ぶ 親子で古武術体験」というものです。 私は修行僧を一人、自分の子どもとして参加したのでした。 まずはじめに礼をすることを学びました。 正しく坐ることからでした。 正坐して背筋を伸ばして、左手をつき、次に右手をついて両手で三角形を作って、そこに顔を近づけてゆくのです。 背筋を伸ばしたまま頭を下げます。 はじめに少しお話がありました。 日本人の体の動かし方の変化についてお話してくださいました。 明治維新から、軍隊の訓練のために西洋式の体の動かし方を教えるようになりました。 軍隊にはいろんな方が入るので、それを一様に訓練する為に西洋式の方法を取り入れたのです。 江戸時代の飛脚は一日に七十キロから八十キロ走っていたそうです。 そんな走り方と、今のランニングとは全く違うのだそうです。 日本人独自の歩き方、体の使い方があったのでした。 手を振って歩いたり、手を振って走ることはなかったのです。 古い画をみても手を振っている画はないそうです。 手を腰にあてて、薄い氷を踏むように、或いは一面に水をまいてその上に和紙を置いて、その和紙を破らないように歩くのです。 上体はほとんど動きません。 この歩き方を皆で実習しました。 こんな歩き方が日本の伝統芸能に残っているとのことです。 能の歩き方などはまさにその通りです。 それから横になって寝ている人を起してあげる方法を習いました。 頸の骨の下のところに手をあてて、起してあげるのです。 その時に言葉を使うことを教わりました。 有り難うと言って、手をあげるとスッと起きるのです。 ところがバカヤローと言うと、起きないというのです。 これも実際にやってみると、相方の体はなかなか簡単には起き上がりません。 榎木さんが、私が修行僧をなかなか起こせないのを見かねてご指導してくださいました。 手や肩は脱力していないとうまくゆかないのでした。 ご指導いただいた通りに行って有り難うと言って起すと実にスッと持ち上がりました。 横になっている人を起き上がらせるのも教わりました。 これも少し習うとうまくできました。 それからまっすぐに立っていて、踵と持ち上げてストンと三回ほど落とし、更に肩を持ち上げてストンと二三回落として立つと正中線が決まって、前から、或いは横から押しても動かないようになります。 そして自分の名前をいうと押しても動かないのです。 ところが人の名前を言うともろくなってしまいます。 これはおそらく、誰の名前にしようかなどと、考えるので、調った線が崩れてしまうのだと思いました。 また先生は、人の正中線を崩すことが出来るといって、実演してくれていました。 手で何かを抜くような動きをしていました。 確かにそれで何か抜かれたように崩れてしまいます。 私は、自分ならなんとか抵抗できるのではないかと思っていました。 するとそんな思いが読まれたのか、やってみましょうかと先生が私の方に寄ってきてくださいました。 なんと見事に気を抜かれてしまったのでした。 脳の奥にある松果体に働きかけるのだと仰っていましたが、こちらは私などには不可解なところでした。 人を引っ張るにも力で引っ張ると抵抗されますが、力を抜いて気で引くと、すっと引くことが出来るということも学びました。 最後に、先生が手の力を抜くのに親指と中指薬指を合わせて狐の手をして実演してくださっていました。 私はそれを見てハッと思い出しました。 白隠禅師の画に出てくる人物のほとんどは、手を狐にしているのです。 これが何故なのか、なんの意味があるのか、ずっと不思議に思っていましたが、脱力の手なのだと思ったのでした。 講座のあと先生に、狐の手は、何にもとがあるのですかと聞きましたが、先生は昔から言われていることだと仰っていました。 講座の終わりに少し黙想をして、それから礼をしました。 これだけで疲れが取れてスッとします。 よい言葉がよい気の流れを生み出すということを丁寧に教えてもらったのでした。 終わりに麟祥院の矢野ご住職が春日局についてお話下さいました。 麟祥院を建立したのは春日局です。 春日局は、三代将軍徳川家光の乳母でした。 家光公がまだ竹千代と呼ばれていた幼い頃、乳母をお務めの春日局は、泣いている竹千代に「智仁武勇は御代の御宝」という言葉を度々掛けて、あやし育てていたそうです。 智は、考える力、思考力、知恵です 仁は思いやり、優しさ、慈悲です 武 は行動力、実行力。 勇は誠実、正直です。 この四字こそが「一生の宝」だと、家光公を育てたのでした。 ところがこの逸話が江戸の庶民に伝わって「智仁武勇」がいつの間にか「ちちんぷいぷい」と変化して世の中に広まっていったという話でした。 これは初めて知った話でした。 榎木さんから直接ご指導いただいて、多年疑問だった狐の手についても分かって、よき学びでありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1212回「よき友を得ることは道のすべて」

          四月の末に上洛して、妙心寺に参りました。 河野徹山老師が、妙心寺に歴住開堂なされ、その式典に参列するためであります。 開堂というのは、初めて正式に説法することを言います。 妙心寺の住持となって、法堂に上って説法をなされる儀式なのです。 住持となるといってもそれは形式的なもので、また大乗寺にお戻りになります。 ただ妙心寺の第七百十世という世代に入るのであります。 その開堂をなされた老師方が順番で妙心寺派の管長に就任されるようになっています。 私も、もう二十年ほど前に円覚寺でこの歴住開堂という儀式を務めて、円覚寺の第二百十八世という世代を嗣いだのでした。 それから後に管長に就任したのでした。 今日でいえば管長に就任する、ひとつの資格となっています。 河野老師とはもうかれこれ四十年のご縁をいただいています。 『円覚』平成二十七年の春彼岸号に河野老師のことを書いていますので、引用します。   「私には大学時代から共に坐禅していた友がいます。筑波大学には開学記念館の中に立派な坐禅堂があり、私も在学中サークル活動として坐禅をしていました。私の二年後輩に河野君という好青年がいて、私が卒業後は彼が坐禅会の中心となってくれました。   河野君は縁有って、埼玉県野火止の平林寺で出家して修行されました。私とは在学中も、更に鎌倉の円覚寺に来てからもずっとおつきあいをいただいていました。「無二の道友」であります。 平成二十年にその河野君が、なんと宇和島の大乗寺の僧堂の老師として御住職されることになりました。初めてお寺に入るという儀式の日に、私も鎌倉から随喜致しました その時、初めて「ここが坂村真民先生の坐禅されたお寺だ」と感慨深く訪ねました。 平成二十二年に私は円覚寺本山の管長に就任し、同じ年に河野徹山老師は正式に寺の住持となる晋山式をあげられました。」 「今や河野老師は四国唯一の僧堂を守り、雲水の指導にあたっておられ、今日の老師方の中でも私の最も尊敬申し上げる方であります。   そんな老師と大学時代からご縁をいただいて、修行時代も折に触れてご教導いただいてきました。よき友に恵まれることの有り難さを思います。」 と書いています。 大乗寺にお入りになってからもう十六年も経ちます。 入寺なされてから、境内の整備に力を尽くされて、ようやく一通り完成して法要をいとなまれました。 やれやれという矢先、なんと西日本豪雨で大きな被害を受けられたのでした。 それでも根気よく復興なされて、このたびの慶事となったのでした。 誰よりも老大師ご自身感慨無量だったと思います。 また私も長年のおつきあいをいただいてきましたので、今回いろいろな事が思いおこされて感慨尽きざるものがありました。 前の日に花園会館で、老大師のお隣で食事をさせていただきました。 四国から大勢の和尚様方がお見えになっていて、お一人お一人に丁寧に挨拶されているお姿にも心打たれました。 もうすっかり四国の地に根を張られたのだと思いました。 老師のことを思うと、いつも思い出すお釈迦様の話があります。 お釈迦さまのお弟子の阿難尊者がある時にお釈迦さまに尋ねしました。 「よき友を持つということは、聖なる修行のすでに半ばを成就せるにひとしいと思いますが、いかがでありましょうか」と。 それに対してお釈迦さまは答えました。 「阿難よ、そうではない。よき友を持つということは、聖なる修行の半ばではなく、そのすべてである」と。 老大師は、私にとってはかけがえのない道の友であります。 開堂の式典は、とてもよいお天気で老大師のお人柄を思いました。 朝八時に、山門からお入りになるところからお迎えさせてもらったのでした。 山門で法語をお唱えしてお入りになります。 それから、仏殿で法語を唱え、妙心寺を守る土地の神様に法語を唱え、そして歴代の祖師に法語を唱えて礼拝されます。 そのあとに視篆という儀式があります。 これは新住持が入寺してその寺の印を受け取って見るという意味があります。 仏殿の中で古式に則って丁寧に行われていました。 私もふと二十年前に行ったことを思いおこしたりしていました。 この式典には、いつもお世話になっている小川隆先生も参列くださいました。 小川先生といつも共に研究しておられる張超先生もご一緒でありました。 張超先生は宋代の清規の研究をなさっておられて、この度の儀式をとても感慨深くご覧になっておられました。 古い書籍に書き残されていることが今も継承されていることに感銘を受けておられたようであります。 形骸化したものと言われば、それまででありますが、こういう古からの伝統を伝えるということも私たちの大事な勤めであります。 また守るべきものをしっかりと守り伝えているからこそ、それを基盤にして自由な活動も出来るものであります。 十時半から、法堂に於いて上堂の儀式が厳かに行われていました。 老大師は禅籍についても実に綿密に研究考証されていますので、丁寧な学識深いものでした。 それでいてお心がこもっていましたで、拝聴していると、四十年来の思い出の数々も相俟って感慨無量でありました。 私如きが、一応管長という肩書きがありますので、河野老師の開堂に、一番筆頭で参列させてもらったのでした。 なんとも有り難いご縁でありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

