第1214回「季刊『禅文化』 – 南天棒老師の特集 –」

中学生の頃の愛読書のひとつに『禅に生きる傑僧 南天棒』という春秋社の本があります。

一九六三年に春秋社から発行されています。

こんな書物を、中学の頃に、実に「血湧き肉躍る」思いで読みふけっていたものです。

当時私が南天棒老師に抱いた印象というのは、恐ろしい禅僧なのであります。

写真を拝見しても大きく太い南天の棒を持って、今にも打ちかかってきそうであります。

中学生の頃から、公案をもらって坐禅していましたので、私は自分の部屋で坐禅するときに、その恐ろしい南天棒老師が、大きな棒を構えて目の前に坐っておられると想像して坐ったのでした。

こちらがボヤボヤしていてはあの棒で打たれてしまいます。

真剣に坐らないといけません。

そんな南天棒老師というのは、どういう方なのかを知るには、今回発行された季刊『禅文化』二七二号がよろしいかとお薦めします。

まず『禅文化』にある南天棒老師の年譜をもとにご生涯のあらましを紹介します。

お生れは天保十年、西暦一八三九年、 長崎県唐津であります。

七歳の時にお母様をなくされています。

この亡き母を思う心が出家の一番のもとになっています。

十一歳で出家し、平戸 (長崎県) 雄香寺の麗宗全沢老師の下で修行されました。

十八歳で圓福僧堂(京都府) に掛塔します

二十歳の時に圓福僧堂に「誓詞の松」 を植えて、大悟の大願を立てられました。

二十三歳で梅林僧堂(福岡県)に掛搭されました。

二十七歳で梅林寺の羅山元磨老師より印可を受けます。
その後、諸国を行脚して二十四人の老師方に参禅されています。

三十一歳で大成寺 (山口県) に住しました。

四十七歳で本山の特命により、 麻布 (東京都) 曹渓寺に東京選仏道場を創設します。

更に四十八歳、山岡鉄舟の尽力で市ヶ谷 (東京都) に道林寺を開創しました。

五十三歳で松島(宮城県) 瑞巌寺にお入りになっています。

五十五歳で「宗匠検定法」を本山へ提出します。

六十四歳で西宮(兵庫県) 海清寺に入寺します。

以後二十二年 「人作り」に東奔西走しています。

八十歳で海清寺開山・無因宗因禅師五百年遠諱を厳修します。

その際、自身の「入定式」 (生前葬) を行っています。

西暦一九二五年、数え年八十七歳でご遷化なされました。

特筆すべきは、印可を受けてから更に二十四名の老師方に参禅されていることです。

そして更に南天の棒を大分の山の中で切り出して、それをもって再行脚し、全国の老師方を点検して回ったというのです。

宗匠検定法というのは、当時の師家全員を本山に呼び寄せて問答して再試験をして、合格しないと師家の資格を剥奪して再行脚を命ずるという内容のものです。

乃木希典大将が参禅されたのが、この南天棒老師でありました。

そんな南天棒老師のことについて、今回の『禅文化』で、圓福寺僧堂の師家である政道徳門老師と対談させてもらって、巻頭に記事にしています。

これは各先生方の論文だけですと、どうしても難しい内容になってしまいがちなので、一般読者にも読みやすいように、対談を最初にいれています。

対談していろんなことが話しあえて、理解が深まったのですが、なんといっても政道老師が、お師匠さまの加藤月叟老師の言葉を教えてくれたことでした。

対談をしたのが、南天棒老師が住された西宮の海清寺でありました。

その対談した前の日に南天棒老師百年諱の法要が営まれたのでした。

本堂には頂相、遺偈と共に、南天棒老師の「達磨図」 (南天棒自画賛 海清寺蔵)がかけられていました。

政道老師は「今回の齋会で、ぜひ掲げたかった一幅です」と言って紹介してくださいました。

そして政道老師は「私が雲水のとき先師 (加藤月叟老師) が海清寺から借りてきて曰く、『今まで私は間違えていた。 この達磨さんの絵を見て、この方はこんなに純真な方だったんだとわかった」 」

と仰ったことでありました。

達磨の画を描くと、その描く人本人が露わになると言われますが、実に南天棒老師の真面目が現われています。

この達磨図も対談記事の中に写真で掲載されています。

特集には「南天棒 その生涯と思想展開」として、

モール・ミシェル先生が「南天棒 その生涯と思想展開」と

蓮沼直應先生が「二つの居士禅ー南天棒老師と釈宗演老師」と

堀野真澄先生が「明治の瑞巌寺と南天棒」と

花園大学の福島恒徳先生「南天棒の書画ー衆生接化の苦行」と

衣斐弘行和尚、「南天棒のことば」と寳積玄承老師がそれぞれ玉稿を寄せてくださっています。

実に読み応えのある特集であります。

ほかに「リレー連載 叢林を語る」はこのたび妙心寺の管長にご就任遊ばれた、正眼僧堂の山川宗玄老師が登壇されています。

「誌上提唱」『碧巌録』は第三則 馬大師不安を安永祖堂老師が提唱してくださっています。

また「修行者たちのために 東陽英朝「大道眞源禅師小参」を読む」は河野徹山老師の提唱です。

「唐物と禅」は最終回で「破れ虚堂」について彭丹さんが書かれています。

「世語を楽しむ」も最終回で、重松宗育和尚が書いてくれています。

「岡村美穂子先生のこと」として書いてくれている前田直美さんの文章は秀逸です。

「永平道元の四六文」を西尾賢隆先生「初めての人のための漢詩講座」は平兮正道先生です。

「禅における心身について」の連載は「何もしないことに全力をあげる」河合隼雄から学ぶ禅の姿勢」として佐々木奘堂和尚が書いてくれています。

河合隼雄先生の「私は時に、自分の仕事の理想は「何もしないことに全力をあげる」ことではないかとさえ思う。

人びとは自分の力で治ってゆく。

自分の力で治ってゆく人の自己治癒の力を最大限に発揮させる最良の方策は、他から余計な力を介入させないことだ。

こんな観点からみると、心理療法家としての失敗は、何かしなかったためよりも、何かしたために生じることの方が多いように思われる。」

という言葉を引用されて、「この言葉を安直に受け取ると必ず、「全力をあげる」が抜け落ちてしまい、ただ「何もしない」になってしまいがちです」と書かれて、「何もしない」ことの弊害を論じてくれています。

禅の修行もまたただありのままでよいという悪い「平常無事」になってしまう恐れがあります。

そのへんを佐々木奘堂さんが手厳しく論じてくれていますので、大いに励まされます。

今回も季刊『禅文化』をお薦めしておきます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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