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5.顔のアザ、こころのアザ

女の子なのに……

「えぬちゃん、弟か妹、欲しい?」

と、お母さんに確認されたことがあります。

生まれてから10年間、私は一人っ子として両親の期待を一身に担っていました。
ピアノを習わせ音大を目指させるなど、お金のない家庭には分不相応な教育を受けていました。
両親は私の手に職を付けさせようと必死だったのです。手に職をつける場が音大なのか?というのははなはだ疑問ですが、九州の田舎から出てきた若い夫婦は世間知らずだったのかな……。

両親が私の教育に必死になったことにはわけがありました。

私の左頬には生まれつき、赤い大きなアザがあったのです。

「女の子なのに……」

というのが両親はじめ身の回りのすべての人の気持ちだったでしょう。

アザと男女雇用機会均等法

アザは頬を覆っているだけでなく、目と鼻筋の間、鼻の下にも広がっています。血管腫という毛細血管が異常に発達する生まれつきの良性腫瘍ので、検査をしたところ単純性血管腫という種類のものだということでした。健康という面からは積極的な治療は不要ですが、目につく場所だけに整容性のための治療を勧められ、形成外科を紹介されました。

レーザー治療を何度か受けましたが、いったんレーザーで焼いても何度でも毛細血管は復活し、治ることはありませんでした。

女は選ばれる側の者、それも最も必要とされるのは容姿端麗であること。

物心ついたときから、それを感じていました。

男女雇用機会均等法が施行されるのは1986年。

私は1972年生まれです。

70年代の時点で既に時代はそっちの方、つまり女性が社会進出するという方向に世の中は流れているぞ、強い流れだぞ、というのは多くの人が感じていたと思いますが、とはいえ、その流れの先でどのようにそれが実現されて行くのか?ということは見えていませんでした。法律、法令がどうかということではなく、人々の価値観が実際にどのように変化していくのか、何が変化できないことなのか、といったことは読めませんでした。

少なくとも、今2022年現在のありようをはっきりと思い描けていた人は皆無だったでしょう。私たちが50年後を描けないのと同じように。

ですから、多くの家庭では、娘にも男並みの教育を施しつつ、結婚という道も残るようにと二つの道を残していました。

ところが私の場合容姿に著しい欠陥があったため、両親は結婚という道はないものと考えていましたから、その分教育に力が入ったのです。

弟はほしくない

最初の子にアザという問題があったため、二番目の子を持つか、持たないか、ということにも両親の迷いがありました。

弟か妹に普通の子が生まれればアザのあるN子がひがむかもしれない。かといって兄弟がいないのもかわいそうなのだろうか……。という悩みです。

だから、本人に聞いてみようと思ったのでしょう、 「えぬちゃん、弟か妹、欲しい?」と問うたわけです。

「欲しくない。」

というのが私の答えでした。

理由ははっきりしないけれど絶対欲しくない。こころからの本音でした。

質問されたのは5歳~7歳くらいの時期だったと思いますが、その時点ですでに私の世界はかなり混乱していました。それはやはり、一目見ただけで人と違うものがある、というこのアザが原因でした。

私は新しい場所に行けばいつも注目されていました。

一歩外に出ればそこにいる人の数突き刺さる視線。好奇の目や悪意、少なくとも『驚かれる』という過程は必ずある。疲れていました。

これ以上、私の世界をゴチャゴチャさせたくない、というのが当時、毎日毎日私が感じていたことだったのです。

親の現実逃避

両親が私にかけた過大な期待はピアノを習わせたことだけではありません。

むしろ、重圧だったのは、他のことです。

それは、顔のあざを絶対に隠さず、知らない人のいる場所に積極的に出かけていき、どこに行っても平然と堂々として振舞え、ということでした。

公園という地獄

4歳の時のことです。近所の公園に遊びに行ったら、知らない子たちがいっぱいいて、いつも遊んでいる友達は一人もいませんでした。そんな日って、ありますよね。

「知らない子しかいなかったから」

と家に帰ると、お母さんに激しく叱責されました。

お母さんは怖い顔で、

「知らない子しかいなかったら、自分から話しかけて遊びに入れてもらい、友達を作って来なければだめだ。そんな子は家に帰って来てはいけない」

ともう一度外に出されました。
スパルタでしょう?