        第1215回「ゆったり心を落ち着けるには」

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          第1211回「ZENエクササイズ」

          いよいよ本日五月一日です。 五月となりました。 四月の下旬、修行道場の大摂心を終えて、次の日には京都に行きました。 その翌日に愛媛県宇和島の大乗寺の河野徹山老師の歴住開堂という儀式に参列するために、前の日に上洛したのでした。 その前日の午後から花園大学で、禅文化研究所理事長の松竹寛山老師が、ZENエクササイズという特別講座を開いてくださっているので、是非とも参加しようと思って受講させてもらったのでした。 松竹老師は、ただいま野火止平林寺の老大師でいらっしゃいます。 老大師とは修行時代からとても懇意にしてもらっています。 長い間の道友であります。 老大師は、みそぎの修行や合気道のなどもかなりなさっていて、それから平林寺で長らく修行されて、更に心理学にも造詣が深いのであります。 平林寺の副住職の頃には、大学で講義もなさっておられたほどであります。 ZENエクササイズというのは、十人ほどの小さな講座であります。 当日は老大師をふくめて九名でありました。 またそれくらいの人数だからこそ出来るものだと思いました。 参加してみると、なんと前の学長であった丹治先生も参加なされていました。 丹治先生は臨床心理学の先生でいらっしゃいます。 私が総長に就任した時の学長でいらっしゃいました。 お久しぶりにお目にかかることができました。 なんでも丹治先生も学内で、この老大師のZENエクササイズという講座の案内をご覧になって興味をもって申し込まれたそうなのです。 講座はまずはウォーミングアップから始まりました。 からだをほぐす体操などは私なども修行道場でよく行っていますが、老大師のご指導では、一人ひとりが自分の思いついた簡単な動きをします。 それをみんながまねをして、また次の人が独自の動きをしてみんながまねるというものです。 一人が屈伸運動をすると、ほかの皆がそれをまねするのです。 私は両手をあげて、天井に向かって横に8の字を書く運動をしてみました。 これだけでも九人がみんなひとつになってゆく感じがしたのでした。 それからフルーツバスケットというゲームをしました。 それから更にボイスアプローチというのがあって、呼吸、声をきたえるワークをしました。 これは恐らくみそぎの修行がもとになっているのではないかと思われるものでした。 手を振り下ろす動きをしながら、しっかりと声を出してゆくのです。 四弘誓願を皆で読みましたが、ゆったり読むのではなくて、一息一息手を振り下ろす動作をしながら読むのでした。 それから、心身をととのえるイメージアプローチというのを実習しました。 こちらは老大師が多年習われていた合気道がもとになっていると思いました。 折れない腕というのを二人一組になって作ります。 ただボヤっと手を伸ばしていたのでは、相手に曲げられるとスッと曲がってしまいます。 しかし体を消防のポンプのように思って、手からピューっと水が勢いよく出ているとイメージするのです。 そうしますと、手が曲がらないようになるのです。 折れない腕ができあがるのであります。 イメージを使った方法なのです。 それから合掌、頭を下げる問訊、そして叉手という形も同じようにイメージを使って決めてゆきました。 合掌の姿勢でも、ボヤってしていると押されて動いてしまいます。 ただ消防ポンプのイメージで、指先から水が勢いよく出ているとイメージすると、不思議なことに、相手に前から上から押されても微動だにしなくなるのです。 そうしてひとつひとつの動作を決めてゆきました。 一、二、三と号令をかけて決めてゆくのです。 そうして内観の法を教えてくださいました。 内観の法は白隠禅師が白幽仙人から教わったという独自の方法です。 気海丹田、腰脚、足心と意識をしてゆきます。 私もこれを実習することがありますが、松竹老大師は、実際に気海丹田をさすり、腰脚を両手でさすってしっかり意識してそして脚の裏を床にこすりつけるようにして意識をしてゆくのでした。 更に軟酥の法も教わりました。 これも私などはイメージだけで行っていましたが、老大師は、実際に両手をこすってお薬を作るというイメージをして、それを頭の上に乗せて、更に両手で顔の前の方を浸してゆくように仕草をしながら行うのでした。 これはとても勉強になりました。 こんどイス坐禅の折にでもやってみようとか思ったのでした。 休憩を挟んで、こんどはサイコロジカルアプローチで、自他理解を深めるというワークを行いました。 そのなかで興味深かったのが、公案になってみるZENドラマというのを皆で行ったのでした。 まずは無門関の第一則「趙州狗子」の公案です。 これは「ムー」と無そのものになってみるのです。 無門関では「ある僧が趙州に尋ねました。 「狗にも仏性がありますか」趙州は「無」と答えたという問答です。 そこで、ある一人を決めて他の八人が、その人に、それぞれ「烏にも仏性はありますか」「猫にも仏性がありますか」と聞いてゆきます。 問われた人は、ただそれぞれに「ムー」と答えてゆくのです。 一人一人順番に行ってゆきました。 それから無門関の第三則 「俱胝豎指」を行いました。 これは、俱胝和尚は (禅に関して) 尋ねられたときにはいつでも、一本の指を立てるだけでありました。 それを童子が真似をしたという問答です。 一人の人を決めて他の八人がそれぞれ質問を投げかけます。 「禅とは何ですか」「無とはなんですか」「仏法とはなんですか」と聞きます。 何を問われてもただ指一本を立てるのです。 指一本を立てられたのを見て聞いた方も真似をして指を立てます。 それをみんなで一巡するまで行います。 それから碧録第五十三則 の「百丈野鴨子」の公案を全員で演じてみました。 これはこんな公案です。 「馬大師が百丈と歩いていた時のこと、 野鴨が飛び去るのを見ました。 大師 「あれは何だ!」 百丈 「野鴨です」 大師 「どこへ行った?」 百丈 「飛んで行ってしまいました」 馬大師は百丈の鼻をひねり上げた。 百丈 「イタタタッ!」 大師 「なんだ、飛んで行ってなどおらぬじゃないか」 という問答です。 老大師が誰か馬大師をやる人はいませんかと言われたので、私が真っ先に手をあげて馬大師になりました。 相手の百丈の方を決めました。 その他の人たちは、野鴨となったのでした。 野鴨たちがパタパタ羽根を羽ばたかせながら飛び立ちます。 馬大師になった私が「あれは何だ」と問います。 百丈役の方が、野鴨ですと答えます。 どこへいったと私が問いますと、飛んで行ってしまいましたと答えます。 鼻をひねりあげるのはさすがに、仕草だけであります。 イタタタといったところで、飛んで行っておらぬではないかと言って、そのまわりを鴨たちが飛んで回るのです。 どれも難しい禅問答なのですが、こうして楽しく学ぶことができるとは驚きでありました。 それから最後にサイコドラマというのを行って終わったのでした。 これは少し説明するのが難しいので省かせてもらいます。 自分ことを他の人の身になって見てみるのです。 自分ことを俯瞰できるようになるものでした。 ともあれ、二時間の講座が楽しくアッという間に終わったのでした。 こんな老大師がご指導なされている修行道場は素晴らしいと思いました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1211回「ZENエクササイズ」

