第1193回「空だからこそ」

大乗仏教は、「西暦紀元前後からインドに広がった仏教の新たな理念形成、変革の運動」だと『仏教辞典』には解説されています。

そのいろんな特徴のある中で「空」という思想があげられます。

空であるからこそ、大きく発展したといってもよろしいかと思っています。

空であることを、昨日は、プラムヴィレッジのブラザー・ファップ・ユン師の言葉で説明しました。

「empty of a separate self entity」という言葉です。

空とは、分離された自己自身というものがないという意味です。

ティク・ナット・ハン師の『般若心経』の本には、「インタービーング」という言葉が書かれています。

ティク・ナット・ハン師がよく用いられた話が書かれています。

「もしあなたが詩人ならば、この一枚の紙に雲が浮かんでいるのをはっきりと見ることでしょう。

雲がなければ、雨はない。雨がなければ、木は育たない。

木がなければ、紙は作れない。

雲は、紙が存在するために欠かせないのです。

もしここに雲がなければ、一枚の紙もここにはない。

ゆえに、雲と紙はかかわり合って存在していると言うことができます。 」

というのです。

こういう関わり合いを「インタービーイング(interbeing 相互存在)」というのです。

インタービーングの洞察は、空の教えをよりはっきり理解するのに役立つとティク・ナット・ハン師は語っています。

般若心経では、観自在菩薩が深い般若波羅蜜を実践して、存在する五つの構成要素が空であると見抜いたと説かれています。

しかし、いったい何が空なのかが問題なのです。

コップが空っぽということはそこに水がないということなのです。

何が空なのかが問題なのであって、ティク・ナット・ハン師は、
「『何が空なのですか?』という私たちの問いに対する菩薩の答えはこうでした。
『独立した実体はない』」

と説かれています。

そしてこんな喩えが書かれています。

「あるところに王がいて、楽師の奏でる十六弦のシタールの演奏を聴き、心の底から感動しました。

その音楽にたいそう感銘を受けた王は、その音がいったいどこから来ているのかを知りたくなりました。

楽師がそのシタールを王に献上して退去すると、王はその楽器を細かく切り刻むように従者に命令しました。

けれども、どれほどがんばってもあの美しい音色の元になる、あの音楽の本体を見つけることはできませんでした。」

という喩え話であります。

満開の桜の花を見ると美しいものです。

でもあの綺麗な桜の花の色が、どこにあるのか、木を割って探してみても見つからないのです。

ティク・ナット・ハン師は更に

「観自在菩薩は自らの五蘊を深く観ることによって、この王と同じように、独立した実体はないことを発見したのです。

たとえどんなにすばらしいものでも、それを深く観ていくと、他から分離した実体と呼べるようなものはないことがわかります。

私たちには、五蘊の中に何か一定の変わらないものがあると信じる傾向があります。

しかし、五蘊は絶え間なく流れていて、生じては大きくなり、やがて消えてなくなっていきます。」

というのです。

私たちは「かたくなに、五蘊には不変で独立した実体がある、自分は一人の人間という他から分離した存在だと信じ続けています。

ブッダは、そのような実体 (我)は存在しない、と説かれました。

あの王が試してみたように、五蘊を分解してその中に実体を探そうとしても、見つけることはできないのです。」

というのが空の教えであります。

先日は、満開の桜を眺めながら、岐阜県揖斐川町の大興寺様の法話会に招かれて行ってきました。

日帰りで少々たいへんでしたが、沿線の桜を眺めながら、有り難いことでした。

桜の花は、木を割ってみても見つかりませんが、この春の日差し、大地の恵み、雨や風、あらゆるものが相互に関わりあって見事に咲いているのです。

インタービーングなのです。

大興寺様の法話会は、先代のご住職の頃からとても盛んに行われています。

清水寺の大西良慶和上や、浄土真宗の金子大栄先生、臨済宗では山田無文老師や松原泰道先生、という錚々たる方が法話をなさっていた会であります。

今も清水寺の森清範和上や曹洞宗の青山俊董老師や、臨済宗の玄侑宗久先生などがお見えになっているのです。

そんなところに私が参るのですから、なんとも恐れ多いことです。

控え室の床の間には椎尾弁匡僧正の「夢」という書がかけられていました。

ご住職にうかがうと、椎尾弁匡僧正もまたお見えになっていたそうなのです。

今回の法話は降誕会の前の日ということもあって、お釈迦様の話をしました。

お生れになった時のことから、悟りを開かれ法を説かれた御一生を語りました。

そしてお釈迦様の四諦の教えが、今四弘誓願文として受け継がれていることを話ました。

四諦のはじめが苦諦です。

この世は苦しみであるという真理です。

その苦しみが、はじめは個人の苦しみであったのが、大乗仏教の空の教えによって、みんながつながりあっているのですから、私個人の苦ではなく、みんなの苦しみを救おうと発展したのでした。

生きとし生ける者の苦しみを救ってゆこうという願いに発展したのでした。

これは空であるからこその発展であります。

私もこの世界も分離して考えることはできません。

この世の苦しみを救いたいという願いになったのです。

そしてその苦しみのもとはというと、各自の自我意識、わがまま、欲望なのです。

これを減らすにはどうしたらいいか、教えを学ばないといけません。

そうしてみんなが安らかに幸せに暮らせる世の中を実現してゆこうというのが四弘誓願文なのです。

四諦の教えが、大乗仏教の空の教えによって四弘誓願文として発展して禅の世界に受け継がれているという話をしたのでした。

空なればこその発展したのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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