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【短編】海蛇とペンギン、もう恋は手放そうか──

 海蛇みたいな彼と出会ったのはコーヒーショップだった。その時、私は2階のカウンター席に座って窓から見える並木通りを歩く人たちを見ていた。肩を寄せて歩く恋人たちの姿を見ていると、妊娠を告げてきた親友の頼んだミルクの匂いと私の部屋に残った彼の片方だけのボーダーのスニーカーソックスがまた私の中で揺れはじめた。

 親友から妊娠を告げられたのはコーヒーショップのそばにある数年前にオープンしたサンドイッチ屋だった。期間限定のシャインマスカットのサンドイッチを何も考えずに頬張った時だった。
 当時、私は親友と彼のことを『くらげ』と言っていた。くらげみたいな彼と親友がそんな関係だったなんて、私は彼と幸せすぎて疑ったこともなかった。後になって『くらげに愛されている私が憎くて、くらげのことが好きというよりあなたからくらげじゃなく、幸せを奪いたかったらしいよ』人伝にそう聞いた。
 親友の家庭環境は複雑だった。だから、仕方ないのかもしれない、そういいかせながら、何が仕方ないの? もうひとりの私がいつも詰め寄ってきた。この日もそうだった。

 ──どうしようもできないようなことが起きたときは、とにかく時間に委ねることです。人間は素晴らしい『忘れる』という才能があります。忘れられないと思ったことでも歳を重ねてると忘れてるんです──

 誰かのその言葉だけを支えに1日の終わりにはカレンダーに◯を自分でつけていた。彼は私のことより彼女のことより自分が父親になるという責任に押しつぶされそうだと1度だけかかってきた電話でそう話していた。

 珈琲がはいった紙コップを手にしてそんなことを無限ループみたいにずっと思い出し考えていた私に声をかけてきたのが海蛇だった。
『なぁ、ひとりなら一緒に飲まん? 』
 そう言って勝手にカウンター席の私の隣に座った。
 ビールではなく、お互いブラックコーヒーを飲みながら。返事もしてないのに勝手に隣に座った彼の顔を見ると目が海蛇の目に似ていた。蛇の目は一見、鋭いイメージだけどよく見ると優しい。それを知ったのは元カレと水族館に行ったときだった。
「ストレートに言ってもいい? めちゃくちゃタイプなん!! 」
「趣味悪!! 」
 最初は確かそんな会話で気がつけば日が落ちるまで空の紙コップを持ったまま、彼は私の隣で聞いてもいないことをベラベラと話していた。
 そして、彼が私のトレーも持って立ち上がった時だと思う。私の中のほんの数ミリの隙間に彼が入ってきた。
 恋って多分、そういうものだと思う。海月と友達のことしか考えられなかった私の隙間に。
 トレーを棚に返却する彼の背中に抱きつきたくなったのは多分、本能だったのだと思う。それから彼は私のほんの数ミリの隙間からポタポタと雨水みたいに侵入してきた。

 どうせこの人とも別れる──そんなふうに思いながら一瞬でもふたりのことを忘れられたらいいと思っていた。
 別れるきっかけもなく、だらだらと3年ぐらい関係は続いていた秋、販売の仕事をしていた彼が珍しく日曜日が休みになった日、
「水族館行こうか? 俺、ペンギン見たいし」
「ペンギン? なんでペンギン? 似合わないよ。あなたにペンギンなんて、海蛇みたいな人なのに!! 」
「海蛇? お前の中の俺って蛇なの? 」
 彼は、そういうとスマホで私にはどうでもいいペンギンの動画を検索して私に見せてきた。紅葉で有名な観光地だったその場所は、すれ違うフェリーからも人が溢れているのがわかった。私も彼も椅子に座ることができず、デッキに立っていた。島についても人が多すぎて思うように進めない。一旦、人混みからぬけて砂浜に降りた。
「なんか、悪い。ここまでとは思わなくて」
「仕方ないよ。みんな行くとこは限られてるから。今なんてネットがあるから隠れ家でもすぐに公になるしね」
 砂浜に降りる階段に腰掛けた。
「ひとつ、聞いていいか? お前、誰か好きな人いんの? 」
「なにそれ? 今さら? 馬鹿じゃないの? ナンパしてきたあなたが言うこと? 」
 彼は、その後、何も言わずひとりが人混みの流れとは逆方向へ歩いて行った。私はパンプスの中に入った砂を落として、ひとりで水族館へと向かった。

 ペンギンにもアザラシにもイルカにも興味はなかった。私がただ見たかったのはくらげだけだ。くらげがどこへ泳ごうとしてるのか、それだけが見たかった。私は水槽から少し離れたところでずっとくらげを見ていた。ヌルヌルとしてるくせに、水族館の水槽の中だと芸術みたいに美しく浮かんでいた。
『ほらっ、くらげだよ』
 親子連れが目の前にきたと思ったら、くらげ一家だった。くらげは私から目をそらして、彼女はくらげを見ながら涙をこぼしていた。沈黙の中『ぷかぷかしてる、ママ、青がきれい』まだ小さな娘さんの声だけが響いた。

「おい、追っかけてこいよ。どういうつもりだ!! 」
 その後に響いたのは彼の声だった。何もわかってなかった彼は、『くらげなんか見てないで、海蛇見ようぜ』立ち尽くしていた私の背中を押した。私はくらげと彼女に会釈だけした。
「なんか、知り合い? あのふたりお前に、ものすげぇ、丁寧なお辞儀してたけど? 」
 まるで龍みたいに泳ぐ海蛇の前ではじめて彼に話した。
「元彼で元親友。あの娘さんが別れた理由かな。でも元気でよかった」
「──なんじゃそれ? まあ、くらげより海蛇が格好いいぜ。でも、俺は一番はやっぱりペンギン。お前、ペンギンに似てる」
「えっ? 何? バカにしてるの? 」
「さて、この次、どうしますか? ペンギンちゃん!! 次、行こうぜ、次へ。いつまでも後ろばっか見るなよ」

 ──次、行こうぜ、次へ。

 そんな簡単じゃないことはわかっていた。でも難しい顔をしていても時は過ぎてゆく。
 その日、帰りのフェリーも人でごった返していた。
「忘れられないなら別れてもいい」
 手すりにもたれて海を見ながら彼は予期せぬ言葉を口にした。
「ずっとさ、わかってたんだ。あの日、コーヒーショップでずっと紙コップを大事そうに抱えて飲みもせずに外ばっか見てたから、誰かいるんだろうなって。俺も言わなかったし、お前も言わなかった。肝心なことはな。俺も忘れたいけど忘れられない人がいる」
「同罪だね」
「まあな」
 続きの言葉はなくあっという間に本土に着いた。人ごみに紛れて彼が別の道を歩くのもありだと思いながら駅へと向かっていた。彼がその時、何を考えていたのかわからなかった。
「カレー、このあと、俺、カレー作るけど食べる? 」
 そう聞いてきた。
「うん」

 恋はいつか終わる。
 そう思ったのは彼のつくるカレーを食べてからだ。
「夫婦がなんとなく似てくるのは同じものを口にしてるからなんだってさ」
「ペンギンと海蛇が夫婦になったからって似るわけないでしょ? 」
「よおおく、よおおく見てみ? 目がそっくりだからさ」
 私はそう言われて彼のつくったカレーの中に入っていたグリーンピースを目でもないのに見ていた。

 「もう恋は手放そうか」
 彼がカレーを食べ終えた後、立ち上がってお皿を持った時、言った言葉の意味を私はわかったつもりでいた。
 相変わらず、台所へと向かう背中は抱きしめたいままだった。

 
 

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