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          第1210回「心を調えるには」

          修行道場で、一週間にわたって、『天台小止観』の内容について講義をしていました。 実際に坐禅をするのに、いろいろな方法が説かれていて、初心の者にはたすかります。 また長年修行していても参考になるものです。 最終日には、呼吸と心の調え方を講義していました。 呼吸について『天台小止観』には次のように説かれています。 大東出版社から出ている『天台小止観』にある関口真大先生の現代語訳を参照します。 「初めて坐禅に入るときに息を調える方法について述べよう。 呼吸にはおよそつぎのような四種類の相がある。 一に風、二に喘、三に気、四に息という。」 とあります。 四種類に分けて説かれています。 「このなか前の三種は調わない相で、後の一種だけがよく調った相である。」 というので、「風、喘、気」という三つはまだ十分調っていない状態なのです。 それぞれ次のように解説されています。 「ところで風といわれるのは、坐禅のとき、鼻のなかの息に出入の音があるのが、それである。 喘の相とは、坐禅のとき、呼吸に音はしないけれども、しかも息の出入に結滞があってなめらかでないのを喘という。 気の相とは、坐禅のとき、音もなく、また結滞もないけれども、しかも出入がなめらかでないのを、気という。 息の相といわれるのは、声もなく、結滞もなく、粗くもなく、出入が綿々として、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて安穏に、よい気持ちになる。 これが息である。」 という四つなのであります。 「風といわれる状態でいると気が散る。 喘といわれる状態の呼吸をつづけていると心にもむすぼれができやすい。 気といわれる状態の呼吸をつづけていると、やがて疲れがでる。 息といわれる状態の呼吸をつづけていれば、心がおちついてやがて定まってくる。 つまり風・喘・気の三種の相があるときは、これを調わない呼吸といい、坐禅にはまた患のもとともなる。心も定まりにくい。」 と説かれています。 そこでどうしたら調うのかというと、 「もしこれらを調えようとするなら、まさにつぎのような三種の方法を試みるがよい。 一には、精神を体の下のほうにおちつけて、そこに精神を集結する。 第二には、身体を寛放してみる。 第三には、気があまねく全身の毛孔から出入していて、それを障礙るものがないと観想することである。 もしその心を静かにしていれば息も微微然となり、息が調えば、患は生じないし、その心も定まりやすい。 これをわれわれが初めに坐禅をするときに息を調える方法とする。」 と丁寧に書いてくださっています。 それから次には心を調えることです。 これは 「初めに坐禅をするときに心を調えるということには、およそ二つの意味がある。 一には、乱れがちな心をおさえて、外の余分なことにむかってかけだしたりしないようにすること、二には、まさに沈・浮・寛・急をほどよく所を得させることである。」 と書かれていて、自分の心が「沈・浮・寛・急」のどの状態になるのかを観察して、それぞれに応じて調えてゆくのであります。 まず「沈といわれる状況は、坐禅をしていて、心がうす暗く、記憶もはっきりせず、頭がどうしても低く垂れがちになることがある。 これを沈という。 そういうときは、精神を鼻の頭に集中し、心をつねに一つのことのなかに集注して分散させないようにする。これが沈を治す方法である。」 と書かれています。 気持ちが沈むような時には、心を上の方に向けるのです。 私などは、少し目もはっきりと開けて坐るように心がけています。 また坐布というお尻のところを少し高めにするということも気をつけたりしています。 気持ちが沈む時というのもあるものです。 それから次は 「浮というのは、坐禅をしていて心が好んでゆれ動き、体もまた落付かないで、ついほかのことを考えたりしてしまうことである。 これを浮という。 そういうときには、心を下方に向けておちつけ、精神を臍に集注し、乱れがちな心を制するようにする。 心が定まっておちつけば、心は安静になる。 要点をあげてこれをいえば、沈ならず浮ならず、これ心が調った様子である。」 ということです。 心が落ち着かないような時には、へそ下の方に意識を向けるのです。 それから、「急」というのは、「坐禅のときには坐禅のなかに心のはたらきの全体をあつめて、それによって禅定に入ろうと努力することに原因する。 それ故に気が上方に向かいがちで、胸憶が急に痛むようなことがある」というのです。 「そんなときには、一度その心をとき放した上に、気はみな流れ下ると想うがよい。 それだけで思いは自然になおる。」 と説かれています。 それから「心が寛である相とは、心志がだらけ、体が斜めにのめり込むような気持ちがしたり、あるいは口から涎が流れたり、あるときは心が暗くなったりする。」 時であります。 だらけるとか、心がゆるんでしまうときです。 「そのようなときにはまさに姿勢をきちんとしなおし心をひきしめ、心を一つのものごとのなかに集注し、身体をしやんとする。 それで治る。」 と説かれています。 白隠禅師なども「心火逆上してのぼせあがり、肺が衰え、両脚は氷雪の中に漬けたように冷え切」る状態になっていたので、気を下に流すために、内観の法や軟酥の法を用いたのだと思うのであります。 よく心を調えておいて、それから臨済禅の場合は、公案の修行に入ってゆくのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1209回「『無門関』に学ぶ」

          はじめて禅の書物に触れたのが、『無門関』でありました。 忘れもしない小学生の頃でありました。 市内にあるお寺の坐禅会に参加して、そこで和歌山県由良町の興国寺の目黒絶海老師が『無門関』を御提唱なさるのを拝聴したのでした。 夏の坐禅会でした。 絶海老師は茶色い麻のお衣で、太鼓の合図で本堂に出て見えたのを覚えています。 なんとも小柄な老僧でありました。 その絶海老師がご提唱の前にご本尊に焼香して礼拝なされました。 これがなんとも神々しく思われました。 こんな尊い世界があるのかと、子供心に身震いするような感銘を受けました。 その礼拝のお姿に心ひかれて、坐禅に通うようになったのでした。 「仏語心を宗とし無門を法門となす」という『無門関』の序文や、「趙州和尚因みに僧問う、狗子に還って仏性有りやまた無しや、州云く、無」という言葉など、『無門関』にある文章に初めて触れたのでした。 幼少の頃に身内の死に接して、死に対して疑問を抱えていた私には、この禅の世界に生死の問題を解決する道があるのではないかと思ったのでした。 そうしてお寺に通って坐禅しているうちに、お寺の和尚様から、ただ坐っているだけではだめだから、老師のところに独参に行ってきなさいと言われて、由良の興国寺まで行って相見して、参禅させていただきました。 まだ中学生だったかと思います。 絶海老師は当時興国寺の老師でありました。 興国寺は実に『無門関』を日本に伝えた心地覚心こと法灯国師が開創されたお寺でありました。 老師は、法燈国師から百五十代目のご住職でもありました。 小学生の頃にこの『無門関』の提唱を初めて聞きましたが、難しい漢文の内容はとても理解できるものではありませんでしたが、その漢文の持つリズムに感動しました。 お寺では地元出身の高僧である山本玄峰老師の『無門関提唱』の録音テープも拝聴させてもらいました。 中学の頃には自分で『無門関』の本を購入して学ぶようになりました。 私が初めて書店で注文した書籍が、山本玄峰老師の『無門関提唱』でありました。 そしてその『無門関』全文を書き写して自分のノートを作ったりしていました。 中学生の頃から禅問答の修行を始めていましたが、問答の修行においてもはじめは『無門関』の公案について参究します。 第一則の「趙州狗子」には年数をかけて参じます。 趙州の無字は、大学に入って白山道場の小池心叟老師について参禅したのでした。 更に大学を出てから修行道場に入ってからも再び無字の公案について参究させてもらってきました。 「無」の一字には何年もかけて参究させてもらったものでした。 『無門関』にある、そのほかの公案についても、大学生の頃から参究していました。 更に修行道場に入ってからは、本格的に『無門関』の公案に参究しました。 『無門関』の全文はみな暗誦していました。 今でもすらすら出てくるものです。 三十五歳で円覚寺僧堂の師家となって修行僧を指導する立場になり、まずはじめに講義をしたのは、やはり『無門関』でした。 それから居士林でも『無門関』を提唱したことがありました。 四十六歳で管長になって、円覚寺の夏期講座を担当するようになってまず『無門関』の講義を始めました。 一年で四則ずつ講義して、十二年かけて四十八則の公案をすべて講じたのでした。 小学生の頃に出会ってから今日に到るまで『無門関』は私にとって最も馴染みの深い禅籍であります。 その『無門関』を致知出版社のセミナーで五回にわたって講義をしたのでした。 五回で『無門関』の公案すべてを講じるのは無理でしたので、それぞれのテーマに合わせて『無門関』の中から公案を選んで講義してみたものです。 第一講 一度自己を無にしてみる    第二講 真実の自己を確立する 第三講 主体性を持つ 第四講 生死の一大事 第五講 理想を掲げて現実を生きる という内容に構成を考えました。 それぞれに三つほどの公案を選んで講義をしたのでした。 『無門関』を日本に伝えたのが、法燈国師、心地覚心禅師であります。 生年が承元元年(一二〇七年)ですから鎌倉時代初期の人です。 信州のお生まれです。 十九歳でお坊さんになって、ずっと高野山で真言密教の修行をなさっていました。 密教を学びながら禅にも関心を持って四十三歳のときに南宋の国に渡りました。 当時、中国の禅宗の第一人者は無準師範禅師という方でした。 この方は諡を仏鑑禅師といいます。 京都の東福寺の開山円爾弁円禅師の勧めもあって、心地覚心禅師は無準師範禅師のところに行って修行をしようと南宋を目指したのです。 ところが、中国に行ったときにはもう無準師範禅師はお亡くなりになっていました。 それで杭州護国寺の無門慧開禅師について参禅をすることになりました。   そのときに心地覚心禅師は四十七歳で、無門慧開禅師は七十一歳でした。 無門禅師のもとで修行して悟りを認められて建長六年(一二五四年)、日本に帰国しました。 日本に帰るとき、心地覚心禅師は無門慧開禅師の書いた『無門関』を授けられました。 そして今の和歌山県日高郡由良町に興国寺というお寺を開山しました。 心地覚心禅師は弘安八年(一二八五年)、七十九歳のときに京都の宇多野に妙光寺というお寺を開き、ご皇室の帰依も受けておられます。 そして鎌倉の終わりの頃の永仁六年(一二九八年)十月十三日に、九十二歳でお亡くなりになり、法燈国師という諡を贈られています。 また、心地覚心禅師は日本に帰ってくるときに、金山のお味噌の製法を伝えたことでも知られています。それが金山寺味噌です。 また、由良町の傍にある湯浅は醤油の原産地ですが、これはお味噌を作ったときの溜まりが醤油となったもので、やはり心地覚心禅師が伝えたものです。 お味噌やお醤油という私たちにとってなくてはならないものを心地覚心禅師が日本に伝えてくれたのです。 この『無門関』の講義は、コロナ禍の最中である二〇二一年に行われたことも印象深いものです。 思うようにならない、困難な状況でも如何に生きるか、禅の教えから学んでみようと思って講義したものです。 私が講義したものをこのたび致知出版社の方が本にしてくださったのでした。 ようやくできあがりました。 また五月の日曜説教の折には、その内容について話をしてみようと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1208回「感動の二話」

