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あまりっ子と芸術

蛸壺(たこつぼ)や はかなき夢を 夏の月
松尾芭蕉


芭蕉がタコ漁の名所、明石を訪ねたとき作った俳句。

日持ちするタコは夏のごちそう。タコつぼに入ってのんびりと夏の月夜に寝ているけれど、朝には引き上げられて食べられてしまう。


弟子の杜国とともに明石に遊んだ時、吟じられた俳句。芭蕉門下の句集である「猿蓑」初出。死後、弟子によってまとめられた紀行文、「笈の小文」の最後をかざる句。

杜国は豪商の跡取りであったが、商売に失敗して若くして亡くなった。彼と芭蕉は男色関係にあったとされる。

松尾芭蕉が貧乏な帰農した武家の次男に生まれた。三重の藩主の藤堂家一族の台所に奉公にでた。頭のいい子だったらしい。若様のお話相手になった。

文学好きな主君と共に、招かれていた俳人、歌人として有名な北村季吟のところに勉強に行った。北村季吟は「源氏物語湖月抄」という、源氏解釈の本が残ったぐらいの文学上の重要人物だ。それが俳人になったきっかけらしい。

主君であった2歳年上の人は23歳で亡くなった。それで、首になってしまったが、万事にすぐれた芭蕉は、藩とずっとかかわりがあった。最近の研究によると、江戸で藤堂藩が請け負った神田上水の土木の現場責任の仕事していたようだ。

しかし、所詮、主君を失った奉公人である。武士になるあてもない。実家に居場所もない。京都にもよばれて、北村季吟の正統な弟子として人にも認められていたので、俳人として生きていくことになった。

主君と芭蕉、二人は男色の関係にあったらしい。書物も高価だった筆と紙をつかい、自ら手で書き写して伝わっていた時代だ。書物は今より内面に取り込まれていた。書物を学ぶという事は、そのふところに入り込むということで、そこに性的な関係も生じやすかったんだろう。二人のなかは上下関係や才能の問題もあって色々と複雑だったかもしれない。

芭蕉は、遊びというだけでなく、俳句を文芸として、社会の財産として据えなおした人である。その作品の多くは大衆に印刷物としてひろがった。

特別な人たちが囲い込んだ文化を得て多くの人に渡す。それは封建制の秩序からはじかれた、あまりっ子であったがゆえ、やり遂げられた。

彼は芸術の道を必然として歩んだ。


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