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【短編小説】臍の緒

 ふた股どころか、13股ぐらいしてたんじゃないかな? 缶ビール1本でふにゃふにゃになるような彼はアコースティックギターを持ってステージに立つと脇役から主役になった。ステージから降りると猫背で誰しもに『私がいないと── 』と母性本能をつつく弱さを醸し出しているのに。ライブハウスでのイベントが終わった後はいつも彼の周りだけ取り巻きに囲まれていた。私はその様子を少し離れたコンビニの外で煙草を吸いながら見ていた。そして、私の姿を目にしときながら、彼はどこかへ消えてゆくのだ。はじめは泣いた。商店街のアーケードの下を泣きながら歩いたのは後にも先にも一度だけ彼の最初の浮気を知った時だった。ショックだったのに別れるのも浮気相手に負けたようでなんだか悔しくして、いつからか、ひとり、またひとりと彼との関係を匂わす女が目の前に現れるたび、私も少しずつふてぶてしくなっていった。ここまでくれば観察日記、彼の女癖の悪さをとことん観察してみようと彼の行動記録をつけてみたこともあったっけ。
 私がそんな彼の話をすると高校の後輩や先輩がそこまで浮気をできる彼に興味を持ってわざと私抜きで彼のライブに行った。行くだけならよかったのに彼のことを好きになったようで途中から音信不通、彼から私の先輩や後輩の近況を聞くように状況は変わっていった。
 ろくでもないやつって思うでしょ?
 本当に100%ろくでもないやつなら良かったんだけどね、天下一品の女癖の悪さはとりあえず目をつぶるとして、彼は毎月五万円、もう何年も私と付き合う前からずっと別れた奥さんに振り込んでいた。このことは私と元奥さんしか知らないことだと思う。
 ある夜、確か、風が強くて停電になった日だった。買っておいたアロマキャンドルに火をつけてその灯りの中で話をしていた時だった。はじめて彼から子供がいること、実は離婚歴があることを打ち明けられた。そして、誰と付き合っても結婚する気はないことも。『何? 子供? 』 と私は絶句してキャンドルの火が消えるほどの『ふうっ──』と深いため息が自然に口から出ていた。彼が言うには、高校生の頃、付き合った彼女と一度だけそういうことをして別れたあとで彼女が妊娠していたことを知ったらしい。
 形だけの入籍、本当は一度も一緒に暮らしてもいないし、娘さんの顔も知らない。離婚したのは相手に好きな人ができたからだと苦笑しながら話していた。

「彼女とも娘とも会ってもないし、やりとりするのは彼女の親とうちの親なんだけど、自分の娘がいることに時々、狭心症のように胸が痛くなるんだ」
「会いに行けば? 」
「こんな俺が父親だって知れば彼女が惨めになる」
「自覚はあるんだ? 」
「ある。ステージに立っていても俺は俺をステージの隅からじっと見てる。ろくでもない男だって」
「じゃあ、まともになれば? 」
「誰だっけ? 言ってなかったっけ? 主役になれないから、ステージに立ちたがるんだよ。成り上がりたくなるんだって。俺みたいな主役にはなれない奴が立ちたがるんだよ」
 彼はそう言ってギターケースの中の内ポケットから銀行の通帳を取り出し、私に振込の記帳の文字を見せた。
 彼は世間から見ても私から見ても、ろくでもない人に変わりはなかった。どうせなら、とことんクズならいいのにとも思う。その日は確か『いい夫婦の日』だった。花がよく売れたと夕方のニュースで言っていた。彼がもし花束を手にして帰宅するような人なら、私はとっくに離れていると他人事みたいに思っていた。 彼は一生、私のものにはならない。それでも帰ってくる場所が私であればいい、そんなふうに気持ちがゆく場所を私は私で作れた気でいた。

「週末、東京行く!! 」
「東京? 」 
「事務所から声をかけられてる」
 何事かと思えば、今さらながらデビューの話が舞い込んできたらしい。
「プロになるの? 」
「いいや。ただ話を聞いてみたい。プロが俺の声をどう評価してるのか、それが聞きたいだけ」
 彼は私に背中を向けたまま、必死でギターケースを布で拭いていた。そして、フローリングに置きっぱなしにしていたトランクスと白のTシャツをリュックに入れたかと思ったら革ジャンを着てサングラスをかけて
「そろそろ、別れようか? 」
 彼から別れを告げてきた。
 一瞬、目の前がぼやけて見えた。脳震盪が起きた気がした。でもどこかでこんな瞬間がくる覚悟はしていた。彼から別れを切り出された時、それが終わりだと。

 時々、銀行のATMで家賃を振り込む瞬間、彼が見せてくれた通帳を思い出す。彼が毎月、振り込む──私にはそれが元奥さんや娘さんとのつながり、へその緒だと思った。
 私と彼には、そんなへその緒はなかった。
「じゃあ──」
 真夜中に彼は出ていった。
 彼が部屋に置いていったのはギターのピック。私と彼を繋ぐへその緒ははじめからなかった。なのに体の中の血管がひとつ切れた気がして血が流れてゆくようなドクドクという心臓の音が聞こえてパニックになった。

 いい夫婦の日は嫌いだ。
 もう随分と前のことなのにそんな夜を思い出して今もひとりな私は臍の上に手を当てて切られたはずの臍の緒を指で探していた。

 
 

 
 
 

 
 

 
 

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