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読書記録:「歎異抄」(五木寛之による私訳)

本当は今週、浄土真宗の和尚さんとお目にかかる予定があったのだけど台風でキャンセルになってしまって、面会前の予習として読んだ一冊。歎異抄なんて、大学入試の時にセンター試験の準備で覚えたきりご縁がなかった漢字三文字だし、タイトルからして難解そうで食わず嫌いだったのだけど、五木さんがすごく分かりやすく現代語に訳しているおかげで読みやすい。入門書としておすすめ。

親鸞という人の思想と信仰は、一般にはこの一冊によって伝えられ、理解されたといって良い。人びとは、親鸞自身の手になる著書よりも、この歎異抄に触れることで親鸞思想に出会ったと感じたのではあるまいか

(五木寛之による)前がき

とあるだけに、多くの人が解説書を出していて、私が読んだのも五木さんによるその一冊。実際、Amazonで歎異抄って検索すると大量に結果が出てくる。

歎異抄自体は親鸞本人ではなく、そのお弟子さんの唯円が書いたとされている。お師匠の伝えが、勝手放題に解釈されてしまうことなくきちんと後世に残るように、と願ったのだと序にある。今回知ったのだけどタイトルにある「歎」という字は「なげく」と訓読みするらしい。「異」は異なる、だから歎異抄は「みんなの間違いを嘆くエッセイ」くらいのものだ、多分。

修行を積まれている僧侶にはお叱りを受けてしまいそうだけど、仏教素人が読んで「へぇ!」と思った点をいくつか共有すると;

一つ目。念仏をひたすら唱えよ

私たちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。
(中略)
わたし親鸞は、ただ、念仏をして、阿弥陀仏にお任せせよという、法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけのこと。

二章

何やら、救われるためにはひたすら念仏を唱えさせすればいいという。いや、確かにそれ高校生の時に歴史の授業で聞いたことがあるような話なのだけど現状に引き寄せて考えてみると、え?である。たとえば上司でも配偶者でもいいけど日頃関係の深い人から「今日から君はとにかく念仏を唱えるように。それ以外のことは君の救済において意味なしだから!」って言われる状況を想像してみて欲しい。え?あのプロジェクトの提案書の締切来週までですけど、とか晩御飯の支度は?とか、色々気になってくる。もちろん企業は浄土への往生を目的として存在していないので当たり前なのだけど。例えば夫がある日もし出家してしまって、救済のためにゴミ出しなどはしないで念仏ばかり唱えるようになってしまったらマジ困る。僧侶も掃除などはむしろするだろうからその辺りのバランスはどうしているのだろう。極端な人が終日念仏を始めたら掃除家事は後回しになってしまわないのだろうか。生活、立ち行かなくない?

そして二つ目。善人vs.悪人、どっちが先に救われるか

善人ですら救われるのだ。ましてや悪人が救われぬわけはない。 
(中略)
というのは、いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。他に頼るものがなく、ただひとすじに仏の約束の力、すなわち他力に身を任せようという、絶望のどん底から湧き出る必至の信心に欠けるからである。

三章

これは歎異抄でも特に有名な一節らしい。一瞬、悪人でも救われるなら善人ならもっと救われる、の間違いでは?と思ってしまうのだけど、間違いではない。自分の行いに対して見返りを期待するような人を傲慢とぶった斬り、生きること自体がことごとく根源的な悪を背負っているのだから、我が身の悪を自覚して嘆く人から救われるべきだという

なかなか痛快な話だと思いませんか?外資テック系企業で働いていると、「この仕事をやったら評価されますか」「このプロジェクト、プロモにつながりますか」とか日常的に聞かれるのが普通なのだけど、おそらく親鸞に言わせればそんな質問自体が間違いで、傲慢なのだ。自力を信じてしまっている善人の方がむしろ浄土からは遠く、自分が何かを成し遂げられるなんて思わず、ただただ念仏を唱えるのが善いという。

私も今度アサインメントの評価への影響を部下に聞かれたら言ってみようかな、「そんな傲慢な質問をしているようでは、極楽浄土に行けません。」と。HRに通報まではされないまでも、ワカメは私を馬鹿にしていると思われるか、この世を儚んでいるのではないかと心配される気がする。

そしてこんな捉え方を世界中の人がしたら、テスラも生成AIもiPhoneも発明されなくない?なんて気もしちゃうのだけど、違うのだろうか。

最後に三つ目。慈悲についても、人間が他者にくれてやることなどできない

「慈悲」についても親鸞の他力門と、自力を頼む聖堂門とでは考え方が違うという。基本的に人間は非力で、自力で他者を救済するなんてことはできないというのが親鸞の唱える他力本願の考え方。人間にできることといえば念仏を唱えることだけ。以上!だそうだ。

また、同じ理由から自力で他者(親兄弟など含む)の供養をすることもできないという。

自分をたのむ心を捨て、阿弥陀仏の力によってまず浄土にて悟りをひらいたなら、どんなに苦しみ迷っていようとも、そのとき初めて人知を超えた大きな力によって、まず自分の身近な人々も、救うことができると考えなさい。

五章

親鸞の説く他力の世界では、自力で何かができると思うなんて、思い上がりなのだ。

以上、今の生活で真似しようとするとなかなかエクストリームでびっくりなお話なのだけど、大きな力(運命のようなもの)に自分の人生をあずけて生きる、ということが日々の悩みを減らすだろうなというのはすごくわかる気がする。

今の日本だと、自己責任論や個人主義が主流で、自分の人生は自分で選び抜いていく、みたいな考え方がデフォルトだと思う。職業にしても、結婚相手にしても、一見するとそこには自由な労働市場(リクナビや転職エージェント、直接採用する企業など)と結婚市場(結婚相談所、マッチングアプリ、合コン、職場やナンパなどの出会いの場)があるわけで、多くの人がその中で選んだり選ばれたり選ばれなかったりを繰り返している。でも多分ちょっと前まではもっと適当にみんな親戚の会社に就職したり、親が持ってきた縁談で気乗りのしない結婚をしたり、なんとなく成り行きで家業をついだりしてわざわざ市場に出ない案件で話を終わらせていた方が多かったんだと思う。

これ、私はリクルートといいう会社があらゆる人生イベントを市場化した影響が大きいと思っているのだけど、そんな時代の気分みたいなものに乗せられて「私の人生だから自分で全部決めなくちゃ!」「こんな自由市場で勝てないなんて自分が無能だからだ!」なんて強迫観念で疲れてしまうよりは、「大きな流れに身を任せて生きる」方が有効なのかもしれない。そんな有効性の話なんてしたら、親鸞聖人に「傲慢」と言われてしまうに違いないけど。

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