『おくのほそ道』 松尾芭蕉のすごさを語りたい【読書ログ】

はじめに

『おくのほそ道』は、江戸時代に、俳句の巨匠である松尾芭蕉が みちのく(東北地方)での旅を記した紀行文です。
作中に出てくる「五月雨を あつめて早し 最上川」や「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」といった俳句の名高さは言うまでもありません。

私も学校の授業で『おくのほそ道』の一部を学びました。しかし、当時の認識としては「たまたま教科書に載っている有名な"古典作品"を受動喫煙している」といった具合でした。そのため、『おくのほそ道』そのものの奥ゆかしさや、松尾芭蕉が具体的にどうすごいのかは味わえないまま現在に至りました。

ということで今回は、おくのほそ道の全文を読んでみました。感想としては、「松尾芭蕉、天才すぎるな……」の一言に尽きるのですが、このすごさを語らずにはいられなかったので記事にしてみようと思います。



芭蕉の俳句のすばらしさ

私は、「要約」というのはとてつもなく高度なスキルだと感じています。要約をするには、エッセンスをひとつも削らずに、そして余計な情報を一切入れずに練り上げる技術が必要です。また、要約するものに対する深い理解も必要です。この難しさを自覚せずに要約をしようとすると、ただ短く削り取られただけの粗悪なシロモノが出来上がってしまいます。

そう思うと、俳句というのは究極の要約なのではないでしょうか。俳句は575の合計17音です。世界一短い詩と言われるほど短いだけでなく、原則として「17音ぴったりで」「575のリズムを土台として」「季語も入れる」という強い制約を課せられています。
私はTwitterでの1字以上140字以下の自由な空間を扱うことすらたまに難しいのに、俳句の本質はどれだけ難しいことか。

さて、そんな中で『おくのほそ道』の芭蕉の句を一例と、そのすごさを紹介させてください。

塚も動け我泣く声は秋の風

これは、芭蕉が一笑という弟子の追悼にささげた句です。一笑は優秀な俳人で、芭蕉も彼に会うのを楽しみにしていたそうです。しかし、一笑は芭蕉が旅を始める前に死去してしまったため、芭蕉は一笑の追善供養で彼と対面することになりました。 

芭蕉は、弟子の死を前にして「塚(墓)も動け」というダイナミックな慟哭の言葉を詠みました。これは墓という静かな眠りの象徴とは対照的で、生なる者の痛切な悲しみが伝わってきます。そして、塚という言葉にはずっしりとした重い響きがあります。

一方で、「我泣く声は秋の風」という言葉には、風という言葉もあいまって軽やかな印象があります。秋の風といえば涼しげなイメージがありますが、実は「涼しき方」という言葉は極楽浄土という意味の古語だったりします[2]。これを芭蕉が知らないはずはありません。

芭蕉はきっと、一笑の死を深く悲しむと同時に、一笑には阿弥陀さまのお迎えが来て浄土で往生してほしいという祈り込めて、「秋の風」を季語に選んだのではないかと想像を馳せてしまいます。語感の重さが異なるのは、質の異なる2つの感情を裏付けているのではあるまいか。

私は身近な者の死を経験したとき、折り合いをつけるのにずいぶん苦労しました。生き返るのは不可能であるとは分かっているけれども、まだ一緒にいたかったという複雑な思い。もう一生会えないという事実に直面して、この事実を受け入れてしまえば本当に相手は死んだことになるのだという無駄な足掻きのような葛藤。

塚も動けという言葉には、塚が動くなんて当然ありえないけど、それでも動いてほしいと願う気持ちを感じます。死の必定は知っているけれども、「それでも」を願うほど、あなたの死が惜しいという気持ち。

ただでさえ昇華しにくい死への心情を、たった17音の世界で的確に表現するというのは並大抵の技術ではありません。

先ほど、俳句は究極の要約なのではないかと述べました。要約で難しいのは、余計なものを入れない/残さないようにすることです。俳句でも、17音という狭い空間に余計な情報を入れると、本来伝えたい情報のスペースがあっという間になくなってしまいます。

