11/28『スプートニク砂糖がけ』そこはかとなく日記
今晩の夜行バスで東京に行くというのに、全く何も支度していない。しかしどうしても電車に乗るためだけに乗りたくなってしまい、シャワーを浴びて、ささっと部屋を片付けて出発した。
というのも、ガンディーの言葉に動かされたからだ。あるフォトグラファーの作品解説のような文章に、ガンディーの言葉が引用されていた。細かい文章は忘れたが、だいたい「私たちのすることはだいたいが無駄なことだ。でもしなければならない。世界を変えるためではなく、世界によって我々が変えられないために。」というような旨だった。
それをたまたま手にとって持ち帰ったのも、目にしたタイミングも、すべて完璧だった。私は今日、世界によって私が変えられてしまわないように、あてもなく、電車に乗るためだけに電車に乗るのだ。
時刻表を見たら、あと3分で出発すると書かれている。その次は1時間後。走った。閉まっていくドアの前で肩を落としていると、車掌さんが開けてくれた。ぎりぎり間に合った。
夜行バスの時間があったおかげで、とんでもなく遠くまで行くことにはならなかった。一駅先で降りてパンを買い、反対方面の電車に乗り換えて金沢まで乗った。金沢でまた反対方面に乗り換えて帰宅。
マスクだらけで陰鬱とした車内で、呑気にパンをもぐもぐしながら、スプートニクの恋人を読んだ。途中、完全な選択ミスの産物である砂糖がけドーナツを食べ終わった時、タイミング良く能美根上で5分停車した。外へ出て、服に落ちた砂糖を払い落とした。あまりにも好タイミングだったので、むしろ砂糖がけで良かったとまで思えた。
村上春樹の物語は、わたしにとってひとつの故郷である。その夢みたいな文章の一連が、ブレーメンの音楽隊みたいに、ここではないどこかへ私を連れ去っていく。私は私としての人生におけるつまらない悩みごとや、重要な決断から一時的に距離をおくことができる。それは他の本であってもそうだが、大抵は他人の人生を追体験していくようなもの。それらと少し違うのは、村上春樹の小説は、白昼夢のようだというところ。明らかなSFではなく、かといってリアルかと言われればそうでもない。だがそこで語られている物事の置かれ方、取り巻いている雰囲気は肌で感じられるほどリアルだ。とても生きている。
読み終わると、読む前までの私とはほんの少し、まつげ一本ほどだが、なにか違っている。寝ている時に見る夢の効能は、様々な説を聞きかじりすぎて未だによくわからない。しかし、夢に効能というものがあるのなら、村上春樹の小説は、それとかなり似たものをもたらしてくれているのだと思う。あやふやな書き方をしているのは、私自身、語られる内容をそれほど言語的に理解できていないからだろう。浸るのと、わかるのは違う。
特にスプートニクの恋人はまだ一周しか読めていないから、語れることはなにもない。ジェットコースターに乗って、降りた。ただそれだけ。一度読んでだいたいわかってしまうようなのは読まない。何度も読んで、やっと何か掴めるような本がいい。
今、夜行バスの中でこれを書いている。眠気と暖房で目が乾燥する。
車内アナウンスがくどくどと長く、音量もたぶん間違っている。リップ音や息漏れで身体がこわばるのを感じる。
アナウンスなんて今まであまり気にしたことはなかったが、気にならないように話してくれていたのだと気付いた。低い声で、何を言っているのかギリギリわからないくらいモソモソと話す。バスのアナウンスなんて別に聞こえなくていいのだ。必要なことは全部メールに記載されている。だいいち、A地点からB地点に人を運ぶために、何をそんなにアナウンスする必要があるのだろう。暖房が外気取り込みモードになっているかどうか知らせるために震わされるなんて、声帯がかわいそうだ。
シートを倒すときに、わざわざ声をかける必要性を感じないのたが、アナウンスされたことだし一応声をかけてみた。小声で伝えたら全然聞こえなかったらしく、しばらく見つめ合いながら3回も同じことを言った。知らない人と見つめ合うのはあんまり心地良い体験ではない。なんだかもやもやとしながらシートを倒した。遠慮なく限界まで倒した。
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