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#107 長月の本

長月〜長月。

10月神無月、もう気付いたら肌寒くなって。この季節に散歩するのが私は一番好きです。
すこし寒いけれど薄着で外に出れるギリギリのこの狭間の季節に、ただ歩いていると、なぜだか今までの良かったこと、たのしかったことが次々と思い出てきます。
この時期に咲いている花や、この時期しか着ることの出来ない服、ももちろん好きな要因のひとつですが、
その、肌で感じて感情とは関係なく勝手に思い出てくるこの感じが、今しか味わえなくて、好きなんです。

長月に読んだ本はこちら。

人間失格 太宰治

先月又吉のYouTubeにハマり(特に「百の三」というコンテンツ)、又吉が太宰治のお話をしていたので、その気持ちがわかるようになりたくて手に取ってみた。

読んでみると、「どうしてそんな風に考えてしまうの、、、」の連続だ。

辛すぎる。手記として書かれているため、終始人の日記を盗み見しているような気持ちで読んでいた。私は小説に限っては、バッドエンドや暗いお話に現実味や魅力を感じる。だから好きなのだが、この本は読んでいてさすがに苦しくなってしまった。

自分のことを人間だとは思えず、小さな頃から客観的に物事を見過ぎており、自分を道化と思っている。酒や薬物に頼ってしまう。大切な人が出来はするが、生涯信じることはできない。

本当に客観的に読んでいる私からみたら、主人公を大切に思っている人や愛している人は周りにいることがわかる。ちゃんとわかる。でも本人は気付いていないし、ずっと孤独と共に追い込まれている。

「ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作」

と装丁の折り込みの部分に書いてあったが、

この、冷静になれば事実として孤独ではなくても孤独感を感じる瞬間 がたしかに私にもあって、きっと他の人にもあるから、こんなにも長く語り継がれているのか、と納得した。

だからか。苦しいのに、1日であっという間に読んでしまった。



ナナメの夕暮れ 若林正恭

若林が、、若林が成長している!というのが第一に本書を読んで出てきた心の声。

一作目である「社会人大学人見知り学部卒業見込」を読んでいた者として、久しぶりに会ったとても話が合う友人があのときからぐんぐん成長してしまったような寂しさと、希望のようなものが混ざった感情になった。

不貞腐れて全てをナナメに見ていたところから一変。一変というより主題の「夕暮れ」のようにグラデーションのように変わっている様がありありと描かれていた。

中でも冷笑に関するお話。今まで冷笑する側だった若林が、その冷笑する気持ちをわかりつつも冷笑される側に飛び込み、ナナメな考えから肯定していく考えへと意識的に取り組むところ。

”好きなことがある”ということは、それだけで朝起きる理由になる。
”好き”という感情は”肯定”だ。
つまり、好きなことがあるということは”世界を肯定している”ということになる。
そして、それは”世界が好き”ということになるという三段論法が成立する。
ナナメの夕暮れ ナナメの殺し方

本書でいちばん好きな文章だ。

いつまでもいくつになっても若林は世界をナナメに見続けてくれよ、卑屈でいてくれよ、グランデと言えないままでいてくれよ、俺の若林、、と思ってしまう私がうずうず沸いてきてしまったことは否定できないが

「ナナメの殺し方」というタイトルをつけて語ってくれるあたり、若林だ。

若林若林と親しみを込めて呼んでいるが、自分自身を通して悩み抜いて、悩んで悩んで、それも飽きて、次のフェーズに向かって生きていること、それを文章にして書いてくださって、ありがとうございます若林様、という気持ちだ。いつか悩むことにも飽きるということは、私にとって希望である。

ゴルフを始めたり、プロレスに熱中したり。自分が以前小馬鹿にしていたものを始めるというのはなんだか自分が自分を許せなくなるというか、誰に何を直接言われている訳では無いのにかっこ悪いの極みのような気がしてしまう。脳内会議をする身をしてはそういう気持ちがわかる。

そういうことは置いておいて、自分の意思でそれをやってみたり、やってみたら意外と良くて、良いと言っている人の気持ちもわかったり、

見ている景色が広がるということを体現してくれた1冊だった。

なりたい自分に近づこうとする様は、かっこいい。
来世ではなく、今世で。


おいしいごはんが食べられますように 高瀬隼子

こちらの投稿で感想を綴ったこの本。

この、タイトルが「美味しいご飯」ではなく「おいしいごはん」と、ひらがな表記のところも好きだ。

正解しか選ぶことのできない二谷にフォーカスが多く当たっているのだが、同僚の押尾さん視点でも物語が進む場面がある。

さらに同僚で、二谷が選んだ二谷の人生としては正解であろう料理のできる彼女、芦川さんの視点は一切描かれていない。

もし芦川さん視点で描かれていたら、絶対に全く違ったものになる、、物語はエッセイ並みに平和で穏やかでハッピーな雰囲気をまとったものになるかもしれない、いやでも、芦川さんは芦川さんで思ったより強かであり、根っからのやさしさというよりどうやってこの職場で生きるか、を考え抜いて生活しているかも、、

などと勝手に想像するのもたのしませてもらった。

また、後日著者の高瀬隼子さんが気になり調べたら、「むかつき」が小説の源泉になっているという。

日常の中で「あれ、なんか嫌だな」と思った感情を忘れないようにノートに書き溜めているそう。それもただの愚痴ではなく、どうして自分がそう思ったのか、相手がどうしてそういう行動をとったのか、疑問の深堀になり、

背景や人物像が浮かんでくるそうだ。

「みんなはこれが楽しいって言ってるけど、私は楽しくないなとか。みんなこれ嫌だなって言ってるけど、私これ嫌じゃないなみたいなところを今後もちゃんと拾っていって、忘れないようにメモしておいて、そこから自分がこれを描きたかったんだなっていうテーマを探せるようにしたいと思ってます。みんなに好かれなくてもいいから、自分が書きたいことには正直でいようって思うのでうそをつかない。フィクションなんでうそなんですけど、うそをつかないようにするっていうのは大事にしたいと思っています」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220826/k10013786991000.html

自分の気持ちや疑問を投影し、創作する中で突き詰めてまとめていく。

もやもややむかつきの原因がわかると楽になるの、共感した。

次は「いぬのかたちをしているもの」を読みます。


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