そんな中で、芭蕉の句は余計なものがないどころか、言葉選びや区切れも恐ろしいほど無駄がないと感じました。誰もが知っているような語彙を用いているのに、たった17音なのに、織りなす情景に奥行きがあります。芭蕉の句に対して、「この部分は別の言葉に変えた方がいい」といった些細な粗を探すことすら難しそうな気がします。


おくの細道の構成のすばらしさ

芭蕉は俳句もすばらしいのですが、同時に『おくのほそ道』全体の構成力にも圧倒されました。

てっきり『おくのほそ道』は旅の日記だと思っていたのですが、実際は、5年かけて執筆した文学作品だそうです。つまり、芭蕉が旅を終えて旅全体を俯瞰的に見れるようになってから、構成を練りに練って完成したのが『おくのほそ道』です。

解説によると、『おくのほそ道』には芭蕉が得意だった歌仙の構造が見られるそうです[1]。ここでいう歌仙は、三十六句続けて俳句を詠むことです。この三十六句を四部構成に分割できるのと同様に、『おくのほそ道』も四部に分けることができるというのが、解説によるところです。

歌仙では、恋の句を必ずひとつ入れることが決まりとなっています。芭蕉は『おくのほそ道』において、いわゆる第三部と第四部の転換部分に恋の句を利用しています。

第三部相当の終わりを見てみましょう。芭蕉は7月6日に越後に到着します。翌日は七夕です。

荒海や佐渡によこたふ天の川

佐渡島と本土の間に天の川を"横たえる"と表現するセンスが素晴らしいです。まるで天の川の向こうを待ち焦がれている織姫彦星のように、芭蕉も海の向こうの佐渡島に魅せられていることを物語っています。
それはさておき、芭蕉はここで、自然の雄大さを表現する一方で、「天の川」という男女を連想する言葉を使用しています。

次に、第四部相当のはじまりを見てみましょう。芭蕉は、越後の市振の関というところで、伊勢参りの遊女2人と同じ宿に泊まります。
翌朝、遊女は芭蕉たちに道中の不安を訴え、「僧衣を着たあなたたちと共に行くことで、仏さまと縁を結びたい。着いてきてとは言わないから着いて行かせてほしい」と懇願します。芭蕉は「あなたたちには伊勢神宮のアマテラスのご加護があるのできっと大丈夫ですよ」と断ってお別れします。

一家に遊女もねたり萩と月

この遊女のくだりは、実際にあった話ではなく創作だと言われています。つまり芭蕉は、男女の愛欲の記号ともいえる遊女を、偶然ではなく意図的に登場させたことになります。

以上をまとめると、芭蕉は『おくのほそ道』の構造の転換部分において、まず自然の雄大さと同時に男女を仄めかす句を詠みました。その次に芭蕉は、いかにも俗世の象徴と言わんばかりの遊女と出会い、別れを選択します。

その先での芭蕉は、先述の一笑との死別や、同行人である曾良との別れを経験することになります。

この「自然」から「俗世」への転換のやり方は、芭蕉の文学的なバランス能力の成せる業と見て間違いありません。みちのく紀行文という連綿とした流れを壊さないままテーマを綺麗に変換する。話の進め方が上手いなあと感じるばかりです。

そういえば、私は「夏草や兵どもが夢の跡」という句を授業で習いました。芭蕉は、この句の舞台である平泉に来る前に、みちのくにある歌枕の名所を巡っています。
ただ、その名所はすでに廃れていることも多く、壺の碑という名所の実物をちゃんと見られたときに、芭蕉は感動して涙するほどでした。(壺の碑は厳密には本物ではないのですが、それはさておき。)

そういった文脈を踏まえて、「かつて栄華を誇っていた平泉の跡が草原と化している場面」を読むと、芭蕉が感じているであろう諸行無常の虚しさも深みが増してきます。授業で平泉単体を習ったときの印象に比べると、また違った味わいになりました。

私は本書を読むとき、「古文の授業のときに、ちゃんと作品の真髄にアプローチしておけばよかったなあ」などと思っていました。しかし実際に読み終えて、『おくのほそ道』の緻密な構成を振り返ってみると、「月日は百代の過客にして〜」や「平泉」だけで真髄に到達するのは無理のある話だったかもしれません。