          知人から和歌山で開かれている修身教授録の読書会の案内のコピーを頂戴しました。 浅井周英先生が主催されている読書会だそうです。 浅井先生は森信三先生のお弟子でいらっしゃいます。 案内の文章を引用させてもらいます。 「子供が大人へと成長していくということは、ただ知識をどんどん吸収し、様々なことを知っていくということだけでありません。 他人の心を察することの出来る人になることも、とても大切なことだと思います。 ある女性が海外留学から帰ってきました。 留学する時に、九歳下の妹が 「離れたくない」と泣いていましたが、帰ってくると、妹はもう中学生になっていました。 そして、帰国直後、姉妹で電車に乗っていた時のことです。 二人は座っていましたが、どんどん乗客が増え、電車は一杯になりました。 すると小学校低学年位の男の子が、車内を走っては又引き返します。 乗客達は困り顔です。この姉妹の姉も、この走り回る子には困ったそうです。 「この子の親は何をしているのか、もっとちゃんとしつけをしてほしい」と思いました。 その時、またさっきの子が走ってきました。 すると隣に座っていた妹がサッと立ち上って、その子に言いました。 「あなたのお母さんをここに座らせてあげて」。 するとその子は大声で「お姉ちゃん有難う」と言いました。 よく見ると扉の所にしんどそうに立っている女性がいました。その子の母でした。 お母さんは、体調が悪いらしく、立っているのがやっとの状態だったのです。 だからその子は、満員電車の中を必死でお母さんの座れる席を探していたのです。 その子はお母さんの手を引いて席に座らせました。 姉は驚いて妹に聞きました。 「私は全く気付かなかったのに、どうしてお母さんのことに気付いたの」と。 すると妹は、「中学校で手話のクラブに入って手話を練習していると、いつの間にか困っている人が居ることに敏感になったの」と答えたそうです。」 なんという素晴らしい話かと思いました。 私なら気がつかないだろう、知らぬふりをしていただろうと思いました。 もう一つは、こんな話でした。 「昭和三十年代のある高校での卒業式の話が伝わっています。 この高校では、毎年卒業式には成績トップの生徒と、スポーツや音楽などで活躍した生徒がいたら、その生徒が表彰されました。 その年は、まず成績優秀である女生徒が壇上に呼ばれ表彰されました。次に県の陸上競技大会で、入賞した男子生徒が呼ばれて表彰され、みんなで拍手しました。ここまでは例年通りのことでした。 ところがその年は、もう一人の名前が呼ばれました。 「山田A子さん」(仮称)と。 これにはみんな驚きました。 なぜなら彼女は成績も良いわけでなく、何のクラブ活動もしていません。 学校はよく遅刻するし、早退もするし、学園祭の時、クラスで店を出したのに何の協力もしません。みんな「どうして彼女が」と驚いたそうです。 そして一番驚いたのが彼女本人です。名前を呼ばれても立ち上がろうともしません。 すると校長先生が「山田A子さん。この壇上まで上ってきてください」 と呼ばれたそうです。 校長先生に直接言われたものですから、彼女は立ち上がり、オロオロしながら壇上にあがりました。 そこで校長先生は賞状を読み上げました。 「山田A子さん。あなたはこの三年間、病気の母を看護しながら、四人の弟妹の世話をしながら、よくぞこの学校へ通われました」と。 そして校長先生は声を詰まらせて続きを読みました。 「あなたのような生徒こそ、我校の誇りであります。ここにあなたを讃え表彰します」。 会場はシーンとなりました。そして、彼女は賞状を受け取ると「ううっ」とうめいて、 「わー」と壇上で泣き始めました。 すると会場にいた生徒達は全員立ち上って拍手したそうです。 仏様の眼は慈眼と言いますが、細く眼を開けておられます。 これは途方もなく広く高いところから、この私の全てを見通しておられるということです。 いつでもどこでもちゃんと私を見守ってくれている、ということが分かると安心して生きていけます。 この校長先生も生徒ひとり一人のことをちゃんと見ていて下さったのですね。」 こちらの文章を読んでは涙がにじみました。 こういう先生こそ仏さまのような方だと思いました。 仏の慈悲は一切智であるとも言われます。 一切を知ってくださっているのが慈悲なのです。 一切智とは仏様のことを言います。 すべてを知ってくれている人なのです。 読書会の案内状なのですが、こんな素晴らしいお話が載っているので、驚きました。 読書会には行けなくても、この案内状を読むだけでもよい学びになります。 一枚の案内状にも心がこもっていることがよく分かります。 森信三先生の教えが、こうして今にも生きていることが分かりました。 「求道とは、この二度とない人生を如何に生きるか― という根本問題と取り組んで、つねにその回答を希求する人生態度と言ってよい。」 という森先生の言葉を思います。 素晴らしい感動のお話に触れて我が心が洗い清められました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1208回「感動の二話」

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          第1207回「坐禅の呼吸」

          朝比奈宗源老師が坐禅について語られた言葉に、 「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。 これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。 掘れば出ると思うから骨も折れる。 だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。 そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。 道具もいる。努力もいる。 坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。」 とあります。 仏心を具えていながら、そのことに気がついていないのが私たちです。 気がつく為にはどうしたらよいか、やはり坐禅がよろしいのです。 その坐禅をするにはまず姿勢を正すことから始まります。 朝比奈老師は 「姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。 腰を立てないとどんなにしても力が入らん。」 と仰る通り、まず腰を立てることであります。 森信三先生は立腰と説かれました。 腰骨を立てることなのです。 それから更に朝比奈老師は、 「そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。 それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。 そこで無字なら無字を拈提して坐る。」 と説かれています。 おへそから指の幅四本分下くらいのところです。 しかも体の表面ではなく内部です。 これが丹田です。 次に呼吸ですが、朝比奈老師は 「息はーよくこういう質問をする人があるから言うが、息は吸うときに力を入れるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。 どうもこれも色々やってみたが、経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くとき鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。 つまり何だな、上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気になる。 だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。」 と説いておられます。 これは岡田虎二郎先生が説かれたのと通じるのであります。 岡田虎二郎先生は、その著『岡田式静坐法』の中で正しい呼吸として、 息を吐く時下腹部(臍下)に気を張り、自然に力のこもるようにと説かれています。 その結果息を吐く時下腹膨れ堅くなり、力満ちて張り切るようになるというのです。 吐く息は、緩くして長いのです。 吸う時は、空気が胸に満ちて、胸は自然に膨脹し、胸が膨れるとき臍下は軽微に収弛を見ると説いています。 呼気吸気のときに、重心は臍下に安定して気力が充実しているというのです。 吸う時に腹を膨らまし、吐く時に腹を収縮させるのとは違うというのです。 息を吐くときお腹をへこませずに、圧をお腹の外にかけるように意識してお腹周りを「固く」させるのが腹圧呼吸と言われますが、それに通じます。 朝比奈老師は、 「そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。 呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。 この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。 つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」 と説かれていて、これは呼吸をも手放すことを言っています。 『長生きしたければ呼吸筋を鍛えなさい』という本で、医学博士の本間生夫先生は、次のように書かれています。 「人間の体の機能を正常に保つうえで、じつは二酸化炭素は酸素よりも重要な役割を果たしている面もあるのです。 ホメオスタシスのなかでも、特に重要なのが酸性・アルカリ性のバランスです。 人間の体はpH7.4の弱アルカリ性(pH 7、0が中性) で、 この数値をキープすることが、体調を正常に保つために非常に大切です。酸性に傾いても強いアルカリ性になっても、コンディションを崩しやすくなります。 このバランスを保つために、非常に重要な役割を果たしているのが二酸化炭素です。 血液中に二酸化炭素がたくさんあると体は酸性に傾き、その逆に少ない場合はアルカリ性になっていきます。」 と二酸化炭素の重要さを説いていて、そこから更に、 「二酸化炭素の調節システムは、この「無意識に行なわれる代謝性呼吸」のときのみに作動して、「意識して行なう随意呼吸」のときには作動しないメカニズムになっているのです。 ですから、深呼吸のような「意識して行なう呼吸」をずっと続けていると、二酸化炭素の調節システムが作動せず、かえって体内バランスを崩すことになってしまうわけです。 繰り返しますが、1、2回の深呼吸をたまに行なう分にはまったく問題ありません。 しかし、わたしたちの体をいつも通り一定に維持してくれているのは、あくまで「無意識に行なわれている呼吸」です。」 というように「無意識に行われている呼吸」の重要さを説いてくれています。 意識的に呼吸を調えて、調っていったならば、呼吸を手放して無意識の呼吸に任せるのがよろしいかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1207回「坐禅の呼吸」

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          第1206回「どうしたらいつもニコニコしていられるか」

