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言語学習という山を登る

AI翻訳を駆使すれば、どんな言語でも自由に操れるようになる――。

機械翻訳や自然言語処理技術が目覚ましく発展する中、今後はもはや外国語を学ぶ必要すらなくなると考える人も少なくないだろう。

しかし、インディアナ大学教授の認知科学者、ダグラス・ホフスタッター(Douglas Hofstadter)氏は、AI翻訳が生み出したアウトプットを流暢に使いこなしているように見えても、それは「ディープフェイク版の自分」でしかないと指摘する。

同氏は、アメリカのアトランティック誌に寄せたエッセイで、AI時代における外国語学習の必要性を強調した。

(原文の記事を読むには有料会員登録が必要となるが、クーリエ・ジャポンでは日本語訳版の全文を掲載している。)

エッセイの中で語られているのは、ホフスタッター教授自身がAI翻訳の限界について考えるきっかけとなった、二つの実体験だ。

一つ目は、上海からやってきた若者たちを前に、同氏が外国語として学んでいる中国語を使い、言葉に詰まりながらもなんとか即興で短いスピーチを披露した時のこと。

彼は、習得途上の中国語を必死に話そうとした際に垣間見える、つまずきやためらいも含め、言葉を通じて伝わるすべてが自分の人間としての一面を写し出しているという。AI技術により、ある言語を他の言語に瞬時に置き換えたとしても、そこには魂のないテキストがあるだけで、本当の自分はいない。

二つ目のエピソードは、親しいイタリアの友人を亡くした時のこと。ホフスタッター教授は、かつて自身がイタリアで過ごした日々を振り返り、何度も推敲を重ねながら、家族に対するお悔やみのメッセージをイタリア語で書き上げた。

母語を使う際よりはるかに多くの手間と時間をかけて彼がしたためた追悼メッセージには、これまでの学習過程で少しずつ自分のものにしてきたイタリア語の語彙や趣き、友人と交わした親密な会話の思い出が詰まっていた。

母語とは異なる言語のエッセンスを自分に染み込ませていく感覚は、言葉の学習と真剣に向き合う中でしか味わえない。

ホフスタッター教授にとって外国語を学ぶ意義とは、異国の言葉が持つ独自の世界観を内面化していくプロセスそのものにあるようだ。

彼は、外国語を学ばずとも、AI翻訳によってさまざまな言語でいとも簡単にアウトプットができてしまう現実を、ヘリコプターでエベレストの頂上に到達することに例える。

たしかに、エベレスト登頂が大きな意味を持つのは、自らの足で乗り越えた過酷な道のりがあってこそなのかもしれない。

一方で、険しい山岳地帯に、急いで誰かを救助しに行かなければならないとしたら?使う目的によっては、ヘリコプターが代替の利かない手段にもなり得る。

ホフスタッター教授が挙げた二つの実体験は、いずれも言葉を通じて相手に自身の内面や心情を伝える、パーソナルなコミュニケーションの場面だった。

しかし、言語を使うシーンには、感情よりも正確性や効率が重視される、極めて事務的なやり取りも存在する。

今後、自らの個性を発揮する際の言語の使い方と、情報の伝達のみにフォーカスしたコミュニケーションの方法は、別物として発展していくのかもしれない。

また、山登り、つまり言語学習を崇高なものとして捉え、自力で歩くことに意味を見出す人だけでなく、便利な移動手段を駆使していち早く高みに辿り着きたいと考える人がいるのも自然なことだ。

山頂に到達するための手段が、ヘリコプターほどコストのかかるものではなく、多くの人がすでに手にしているスマートフォンでも代替できるようになった今、外国語学習の意義はどう捉え直されていくのだろうか。

ホフスタッター教授は、これまでの人生において、母語の英語以外に7つの言語を学んだという。そのエッセイからは、言葉を通じて自分と向き合うことに情熱を注いできた人の思いと矜持が伝わってきた。

彼が書いた言葉を原文のままで読むことができたのは、私自身も長年英語を学んできたからだと思うとなんだか感慨深い。

同時に、これからまた新たな言語の習得に挑戦するとして、今度はどこまで泥臭く山登りを楽しめるだろうかと考える。

言語習得に終わりはないと言われる通り、外国語は一朝一夕に身につくものではない。だからこそ、時にはテクノロジーの力も使って休憩しつつ、最終的には自分の足で山を登れるくらいの体力をつけていたいと思う。


(編集部・Moe)


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