仕方がないのでとぼとぼ公園に戻って言うわけです。

「いーれーて」

って。あの望んでもないのに知らない人の中に入っていく足の震えはおぼえてますね。
今は人前で話すのが得意です。怪我の功名ですね。

ゆるされぬ安心

同じころ、お母さんの自転車の後ろにのってパン屋さんに出かけたときのこと。

冬だったのだと思います。私はフード付きのジャンパーを着ていました。私はそのパン屋さんのコロッケパンがとても好きで、今でもあの、舌がぶわっとゆるむようなソースの匂いを思い出します。

ふと、左側に首をまわせば顔の半分がジャンパーのフードに隠れて、誰にも見えないということに気が付いたのです。

それはなんとも言えない、感じたことのない安らぎでした。綿入りのジャンパーの、綿の入ったフード、フェイクファーのふち取りが、鼻を優しく覆っていました。

守られていること。

みんなと同じでいること。

安全な場所から、自転車の横を流れていく人の営みを見物すること。

初めての気持ちに浸っていたら突然、夢が破られました。

「何やってるの!!」

お母さんの鬼の形相でした。

「こんな風にあざを隠して!わかってるんだからね!隠してはいけません!」

帰ったあと少し、お母さんは泣いていたようでした。

父のげんこつ

お父さんと駅前の西友に行ったときのこと。

階段ですれ違った同じ年代の3人の男の子のうち一人が、

「あっ変な顔!!」

と私を指さしました。

するとお父さんはその男の子をつかまえ、頭を上からげんこつで殴りました。

肩甲骨の間がカッと熱くなるような恥を覚えました。
何に対してなのか、とにかくすべてが恥ずかしかった。アザのことも、父がカッとなって見知らぬ子に折檻したことも、その三人の男の子が考えが足らないということも、自分がその時その場所にいたということも。自分が存在しているこの世界の何もかもが、居ても立っても居られないほど恥ずかしかったのです。

普通、恥というものは、恥をかくような行いをしている側と、そうでない良識の側に分かれるという構造をしていますよね。ですから不思議です。すべてが恥と感じたのは。すべてが恥なのであれば、既に恥ではないと思うのに。でもあのときのカッと熱くなる感覚は、怒りや嫌悪、憎悪といったものではなく、ただ恥でした。

……このようなことは数限りありませんのでこのくらいにしておきましょう。

理想教育と吉永小百合

両親は私を俗世から超越した人間に育てたかったのです。そのようなことをよく言っていました。

でも、彼らは俗世に生きていましたから、それを超えたところに何があるのかについては全く無知でした。

ですから、たとえてみれば、英語を喋れない親が子どもをインターナショナルスクールにいれる、バイリンガルに育てようとする、みたいないびつな子育てでした。

笑い話ですけど、たとえばお父さんが私に『見た目の美しさなんかくだらないものだ、真の美しさを追求すべきだ』、といったことを日常的に吹き込むわけですが、そういう彼は吉永小百合さんの大ファンなんですよ。
吉永小百合さんの美は内面の美だと思ってる。気立てが良くて素敵な人だから、と。

もちろん、吉永小百合さんは素敵な人でしょう。気立ても良いし立派なお仕事に真剣に取り組まれている。

でも、お父さんが吉永小百合さんを好きなのは美人だからでしょう。

美しい容姿の上に、人柄のエピソードがのっかって、好き!!ってなったんでしょう。

そもそもさてさて、『内面』とはいったい何でしょうか?

子どもの苦しみトレース疑惑

お母さんに至っては、私の苦しみをまともに受け止めて慰めたり励ましたりしてくれたことがありません。
アザに関していろいろ言われてくるわけですよ、学校で。嫌な出来事、意地悪な言葉なんかを「こんなことがあった、あんなことがあった」、と家に帰って訴えるんですけど、まず第一声、

「何言ってんの!」

という叱責です。

お母さんこそが苦しんでいると。お前は平気な顔をして、堂々としていろ、それがお母さんの苦しみを軽くすると。

それか、謝罪ですね。

「私がこんな風にあざがある姿に産んだから…」

という非論理的で役に立たない謝罪。

それでいて、自分のバイオリズムで母性的なホルモンが出ているときには勝手に心配をして、ただ糸がほつれて破れただけの袖を見て、

「いじめられたんじゃないの?!どうしたの!!いいなさい!」

と詰めて来る。

お母さんは娘にあざがあるということを自分の苦しみとしてとらえており、私の苦しみとしては断固として認めませんでした。そのことに関して理解しているのは自分一人であり、私にはそれを感知できるような感性は存在せず、それは全て思い違いに過ぎない。というのが彼女の世界観だったのです。

一方では私の教育にストイックに取り組み、ピアノのレッスンのお金が足らなければパートで働き、早朝に新聞配達をするような努力家でしたが、いったん自分のアイディアを思いつくとそれに溺れ現実が見えなくなるようなところがありました。