          修行道場での入制大摂心では、坐禅もはじめてという修行僧もいるので、天台小止観に説かれている坐禅の心構えについて講義しています。 松居桃樓先生の『微笑む禅』は松居師が天台小止観を分かりやすく説かれたものです。 昭和五十三年四月から五十四年三月までNHKラジオで講話されたものがもとになっています。 私はまだ十三歳から十四歳にかけての頃でしたが、ラジオで勉強していたものです。 はじめに七仏通誡の偈を松居師は分かりやすく 一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、 人間が生まれながらに持っている、 いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす 人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている と説かれています。 そして更に、 「人間は、どうしたらニコニコになりきれるか? ひと口にいえば、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」の二つきり。 なぜならば、よきにつけ、あしきにつけ、何かが気になってたまらないのは、あなたの感情が、波だっている証拠。 ああか、こうか、と迷うのは、思考力が正しく働いていないからだ。 感情が波だっていては、色めがねでしか、ものが見えず、思考力が正しく働いていないと、もののうわべしかわからない。 感情が波だっていなければ、どんなことにも動揺せず、思考力が正しく働いておれば、如何なる難問題も解決できる。 あなたが、感情をしずめ、思考力を正しく働かせることができたならば、自分もしあわせ、周囲の人々もしあわせ。何をやってもまちがいない。 以上のことからでも、わかるように、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」は、いつでも、どこでも、なにものにも、ニコニコできる第一歩。理想的な人間になる最短距離。 人類平和の帰着点。人生最高の幸福をつかむ根本原理。あだおろそかにすべきでない。」 という言葉はとても説得力のあるものです。 その為に『天台小止観』には、はじめに二十五の方法が説かれているのです。 二十五のはじめの五つが五縁として説かれています。 それを松居師は分かりやすく、『死に勝つまでの三十日 天台小止観講話』のなかで、 一、いつもニコニコ 二、キモノとタベモノに対して感謝の心を 三、なるべく感情を波だたせないような生活の場を 四、今までのモノの考え方を白紙にかえそう 五、純粋な人間関係だけを と説かれているのです。 原文では 一、持戒清浄 二、衣食具足 三、閑居静処 四、息諸縁務 五、得善知識 という五つなのですが、実にわかりやすく訳されています。 「第一、いつもニコニコ」について、 「感情をしずめ、思考力を正しく働かせる練習の第一歩は、<いつもニコニコ>。」 しかし、そうはいっても人間はほほえめなくなる種を知らず知らずにまいてしまっています。 そこで松居師は、 「では、ほほえめなくなるタネをまいてしまったらどうするか? それには、まず、次にあげる十ヵ条を、頭のなかで、くりかえし、くりかえし反省すること。」 というのであります。 それではその十カ条をみてゆきます。 その概略を引用します。 「一、ほほえめなくなるタネは、どこから来るか? この世の生きとし生けるものが、何億万年の昔から、先祖代々、みんなが共通にもっている死の恐怖からのがれるためのモガキなのだ。だから、その死の恐怖を克服しなければ、自分ばかりか、全人類の、本当のほほえみは生まれてこない。 二、<ほほえめなくなるタネ>は、どこまでのびるか? 人間同士が、このまま〈ほほえめなくなるタネ〉をまきあっていたら、しまいには、全人類が破滅するような、恐ろしい闘争の渦巻きになってしまう。 三、人間にとって、なにが一番、危険なことか? 現在、自分自身がほほえめなかったり、ヒトをニコニコさせられないこと。なぜならこの世の生きとし生けるものの中で、人間だけができる 〈ほほえみ〉とは、死の恐怖を克服して、感情を波だたせず思考力を正しく働かせることができる状態にある時の表情なのだ。だから、もし、今、誰かが、ニコニコできないでいるとすれば、その人は、人間としての価値を失って、ただの動物に逆もどりしている証拠なのだ。 四、誰かが、現在、ニコニコしていないとしたら? 自分自身にせよ、他人にせよ、その感情の波だちを、少しでも早くしずめるように、あらゆる手段を講じよう。 五、今までの、まちがいを、どうやって発見するか? 過去にまいてしまった〈ほほえめなくなるタネ〉を思い出して、「なるほど、あんな場合でも、お互いにニコニコできる解決方法があったかも知れないなぁ」と考えなおすこと。 六、ほほえめなくなるタネはどうやって絶やすか? 今まで犯したアヤマチが、間違っていたとわかったら、それでいい。すんでしまったことは、いつまでもクヨクヨせずに、すっかり忘れて、「今から後は、どんな小さなひと粒でもほぼえめなくなるタネは、絶対にまくまい」と決心すること。 七、ほほえみの芽は、どうやって育てるか? 今から後は、自分自身がほほえんだり、ヒトをニコニコさせられる機会があったら、どんな小さなものでものがさずに、必ず実行しようと決心すること。 八、どうやって全人類をほほえませるか? できるだけ多くの、ニコニコの同志を作り、お互いに、ニコニコできる方法を工夫したり、励ましあうこと。<ほほえみ>は、あなた一人が、ニコニコ暮すだけでは意味がない。全世界の人間が、一人残らずニコニコできるようにならなければ、結局、自分自身のニコニコさえもできないのだ。 九、どうしたら、いつもニコニコできるのだろうか? あなたが、どうしてもほほえめないような破目に追い込まれたら、心の中で、「ほほえみたくても、ほほえめないで苦しんでいるのは、この世に自分一人ではない。過去、現在、未来にわたって、いたる所で、自分と同じ気持の人が、一生懸命ほほえもうと努力しているのだ」と、自分で自分を励ますこと。 十 <いつもニコニコ>に徹しきれると、どうなるか? 人間が、ビクビク、イライラ、クヨクヨするのは、自分とヒトの区別をして、「自分だけが生きのびよう」「幸福になろう」と欲張るからだ。 「自分と宇宙は一体だ」という気持になって、いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむくせをしっかりつければ、この世に不安も苦しみも存在しなくなり、いつの間にか、〈死の恐怖〉まで克服できる。そして、そういう心境になりきれることこそ、人生最大の幸福なのだ。」 と実に丁寧に説かれています。 『死に勝つまでの三十日 天台小止観講話』は『微笑む禅』よりももっと古く一九六六年に刊行された本です。 ほほえみにどうしたら徹することができるのか、これは容易なことではありません。 それでもやはり毎日いつでもどこでも微笑むことができるように努力したいものです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1206回「どうしたらいつもニコニコしていられるか」

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          第1205回「仏心の中に」

          人は仏心の中に生まれ 仏心の中に生き 仏心の中に息を引き取る 朝比奈宗源老師の『仏心』の中にある言葉です。 仏心というと、仏の心ですから、それは私たちの中にあるように思います。 「仏心」とは、岩波書店の『仏教辞典』には、 「仏の心、大慈悲心をいう。 観無量寿経に「仏心とは大慈悲心是れなり」とある。 わが国では<ほとけごころ>と読んで、大慈悲心、卑近な言い方をすれば、優しい心を意味することがある。 また衆生の心にそなわる仏の心、すなわち仏性を意味することがあり、特に禅宗で重視される。ここから禅宗のことを<仏心宗>ともいう。」 と書かれています。 仏心は私たちの心に具わると説かれています。 仏性とも言うと書かれていますので、仏性とは何か学んでみます。 岩波書店の『仏教辞典』には、「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。 <覚性>とも訳される。 <性>と訳されるダーツという語は、置く場所、基盤、土台の意であるが、教義上<種族>(種姓)および<因>と同義とされる。」 「仏性は仏種姓(仏種)すなわち仏の家柄で、その家に生れたものが共通にもっている素性の意ともなる(その所有者が菩薩)。また、将来成長して仏となるべき胎児、(如来蔵)の意味ももつ。」 と解説されています。 もともとお釈迦様がお亡くなりになったあと、仏教では仏はお釈迦様一人で、その他は仏にはなれないという教えでした。 私たちが修行して到達するのは阿羅漢であって、仏ではなかったのです。 ところが大乗仏教になって仏になれると説かれるようになってきたのでした。 仏になれるというのは、仏になる要因が内在しているからだと説くようになったのでした。 それが「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』の言葉になったのです。 「衆生のうちなる如来・仏とは、煩悩にかくされて如来のはたらきはまだ現れていないが将来成長して如来となるべき胎児であり、如来の因、かつ如来と同じ本性であるという意」なのです。 そこで、「仏性」と名づけたのです。 『仏教辞典』には「具体的にはそれは、衆生に本来具わる自性清浄心と説明されるが、平易に言えば、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)と言ってよいであろう。 なお、仏性がすべての衆生に有るのか、一部それを有しない衆生(無性、無仏性)も存在するのかをめぐって、意見がわかれる(五性各別説)。」 と説かれています。 道元禅師の正法眼蔵には「仏性の巻」があります。 余語翠厳老師の『これ仏性なり 『正法眼蔵』仏性講話』には次のように説かれています。 「普通の考え方でいきますと、仏になる可能性があるというようなことを仏性というように言っておる人が多いわけです。 それならば、仏性というものがあって、いろいろ修養をしていく間にどんどんその能力が伸びて仏さまになるのだということで、理解だけはできるでしょう。 しかしそういうことではないのだ、というのです。 涅槃経というお経に一切衆生悉有仏性と書いてあります。 悉有はしっつと読みます。 悉く仏性有りというように読むのが普通ですが、そういうふうに読むと、今言ったような考え方になるわけです。 つまり仏性というものが私達の中にあって、 修養したりなんかしているとだんだんその能力が伸びていって、仏さまになるのだというように考えられます。」 という考え方があります。 しかし余語老師は、 「今朝もここの若い人達に話したのですが、雑草というものはないはずじゃということを言いますが、花を育てるために雑草を抜くということをやります。 人間の営みとしてそれをやるが、けれど雑草というものはあり得ないというのです。 勝手に人間が「これ雑草じゃ」と、「これはきれいだから花だ」と区別しているだけのことです。 そこに伸びている草はそこに伸びているだけで、それらの草はそんなこと関係ないわけです。 人間が勝手に区分けをしたのだということはわかるでしょう。 それが当を得ているかどうかは別問題として、人間が区分けをするから、清浄という問題が出てくるのです。 清浄も不清浄もそういうことでしょう。」 と説かれています。 綺麗だ、汚いだ、清らかだ、汚れているというのも人間が作りあげたものと言えます。 そして仏性とは清らかものと思い、煩悩とは汚れたものと思ってしまいます。 しかし余語老師は「人間の感覚をはぶいてしまえば、清浄とか不清浄とかいうことは成りたたないのです。 天地いっぱいの道理というものの中には人間のいう浄穢全部、すべて含まれているのです。 浄穢というのは人間がそういうだけのことで、あるものはただそのままあるのです。 そういうことを深く考えてみれば、花も雑草も同じだというわけです。 仏というものは清浄のものだと思っていて、人間臭味のあるところは清浄ではないような気がして、人間らしいところが全部なくならないと仏さまにならないように思うでしょう。」 と説かれます。 そして更に 「自分の体の中に仏性というひとかたまりのものがあって、それがだんだんと伸びていくという感覚になるわけです。 有という、あるということは所有するということですから、自分が仏性をもっておるということになります。 そうではなくて、仏性の中に己があるのだというのです。 天地の命の中の一分を生きておるというこの命は、仏性の中に自分があるのです。 関係が逆になります。」 「道元禅師という人は言葉の上でも天才であったようにみえます。 五年間、中国の生活をしてこられるわけですが、なかなか容易にできることではありません。 昔は洋行帰りの人の話の中にむこうの言葉がそのまま入ってくるということがあったが、あれがハイカラでね。 道元禅師もそれが癖になっていたのでしょう。文をまっすぐ読むのです。 悉有は仏性なりと読む。悉有というのはことごとくあるというのですから、一切の存在が仏性なのである、ということです。 清浄、不清浄と分けたものでなく、全部包んだものです。 それが仏性だというのです。」 と明解に説いてくださっています。 「悉有は仏性」とは実に大きな広い世界なのであります。 その中で私たちはひとときの夢を見ているようなものなのでしょう。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1204回「よい条件を調える」