その他 所感

(1) 俳句と漫画のコマ割り
あるいは俳句と映画の画面設計。これらは、底にある部分は共通していると思いました。

たとえば、私は『おくのほそ道』を読みながら、『ネウロ』『暗殺教室』『逃げ上手の若君』の作者である松井先生の記事を思い出しました。
漫画は連載だとページ数が限られますし、読者への認知負荷を低くすることでストーリーの面白さが伝わりやすくなります。そのために松井先生は、情報を「省く」「兼ねる」といった技術を紹介しています。

映画の画面設計については、『クライマックスまで誘い込む絵作りの秘訣』という本を思い出しました。この本では、ストーリーを最も正しく伝えるために、画面にどんな情報を載せると効果的なのかを丁寧に解説しています。

限られた空間で、最適に最大限を伝えるというのは、俳句も漫画のコマ割りも映画の画面設計もなんだか似ています。


(2) 松島や ああ松島や 松島や
「松島や ああ松島や 松島や」という句があります。これは芭蕉作だと勘違いされることもありますが芭蕉作ではありません。
解説ではこれを駄句だとバッサリ切り捨てていて笑ってしまったのですが[2]、芭蕉の俳句の無駄のなさや松島への熱意に触れると、たしかに芭蕉の名句ではないのは明らかだと感じます。

正直、『おくのほそ道』を読むまでは俳句にそこまで興味はなかったのですが、芭蕉の俳句を追うことで、俳句の醍醐味が分かるようになってきました。少なくとも「松島や ああ松島や 松島や」が俳句において名句ではないことは理解できるようになりました。300年以上経っても『おくのほそ道』はおもしろい、どころではなく、300年以上経っても”俳句の”魅力を教えてくれる芭蕉は偉大だと思います。


(3) 古典って面白い
私は古文の勉強を大学受験で終えていました。しかも理系選択であることが相まって、あまり熱心に学んでいませんでした。

大人になって古典を学び直してみると、無条件の面白さを感じている自分に驚きました。年をとり、色んな含蓄のある経験をしてきた状態で古典を読むと、昔に比べて感銘を受けることが多いです。「何百年も受け継がれているということは、それだけの魅力がある」ということを真に理解できた気がします。でもこれは、高校時代に古文を学んで、あらかじめ古文文法や古典作品に親しみがあったおかげだとも思います。


とりあえず、全人類に『おくのほそ道』を読んでほしい。以上で読書感想文を締めくくりたいと思います。


本の紹介

最後に、私が『おくのほそ道』について読んだ本を紹介させてください。

[1] 『100分de名著 松尾芭蕉 おくのほそ道』
まず、解説本としてこちらの本を読みました。私の古文力は甘々に見積もっても大学受験レベルで、いきなり本文に挑むのはハードルが高かったためです。
この本では、和歌と芭蕉の関係や、『おくのほそ道』が歌仙のように四部作として見て取れること、そしてそれぞれの部が何をテーマにしているのかなどを包括的に解説しています。また、芭蕉が説いた「不易交流」と「かるみ」について、人生観の手がかりとして紹介しています。これを読んだ後に本文を読むと面白さが増すはず。実はここに『おくのほそ道』全文が載っているのですが、現代語訳がついてないので、これ単体ではちょっと辛いかも。


[2] おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典
おくのほそ道の本文は、角川文庫のビギナーズ・クラシックというシリーズで読むことにしました。
このシリーズは、古典が初心者にも読みやすいように工夫が凝らされています。シリーズ全体として、現代語訳→ふりがな付の本文→解説という順番を守っているようです。
現代語訳を読んであらかじめ意味が分かっている状態で本文に挑むと、「松尾芭蕉の文章」の技巧や趣がわかりやすい。さらには第一線の専門家の解説もついており、現代語訳だけでは悟れなかった真意も理解できて、とてもありがたい構成でした。


今回のように、私は同じテーマであっても複数の本を読むように心がけています。著者が違うと解釈が違うことがあるからです。さまざまな人の解釈を読むと、多視点で立体的に学ぶことができます。それぞれの本で解釈が相違したとき、自分だったらどう考えるかという思考のきっかけにもなるのでおすすめです。

それではまた。

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