「悲劇のヒロインになったつもりなんじゃないの、見苦しい。」

これがお母さんの言いざまですよ。

でも、生まれつき顔にあざがあったら、まあまあ悲劇のヒロインだと思います。こんなこと言う母親を持ってるんですから、ますます悲劇のヒロイン確定なわけです。


ここまで読んでお分かりのように、アザに関して、両親と意思の疎通ができたことは、一度もなかったのです。
それは、彼らと私の間を隔てる深い溝であり、そのために私はどこか彼らを他人として感じていたのでした。

子どもの欠陥に向き合えない

色々な出会い・経験を経て50歳を目前にした今の私は一人の娘の母親でもありますので、両親の行動を振り返って、理解できるところも出て来ますし、逆に「これはひどいな」というところも出て来ます。

また、私は乳がんという病気を得て病気の受容について考える機会がありましたのでその経験から思うところもあります。

それは、私の両親は自分の子どもに先天的な欠陥があるということを、受け入れられなかったのだな、ということです。受け入れた上で現実と折り合いをつけていくような戦いが結局できなかった、そういうことなのだと思います。
そして彼らが受け入れなかったために生じた、理想や願いと現実の世界との差異、軋轢は、私が一手に引き受けるしかありませんでした。

両親は病院で治療を受けさせてはくれましたが、化粧品でアザを隠す方法は許されなかった、……というか、検討すらされませんでした。

なんでなのかな。わからない。メイクという方法で守れた心はあったと思うがなぁ……。

陳腐な理想に逃避するお父さんと、私の苦しみをトレースして独占するお母さん。
私は世間に放り出されていたのです。いつもひりひりする裸のままで。

毒親にもいろいろいるんでしょうね。

安っぽい実話マンガみたいなのによく載っているような、男にだらしがないシングルマザーや学歴コンプレックスの両親、みたいな人も実際にいるのでしょうけれど、私の両親はそうではなかった。でも彼らもまた、毒であることに変わりはありませんでした。

さて仕上げを御覧じろ

彼らの元でどんな子どもが出来上がったかというと、ものすごい学校中の嫌われ者です。

私はアザに関して何か言う人を徹底的に憎み見下しているだけでなく、好意で近付いてくる人のことも同じように憎み見下していました。

三島由紀夫『金閣寺』に、「かたわもまた美人と同じように人に見られることに飽いて、視線を腹の底から見返している」といった内容の文章がありますが、それを読んだ時にはまさに我が意を得たり、でした。

あざがあることから逃げも隠れもできないのですから、そうするしかなかったのです。突き刺さるような視線を数限りなく浴びて、軽い冗談も、優しい気遣いも、すべてが区別なく、痛かった。

ですから、誰とも友達になんかなれません。なんら優れたところもない、むしろ容姿で格段に劣っているのに周囲を見下げて、人望厚く性格の良いクラスメイトが手を差し伸べてやろうと温かい言葉をかけても鼻で笑ってはねつける、となれば、それは嫌われます。いるだけで雰囲気が悪いですよね、そんな人。だから、あざがあるからという以上の風当たりを受けました。

小学校四年生で引っ越すのですが、引っ越した後元の学校に手紙を書いても、誰も返事をくれませんでした。

娘が嫌われ者だということは両親の望むところではなかったので、N子は性格がきついとか、あこぎだと言って悩む様子でした。しかし、私をそのように育てたのはほかならぬ彼らだったのです。

やわらかでみずみずしいこころを持って生まれながら、奇怪な移動式の見世物のような暮らしに情け容赦なく追い込まれ、そのようになるしか、生きるすべがなかったのです。

美しくなろうとすることは、好かれようとすること

今思うのです。
美しくなろうとすることは、人に好かれようとすること。
そのこと自体に可愛げがあるのです。

子どもに美しくなることを禁じながら、何の対策もなく『人に好かれよ』と望むのは無理というもの。

美しさを手に入れられないなりに、人には好かれるように導きたい。

そう思うなら現実的にひとつひとつの振舞い方を小さなことから大きなことまでケースバイケースで真摯に見つめ直し、対応を工夫するのが親のやるべき事だと、私は思います。経験者として。

何か特殊な能力(私の場合はピアノ)を身に付けさせ、醜い不具を会う人会う人に馬鹿にされ、気持ち悪がられ、時に石を投げられ(実際投げられたことがある)、そのような場に毎日毎日出て行って堂々と生きろ、とスパルタで英才教育を施したら、生まれるのは孤高の超人ではない。

深い傷を受けた手のつけようのないモンスターなのです。

顔のアザ自体は、たいしたことではないと、今なら言えます。
問題は、こころのアザなのです。

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