          朝比奈宗源老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな言葉があります。 「人は佛心のなかに生まれ、佛心のなかに住み、佛心のなかで息をひきとるのだ。 生まれる前も佛心、生きているあいだも佛心、死んだ後も佛心、その尊い佛心とは一秒時も離れない」 これは、朝比奈老師がよく仰せになっていた言葉です。 そして朝比奈老師は、 「ただ多くの人はそれに気がつかないのです。 悟るということは、新しいことを覚えることでなくて、前からわかりきっていたはずのことが、わからないでいて、それに気がついたことを悟るという。 忘れものをしたのを思い出したように これが悟りだと、お経にも書いてあります。」 と書かれています。 ここに「悟り」という言葉の意味がはっきり書かれています。 「佛心とわれわれとは、そういう関係なのです。 あなた方が間違っていたとしても、佛心のうえからいえば、ただその尊い佛心をそなえながら、佛心のなかで迷っているのです。 夢のなかで、ありもしないのに良いことに会ったと思って喜び、悪いことに会ったと真実に思って泣いたり悲しんだりするのと同じなのです。 いわば人間は手放しで救われている。 佛教は、これほど徹底した教えです。 だがこれが本当に、はっきり受け取られないと、夢がさめないと同じように、つまらんものだ、困ったものだという不安がたえない。 だから、佛教ではこの世のことを夢の世の中と云います。 いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす この世を夢とみて、その浅い夢に酔ってはならんぞというのが、いろは歌の意味であります。 佛教はこういうものであります。 坐禅をするということは、人はそういう尊い心のあることを信じて、心を静かに統一して、心が落着くところに落着けば、自然に雑念妄想は遠のいてしまう。 狭い心もだんだん広くなり、ザワザワしていた心も落着き、暗い心も明るくなり、カサカサしていた心もうるおいが出てくる。 これは佛心を具えている人間として当然なのです。」 と説いてくださっています。 更に「井戸を掘る。 こういう地面でも深く掘ってゆくと必ず水が出る。 わずか掘って出るところもあり、深く掘らねば出ないところもある。 が、水に近づけば、必ずそのへんの土がうるおってくる。 坐禅も同様です。 精出して坐禅すると、自然に佛心の徳がにじんだところへはいっていく。」 と説かれています。 「そうありたいと思ったら、そうなれるように条件を調えていかなくてはダメなのです。 心を落着けたい、心を広くもちたい、ゆったりとしたうるおいのある心境でいたい。 誰でもカサカサしたり、 コセコセしたり、 ザワザワしたりする心持ちはいやだ。いやだと思ってもクセのある人は、すぐそうなりやすい。 そこで坐禅に心がけて、繰り返し繰り返ししていると、自然に心がゆったりとしてくる。落着いてくる。 つまり条件をそうもっていくと、自然にそうなる。 落着くようにもってゆけば、落着く。」 というのです。 このように良い条件を調えるのが坐禅であります。 また坐禅をするのにも良い条件を調えることが必要であります。 『天台小止観』にはまず五縁といって、五つの条件を調えることが説かれています。 それは、 持戒清浄=戒律を保ち、正しい生活をする。   衣食具足=適度な衣食で心身を調える。   閑居静処=喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調える。 息諸縁務=世間のしがらみや情報過多の生活から離れる。   得善知識=よい師や仲間を得る。 の五つです。 有り難いことに、修行道場に修行に来た時点で、この五つは自然と調えられています。 そのうえで、五欲を制御し、五蓋という五つの心を覆う煩悩を取り除き、その上で「調五事」といって、五つを調えることが説かれています。 その五つとは、食事と睡眠と身体と呼吸と心です。 坐禅の説明では、身体と呼吸と心の三つを調えると説明されますが、その前に食事と睡眠を調えることが説かれているのです。 これは大事なことです。食事を調える、そして睡眠を調える、その上での坐禅なのです。 それから坐禅をするにも条件を調えないといけません。 坐禅は体と呼吸と心を調えることですが、まず体を調えます。 具体的には、坐相という坐禅の姿勢をとります。 坐禅は両方の脚を股の上に乗せるという独特な方法で坐ります。 これが、近年イスの暮らしが多いためなのか難しい場合が多くなりました。 無理に脚を股に上げさせると、膝や足首を痛めてしまうことがあります。 特に膝を壊すと、あとあとたいへんなことになります。 やはり股関節をほぐして、可動域を広げてからでないと、膝をねじってしまうことになってしまいます。 そこで私もいろいろと体のことを勉強してきましたので、新しく入ってきた修行僧には、膝などを痛めないように、脚が組めるように、その条件を調える方法を教えるようにしています。 ひとり一人骨格や体の癖が違いますので、それぞれに合わせて指導しないといけません。 各自お寺の大事な跡取りの方が多いので、体を痛めないように慎重に指導をしているのであります。 またこうした指導をすることによって、自分の学びにもなるものです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1203回「臨済禅師のこと」

          先日は修行道場の雨安居開講でありました。 今制からまた『臨済録』を読んでまいります。 また初心に帰って、馬防の序文から読み始めました。 臨済禅師については分からないことが多いのです。 その生涯のあらましについては、『臨済録』の塔記に書かれています。 岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳文を読んでみます。 「師、諱は義玄、曹州南華(山東省)の出身で、俗姓は邢氏であった。幼い時から衆にすぐれ、成人して後は孝行者として知られた。 出家して具足戒を受けると、経論講釈の塾に在籍して、綿密に戒律の研究をし、また広く経論を学んだが、にわかに歎じて言った、「こういう学問はみな世間の人びとを救う処方箋でしかない、教外別伝の本義ではない」と。 すぐ禅僧の衣に着替えて行脚に出かけ、まず黄檗禅師に参じ、次に大愚和尚の指導を受けた。 その時の出会いや問答は行録に詳しい。 黄檗の印可を受けてから、河北に赴き、鎮州城東南隅の滹沱河のほとりに臨む小さな寺の住持となった。 その寺を臨済と呼んだのは、この場所がらからである。」 というものです。 「行録に詳しい」という内容は以下のようなものです。 臨済禅師は、はじめ黄檗禅師の会下に在って、行業純一に修行していました。 この「純一」なることこそ修行の一番の要であります。 修行僧の頭にあたる首座が、臨済禅師のことをご覧になって、 「これは若僧だけれども、皆と違って見込みがありそうだ」と思いました。 そこで、ここに来て何年になるのかと問いました。 臨済禅師は「はい三年になります」と答えます。 首座は「今までに老師のところに参禅にいったのか」と聞きました。 臨済禅師は「今まで参禅にうかがったことはありません、いったい何を聞いたらいいのか分かりません」と言いました。 こういう所が純一なのです。 何を聞いたらいいか分からないという、純粋に思いを暖めていたのであります。 すると首座は「いったいどうして老師のところに行って、仏法のギリギリの教えは何ですか」と聞かないのかと言いました。 すると臨済禅師は言われたとおりに老師の所にいって質問しようとすると、その質問が終わらないうちに黄檗禅師に打たれてしまいました。 臨済禅師がすごすご帰ってきましたので、首座がどうだったかと聞きますと「私が質問する声も終わらないうちに打たれました、どうしてだかさっぱり分かりません」と言いました。 首座はもう一遍行ってこいと言いました。 また行くとまた黄檗禅師に打たれてしまいました。 臨済禅師が言うには「幸いにもお示しをいただいて参禅させていただきましたが、こんな有様でなんのことやらさっぱり分かりません。 今まで過去世の障りがあって老師の深いお心が計りかねます。 これではここにいてもしかたありませんからお暇しようと存じます」と。 将来臨済禅師と称される程のお方であっても修行時代はこんな時があったのです。 現代社会で、「仏法とはどういうものでございましょうか」と聞かれて、いきなり棒で叩いたら大変な騒ぎになるでしょう。 これは「仏法というのはあなた自身のことではないか、それに気がつかずに何を聞いているのか」ということを一番端的に示す方法だったのです。 火の神が火を求めるという譬話があります。 火の神が火をくださいと言ってきたら「あなたが火なのだから、他に求める必要はないでしょう」と言うしかありません。 大事なのは、「仏法の一番明確な教えは、今あなたがそこに生きていることだ、あなたが現に今そうやって質問していることだ、そうして聞いているあなた自身がすばらしい仏法の現れなのだ」と気づかせるということなのです。 最初は、臨済禅師もそれがわからなかったのです。 そして黄檗禅師の指示に従って大愚和尚のところにゆくと、大愚和尚がそのわけを説明してくれました。 「なんと黄檗は親切だなあ。あなたに対してそんなに親切にしてくれたのか」と言ったのです。 それまでいろんな学問研究をしたけれどわかっていない臨済禅師に対して、さらに言葉で示したならば、もっと迷ってしまうかもしれません。 臨済禅師にしてみれば、知識や言葉はもう十分過ぎるぐらい学んでいるのです。 そこで必要なのは言葉ではなかったのです。 「あなたが一番明らかにしなければならないのは、自分自身が仏であるということだ。そこに気がついたらどうだ」という気持ちで、黄檗禅師はあえて打ったのであります。 これが最も端的な方法だったのです。 そんな臨済禅師の話をして雨安居を開講したのでした。 この春に入門した修行僧にとっては、こんな問答を読んでもまだまだ何の事やら分からないと思います。 だんだんと修行するうちにはっきりとしてくるものです。 『臨済録』で開講しましたものの、いきなり『臨済録』ではやはり難しいので、まずは坐禅の基礎から学んでゆこうと思っています。 早いもので、こうした開講を務めるようになってもう二十五年になりました。 はじめの頃は随分と緊張していたものですが、この頃はなんということなく行うことができるようになったものです。 慣れというのは、良い一面もありますが、恐ろしい一面もあります。 慣れることは大事ですが、慣れてもいけないと言い聞かせながらの開講でありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1202回「担板漢」

