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詩) 夕餉の支度前

   夕餉の支度前

これまでに何を暮らしてきたか―――
そんなことを想いながら
たっぷりクリームの混じった春の陽の差し込む居間で
ガラス窓越しに見える雲を独り眺めている

いちにち、いちにち、というものは
鮮やかになったり
色褪せ、薄れたり
常に移ろい変化していくもの

私には幸福というものなど必要ではない
ましてや、いつもいつもはしゃいでいたら
いつもいつもはしゃいでいなければならなくなる
ただ、時おり喜べるような出来事があったらいい

戸棚の中にあるコップやお皿は眠っている
夕方になったらまた起き出してもらうけれど
今は眠っていてもかまわないわね
ああ、あの人は今ごろどうしているかしら

今日はまだ何も起きてはいない
昨日も特段のことは起きなかった
明日は雨が降るらしい
いろいろなところにまるい滴が生まれるのでしょう

あの人はいつも、おどおどと気にしているのよ
私がつまらない毎日を送っているのじゃないかって
ばかね、あなたは・・・
私には幸福というものなど必要ないのに

時おり、さーっ、と影が通り過ぎるように
寒々とした寂しさがすっぽりと肩を包むときもある
そんなときには、人間(ひと)であることを棄てて
天道虫のようにベランダに出て雲を眺めています

これまでに 何を暮らしてきたか―――
何も、とりたててこれといったものはなかった
たぶん遠からず、子供も授かるのだろう
その営みにかけるあの人の情熱には微笑さえしてしまう

何者かに、あるいは誰かに必要とされていることの確信
それはそんなに重要なことではない気がする
私自身が生きている拠り所が何であるかの確認
それもそんなに重要なことではない気がする

今日、何を歩いたか
そして明日、歩く場所があるか
そのことだけが愛しい
そのことだけを想っている

食器棚のガラスに映る私が誰なのか
それさえ蒸発してゆくような―――
そんな一日を歩いてゆくこと
そのことだけを想っている

ああ、あの人は今ごろ何をしているのかしら
幸福であることを確かにするために
きっと額に汗して己を励ましているに違いない
それがあの人の喜びであり続ければそれでいい

これまでに何を暮らしてきたか―――
そんなことを想いながら
たっぷりクリームの混じった春の陽の差し込む居間から
私は、ぽかぽかとして立ち上がる

          (2009.3.30)

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