第1199回「タンポポに学ぶ」 9 【公式】臨済宗大本山 円覚寺 2024年4月19日 05:00 先日は、愛媛県砥部町から、坂村真民先生のご息女西澤真美子様ご夫婦がお越しくださいました。ご主人が西澤孝一坂村真民記念館館長でいらっしゃいます。久しぶりにお目にかかることができたのですが、お変わりなくお元気そうで何よりでした。よく企画展をするのに、いろんな展示会をご覧になるために上京なさって、その折に寄ってくださることがありました。今回もなにかお仕事かと思ってうかがいました。もっともお仕事と言えばお仕事なのですが、なんとタンポポの写真を撮るためだというのです。坂村真民記念館の企画展で坂村真民とタンポポというテーマで開催されようとお考えで、そのポスターにするのにタンポポの写真を撮っているのだということです。タンポポなら、どこにでも咲いていそうだと思いますが、タンポポを撮るためにわざわざ旅をなさるというのは、とても素晴らしいと思いました。ご夫婦でタンポポの写真を撮っておられるという、そのお姿に平和を感じます。西澤真美子さんが、父である真民先生のご様子を語ってくださいました。真民先生は、どこにいってもタンポポがあると、その場にしゃがんで、それそれはおよろこびになるのだそうです。それもタンポポの花が咲くたびによろこばれるので、真美子さんも、そんなによろこばなくてもと思うほどだったというのです。しかし、真美子さんは、そういうタンポポの花に会うたびに喜び、感動する心が詩を生み出していくのかと仰っていました。これは深い話だと思いました。私などは、タンポポが咲いていても、毎回そこまでよろこび感動するというほどではありません。ああタンポポだ、真民先生のお花だと思って、ほんの少し足を止めるくらいであります。これでは詩ができないのであります。真民先生は、花を愛されたのですが、とりわけ野の花を大事にされていました。 野の花わたしが愛するのは野の花黙って咲き黙って散ってゆく野の花という詩は真民先生の優しいお心と、野の花のように生きようとする強い願いが込められています。私が編集した『坂村真民詩集百選』にも花の詩を二十編選んでいます。そのはじめには、 清貧花が咲き鳥が鳴くそれだけでもどんなにこの世は楽しいことかお金をもうける欲を捨てせめて晩年でもいい二度とない人生を心平らかに生きてゆこう清貧に生きた聖フランシスコのようにという詩を掲げています。この詩の冒頭の花が咲き鳥が鳴くそれだけでもどんなにこの世は楽しいことかこの言葉にも真民先生の世界を感じることができます。道の辺に花がさき、鳥が鳴いている、それだけ楽しいのです、それだけで幸せなのです、それだけで十分感動できるのです。そんな心を持っていたいものです。タンポポで一番知られているのはやはり「タンポポ魂」の詩です。 タンポポ魂踏みにじられても食いちぎられても死にもしない枯れもしないその根強さそしてつねに太陽に向かって咲くその明るさわたしはそれをわたしの魂とするこの詩を読むと、みずから「モッコス」男と呼ばれた真民先生の力強さを感じます。モッコスというのは真民先生のお生れになった熊本の方言です。一こくもの、一てつもの、反抗者、がんこものなどの意を含んだ言葉です。土性骨というような力強いものを感じるのです。もっこすの唄という詩を紹介しましょう。 もっこすの唄十一をかしらに乳飲み子をいれて五人遣されたいていの女ならしょげこむところを母の立ちあがりは見事だった七十二年の生涯は立派だった母こそもっこすの代表者だといばって言うことができるそしてその血を受けて育ったわたしだ痩せてはいるが貧乏してはいるがちょっとやそっとでへたばりはせぬ鉄敷(かなしき)のように叩かれ通しでもそうやすやすとよわねは吐かぬ肥後の根性者(こんじょうもん)のこころ意気見せろこれがタンポポの根強さなのだと思います。タンポポを詠った詩はたくさんあります。いくつか紹介しましょう。 本当の愛本当の愛はタンポポの根のように強くタンポポの花のように美しいそしてタンポポの種のように四方に幸せの輪を広げてゆくこの詩はタンポポに学ぶものを、根と花と種の三つに分けています。この三つから学ぶものをもう少し具体的に詠っているのが、「タンポポのように」という詩です。こちらも紹介しましょう。タンポポのようにわたしはタンポポの根のように強くなりたいと思いましたタンポポは踏みにじられても食いちぎられても泣きごとや弱音やぐちは言いません却ってぐんぐん根を大地におろしてゆくのですわたしはタンポポのように明るく生きたいと思いました太陽の光をいっぱい吸い取って道べに咲いているこの野草の花をじっと見ているとどんな辛いことがあってもどんな苦しいことがあってもリンリンとした勇気が体のなかに満ち溢れてくるのですわたしはタンポポの種のようにどんな遠い処へも飛んでいってその花言葉のように幸せをまき散らしたいのですこの花の心をわたしの願いとして一筋に生きてゆきたいのですこのように一途に咲く野の花から学ぶのであります。何を学ぶかということは、この詩を読むとはっきりします。 花は歎かずわたしは今を生きる姿を花に見る花の命は短くてなど歎かず今を生きる花の姿を賛美するああ咲くもよし散るもよし花は歎かず今を生きるこの詩は、全詩集の中では「今に生きる」となっていますが、真民先生のご生前に出版された講談社+α新書『花ひらく心ひらく道ひらく』には「今を生きる」となっています。恐らく真民先生のご意向で変えられたのだと察します。そこで私も真民詩集百選を編集したときには「今を生きる」にしたのでした。最後に「自分の花」を紹介します。 自分の花真実の自己を見出すためにわたしは坐を続けてきた自分の花を咲かせるためにわたしは詩を作ってきたしんみんよしっかりしろと鞭打ち励まし人生を送ってきた天才でない者は努力するほかに道はないタンポポを愛し朴を愛するのもその根強さとその悠揚さとを身につけたいからである坐も生死詩も生死であるああこの一度ぎりの露命の中に咲く花よどんなに小さい花でもよいわたしはわたしの花を咲かせたいこの頃は私のこのYouTubeラジオで真民先生の詩を知ったといって、坂村真民記念館を訪ねてくれる人もいらっしゃるとのことでした。私のこんな拙い話もタンポポの種のようにいろんなところに広がっていってくれているのだと有り難く思いました。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺 #毎日更新 #鎌倉 #禅 #円覚寺 #呼吸瞑想 #管長日記 9 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? 記事をサポート