          四月十七日は、円覚寺の古川尭道老師のご命日でありました。 老師の頂相をかけてお経をあげました。 堯道老師は「毒狼窟」という室号をお持ちでいらっしゃいましたが、その頂相を拝見しても、眼光鋭くいかにも「毒狼」という名の通りだといつも思います。 老師の略歴は、『円覚寺史』にあります。 明治五年十二月八日島根縣簸川郡に生る。 十三歳春慈雲寺(後松江の圓成寺住)石倉主鞭に得度、松江萬壽寺大航、井山寶福寺九峯、圓覺洪嶽、松島瑞巌寺南天棒鄧州、瑞龍禪外、虎溪毒湛等に歴參、洪嶽に嗣法す。 普應寺、東慶寺、關興寺、浄智寺に住職、大正五年六月圓覺僧堂師家、大正九年一月より昭和五年五月まで管長、六年六月渡米東漸禪窟師家、七年一月歸國、久保山天池庵住職、十年六月―十五年六月再び管長、爾來藏六庵退隱、昭和卅六年四月十七日示寂、骨清窟に塔す。壽九十一。嗣法別峰宗源。自歷畫傳『擔板漢』」とあります。 最期のご様子について朝比奈宗源老師は『獅子吼』の中で次のように書かれています。 「戦時からずっと山内蔵六庵に閑栖していられた毒狼窟・古川堯道老師は、昭和三十六年四月十七日、忽爾として遷化された。 あえて忽爾としてというのは、老師は数え年九十歳になられ、旧冬以来いくらか衰えは見えたが、その気力はさかんであり、周囲にある者はみなまだ当分は大丈夫であろうと思っていた。 現に御遷化の前日十六日の日曜には、いつもの如く居士数氏のために提唱をされた。 もっともその折も居士の一人がこたつにやすまれたままで結構ですというと、「ねていて提唱ができるか」と一喝され、起きて袈裟をかけて提唱されたそうで、はたの者にはいたいたしかったらしいが、あのご気性ではそうしなくては気がすまなかったらしい。 そのあとはやはり疲労されたと見え軽いけいれんをおこされたが治まり、その夜も平常とかわらず、明くる十七日午後零時半頃、急に変化が起こり、直に医師をむかえいろいろ手当を加えたが効が見えず、四時十分には遂に示寂された。 全くあっという間であった。 臨終に立会って下すった野坂三枝博士も、こんな楽な臨終は今まで見たことがないといっておられたが、最初に注射をした時、顔をしかめられただけで、あとは一切苦悩の影を示されなかった。 また何も言おうともされず、 平生の老師の通り、すらっと逝ってしまわれた。 私には忽爾として逝かれたという感じが深い。」 と書かれています。 先代の管長足立大進老師も修行時代には、まだ蔵六庵にいらっしゃって、僧堂が四九日にお風呂を沸かすと、まず堯道老師のところに行ってお声をかけて、お風呂にはいってもらっていたと仰っていました。 鬚をはやした老師が杖をつきながら、手拭いを持ってお風呂に入りに来られたそのお姿が印象深いと仰っていました。 朝比奈老師が「老師の人となりは米寿のお祝いに出版された、老師の自伝『担板漢』に記されている通り、誠に典型的な禅僧であった。 明治大正の間でも最も古風な面をもった人で、宗演老師は極めて進歩的積極的な方であったのに対し、老師は全くその反対な人であったが、お互いにその長所を認めあい尊敬されあっていた。」 と書かれています。 何に於いても進歩的な釈宗演老師に対して古風な老師だったとうかがっています。 足立老師は、そんな尭道老師のことをご尊敬されていたようで、お亡くなりになる時にも堯道老師がお召しになっていた法衣をつけて入棺するようにと言い残されていました。 私は老師のご遺体に尭道老師の法衣を着せながら、改めて老師は尭道老師を慕っておられたことを思ったのでした。 堯道老師は明治二十五年に円覚寺の僧堂に来ています。 その年の春に宗演老師が師家となったのでした。宗演老師はまだ三十二才、尭道老師は二十歳でありました。 堯道老師の『擔板漢』によると「此の時圓覺僧堂は極めて枯淡にて、朝は割麦一升に米三合の一人前一合づつの粥に萬年漬とて大根の葉をしほ漬に成たるものにて、昼は割麥一升に米三合づつの飯一人前三合づつ汁は醤油槽で製造の味噌に時々の野菜を汁の實になし、晩は朝の通りの粥で、それに大衆が満衆になれば不足で困難、そこで横濱や諸方に合米と云ふものを願った。」 という枯淡な暮らしだったのであります。 麦一升に米三合ですから、麦飯といってもほとんど麦だったようです。 朝比奈老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな堯道老師とのやりとりが載っています。 朝比奈老師が、修行僧の頭となっていて、堯道老師に、 「ご飯は麦半分米半分、こりゃ祖師の命日かなんかでなきゃ食べさせなかった食事です、味噌汁もたっぷり、おこうこもこしらえ、味噌もしこむというように準備しておいて、堯道老師に、 「人間並の食事を食べさせてやって下さい」 と願ったんです。ところが老師は、 「そんな贅沢はいかん」 こう言う、」 そこで朝比奈老師は修行僧の中でも役位という古参の者たちで何日もかけて老師を説得したという話があります。 朝比奈老師は堯道老師の頂相に「「楞伽窟中、金を抛ち鉄に換え、大担板漢、林下の傑と稱す。」と讃を書かれていますが、「担板漢」とあだ名されていました。 「担板漢」というのは、入矢義高先生の『禅語辞典』には、 「板を横に肩にかついだ男。自分がかついでいる(抱えこんでいる) 物や理念に左右されて行動する人聞を罵って言う。つまりワン・パターンの教条主義者。」という解説があります。 また『禅学大辞典』には「一方向きの人。一を知って二を知らない者のたとえ。」とあります。 朝比奈老師は「融通の利かない人を担板漢という。板を背負った男っていう意味です。板を背負っているから、馬車馬みたいに脇や後ろは見えない」と解説されています。 そう言われるほどに一筋に生きた方なのであります。 堯道老師のご命日に老師の遺徳を偲んだのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1201回「死をみつめて – お医者さんたちに講演 –」

          先日の日曜説教のあとは、上京して都内のホテルで、日本臨床内科医会の会合で講演をさせてもらってきました。 この一月からは第二日曜日の日曜説教の午後から、一般の方々の布薩の会を催していますが、四月は第二日曜の午後に都内の講演が入っていて無理だったのでした。 そこで、第四日曜日の午後に布薩の会を開催します。 講演したのは、第41回日本臨床内科医総合学術集会という会であります。 一般社団法人 日本臨床内科医会と神奈川県内科医学会との共催であります。 ですからお医者さん達の集まりなのであります。 まずはじめに「アウェー」の話をしました。 よくスポーツの記事などで、「アウェー」という言葉をみかけますが、どういう意味なのかと思っていましたが、実に今の私が「アウェー」なのだと分かりましたと申し上げました。 まさしくその通り、お医者さんたちばかりの集まりに、私が一人法衣姿で現れるのですから、「アウェー」であります。 皆さんもいまこの場に異物が混入してきたという思いではないかと察しますと申し上げたのでした。 こんな体験をしたのが、もう今から八年前であります。 二〇一六年に日本肺癌学会学術集会で、「仏教の死生観について」と題して講演したことがありました。 横浜のホテルで行われた大きな学会でした。 そこで死について講演したのでした。 それがよかったのかどうか、明くる年には世界肺癌学会でお話させてもらったのでした。 お医者さんばかりの会に招かれ、まさ「アウェー」を実感したことでした。 世界肺癌学会で講演する際にあらかじめ講演要旨を提出するように言われて書いた原稿が残っていますので、どんな話をしたのかを紹介します。 「人は誰しも死を逃れることはできない。それにも拘わらず、人は死を見つめようとはしていない。できれば死を忘れて暮らしたいと思っている。実に死は、現代社会においても忌み嫌われていると言えよう。  一般に、死は「喪失」であると思われている。たしかに健康な肉体も、人生において与えられた時間も、社会における存在意義も、さまざまな体験も、手に入れたものすべて、貯めたお金や家、家族、友人や恋人、地位名誉などを「喪失」してしまう。  また生命を一日でも長く生かすことを考える医療において、死は「敗北」と認識されている。しかし、もしも死が「喪失」や「敗北」でしかないとしたならば、人生は「喪失」と「敗北」に向かって確実に進んでゆく空しいものとなるであろう。  「愚かな人間は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んでしまい、悩み、恥じ、嫌悪している。じつは自分もまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪する。このようなことは自分にはふさわしくないであろう」。  このように考えて、死の苦しみの原因を求め、死の恐怖や苦しみから如何に逃れることができるか、その道を求めたのが、紀元前五世紀にインドに生まれた、ゴータマ・ブッダであった。  ブッダの教えは、インドから中国に伝わり、中国においては「禅」という道に発展していった。「禅」の教えは、今日においても広く世界で求められている。  「禅」においては、「死」を見つめることを大切に説いている。死を問いとして、それに応えるに足る生き方を学んでいると言ってよい。それは決して死後の世界の探求ではない。あくまでも死を見つめて、積極的に生の意味を見いだすことを目指している。  現代においても、ともすれば忌避されがちな「死」について、古来の「禅」の教えを参照しつつ、「死」をどう受け止めて生きるかを学んでみたい。」 というものであります。 そんなところから少しずつ、お医者さんたちの集まりでお話することがあるようになりました。 先日の会でも申し上げたのですが、今はまさに「アウェー」ですが、これからももっとお医者さんたちと宗教者とが親和性を持って、「アウェー」ではなくなる日がくることを望んでいますと申し上げました。 二〇二二年の三月には神奈川県内科医学会集談会でもお話させてもらいました。 これはある医師が、私が出版した『仏心のひとしずく』を読んで、思うところあったらしく、話をして欲しいと頼まれたのでした。 『仏心のひとしずく』は二〇一八年に出版されたもので、私が毎月の日曜説教のために準備した原稿がもとになっている本であります。 その神奈川県内科医学会の講演がご縁となって、今回の臨床内科医会での講演となったのでした。 神奈川県内科医学会の金森会長から御依頼をいただいたのでした。 今回もお招きいただいて、ホテルの控え室で、金森会長をしばしお話させてもらいました。 二〇二二年の神奈川県内科医学会の話のことに触れられて、会長からあの時の話がよかったと言ってくださいました。 そこで私は先生、その時の話をあまり変わらないのですがいいですかと申し上げました。 医学の世界は日進月歩、いやそれ以上に早いのかも知れません。 数年も経てばもう古い情報となるのでしょう。 常に新しく学び続けなければならないのだと金森会長も仰っていました。 まさにそういう世界でありましょう。 しかし、私どもの世界にそんな早さの進歩はないのです。 根本的なことはお釈迦様以来変わることはないのです。 科学や技術は発達しても、人の心は変わらないのだと話し合っていたのでした。 アウェーで臨んだ会でしたが、私の講演の始まりに金森会長が、現場の内科医としては死に立ち会うことが多い、医学では死を学ぶことは滅多にないけれども死の問題を避けることはできない、死について宗教者とも対話を重ねるべきだとお話くださったので、「アウェー」の度合いは下がったのでした。 お医者さんたちの集まりなので、皆さんとても熱心に聴いてくださいました。 その日は朝からいろんな先生方の発表が続いていると聞いていました。 ですから私は今回敢えて、パワーポイント資料や紙の資料などは一切用意しませんでした。 少しでも目を休めてもらおうと思ったのでした。 語りだけ、一時間お話をさせてもらいました。 朝比奈宗源老師の 「私どもは仏心という広い心の海に浮かぶ泡のようなもので、私どもが生まれたからといって仏心の海水が一滴ふえるのでも、死んだからといって、仏心の海水が一滴へるのでもないのです。」 「私どもも仏心の一滴であって、一滴ずつの水をはなれて大海がないように、私どものほかに仏心があるのではありません。 私どもの幻のように果敢なく見える生命も、ただちに仏心の永劫不変の大生命なのであります。」 という言葉を紹介して、最後に柳宗悦の句を紹介して終わりました。 「吉野山 ころびても亦 花の中」 吉野山というのは桜の名所で、どこもかしこも見渡すかぎり一面の桜です。 桜の中にいればたとえどこでころんでも桜の中なのであります。 やがてどこで倒れても、どんな死に方を迎えようと、それはみな私ども仏教でいえば仏心の只中、御仏の掌の中に抱かれているのであります。 とお話したのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1201回「死をみつめて – お医者さんたちに講演 –」

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          第1200回「一大事」

          先日は、東京湯島の麟祥院開創四百年慶讚法要の記念法話に招かれて行ってきました。 湯島の麟祥院は、いつも勉強会でお世話になっています。 徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺です。 麟祥院の創建は、一六二四年(寛永元年)です。 春日局の隠棲所として創建されました。 今年でちょうど四百年になるのです。 野州宇都宮の興禅寺の渭川和尚が開山となっています。 京都の妙心寺にも麟祥院がありますが、こちらも1634年(寛永11年)に徳川家光により春日局の菩提寺として建立されたものです 峨山慈棹禅師(一七二七~一七九七)もまた、白隠禅師に参じて後、この麟祥院に十年ほど住されていました。 隱山禅師(一七五一~一八一四)が峨山禅師に参禅されたのもこの麟祥院でした。 隱山禅師は、越前のお生まれで、幼少にして出家され、十六歳で禅の修行に志し、十九歳で横浜の永田にある東輝庵の月船禅師に参禅されようとされました。 ところが、月船禅師のところに大勢の修行僧が集まっていて、これ以上道場に収容できないということで、まだ二十歳にも満たない隱山禅師は、入門を拒まれ、しばらく学問をするように諭されます。 はるばる山を越え川を渡って行脚してやってきて、はいそうですかと帰るわけにはゆきません。七日坐り通して頼みます。 涙を流して懇願して、最後には血の涙になったといいます。 そんな真剣な様子を見るに見かねて、ようやく月船禅師に取り次いでくれて入門できたのでした。 月船禅師のもとで修行を重ねて「仏語祖語、通明せざるなし」という自信を得られました。 しばらく美濃のお寺に住まわれていたのですが、月船禅師がお亡くなりになって、峨山禅師が後を継がれて白隠禅師の禅を大いに挙揚されているということを耳にして、月船禅師の会下でもあった峨山禅師にもう一度参禅しようとされました。 ちょうど峨山禅師が、江戸湯島の麟祥院におられて、そこで参禅されたのです。 『近世禅林僧宝伝』には当時麟祥院で峨山禅師が『碧巌録』を提唱されて、六百名あまりが聴いていたというのです。 隱山禅師ははじめて峨山禅師にお目にかかると、峨山禅師は手を出して、「どうして手というのか」と問い詰められました。 即答できないでいると、更に峨山禅師は足を差し出して、「なぜ足というのか」と問いました。 隱山禅師は春日局の御廟にこもって修行されたのでした。 朝のお粥とお昼のご飯をいただく以外は御廟を出ずに修行されて、とうとう悟りを開かれ、峨山禅師からも認められたのです。 隱山禅師三十九歳の時であります。 一八八七年(明治二〇年)には井上円了が、この寺の一棟を借りて哲学館(東洋大学の前身)を創立しています。 そこで境内には「東洋大学発祥之地」の碑(一九八七年(昭和六二年)建立)があります。 またその頃は臨済宗の学校も設けられていたことがありました。 明治八年(一八七五)年には臨済宗東京十山総黌という臨済宗の学校が開かれて、そこに今北洪川老師が招かれていたのでした。 その年には更に円覚寺の住持にもご就任なされていますが、その当時は麟祥院にいらっしゃって、円覚寺には通っておられたようです。 ただしこの十山総黌は長くは続かなく、洪川老師は明治十年円覚寺にお移りになったのでした。 昭和になって、飯田欓隠老師が麟祥院で提唱もなさっています。 朝比奈宗源老師や河野宗寛老師もここで禅会をひらかれていました。 近世の臨済禅においては由緒ある修行の場であります。 そんなお寺の開創四百年記念の法話を務めるのですから、栄誉なことですが、たいへんなことでもあります。 演題を「一大事」としましたのは、私にとって、そんな由緒ある麟祥院で法話をするのは、「一大事だ」と思ったからであります。 一大事は『広辞苑』には「①容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」 という意味があって「太平記」から「正成不肖の身としてこの一大事を」。「お家の一大事」という用例があります。 それからもう一つ「②仏がこの世に出現する目的である一切衆生を救済すること。」と解説されています。 生死の一大事とも申します。 生と死の問題について話をしたのでした。 朝比奈宗源老師は旧版の『仏心』の中で、 「生き死にのことが、人生にとって大問題であることは、どの宗教でもいっていることで、ことに佛教はこの問題解決が主なる目的とされるだけに、昔からやかましくいう。 生死事大、無常迅速とは、耳にタコができるほどきかされるところだ。 また事実そのとおり人命は露よりもろい。 死がひとたび到来したら、英雄も豪傑も、富豪も権力者も、すべてその権威を失い、ただ一片の物質と化し去るのだ。 その死の来かたも、もうお迎いがきてくれてもよいのにと、この世にあきがくるような緩慢にくる例は稀で、多くは人間の意表をついて来る。」 と説かれているように、いつ死が訪れるかは分かりません。 江戸時代の戯作者大田南畝が「今までは 人のことだと 思ふたに  俺が死ぬとは こいつはたまらん」と詠っていますが、お互いもいつか、この歌の通りの思いをするのであります。 そこで、古の禅僧は、あらかじめ元気なうちに生死の問題に取り組めと仰っているのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