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ホームスクール 上州・信州の旅(前編)

上州(群馬県)・信州(長野県)への旅に出た。

伊香保温泉は上州の三名湯(草津・四万・伊香保)であり、天平時代に行基が見つけた説もある温泉で、万葉集でも詠われており、ここの石段街は長篠の合戦後に武田勝頼が真田昌幸に負傷兵の療養所として温泉街を整備させた日本初の温泉街だという話があるなど、とにかく歴史ある温泉街である。ちなみに私は四万温泉の鄙びた感じが好きで、七度訪れ三度泊まった事がある。

伊香保温泉はと言うと、三度訪れたことはあれど宿泊したことは無かったので、ついに今回泊まる時が来た。とは言っても、ここは首都圏からすぐに来れる利便な温泉街なので、宿泊費は箱根の様に高めで、よって安い宿に素泊まりした。昭和の匂いがぷんぷんする寂れた宿だが、昭和の懐かしさを想い出させてくれる。

伊香保には源泉が「黄金の湯」と「白銀の湯」があり、宿の湯は白銀の湯だった。妻は黄金の湯にも入りたいと言い、夜に石段街の共用浴場である「石段の湯」へと向かった。閉館間際だった為、長湯の私と息子は入浴を諦めたが、妻は一人で短いながらも湯を楽しんだ。石段の湯から出てきて一言、「次は黄金の湯の宿に泊まろう」と、つぶやいた。

その後は石段を登り、伊香保神社からもう1つの共同浴場である「露天風呂 木陰の湯」まで歩いたが、暗がりの中のこの道中は風情があった。

伊香保温泉 石段街

翌日は、寄り道しながら草津温泉に向かった。

草津温泉は「日本三名泉」と言われ、いまさら説明するまでもないだろう。ただ、私は草津の湯は何度入っても「湯あたり」してしまう。肌がまっかっかだ。草津の奥にある万座温泉もそう、私には白濁湯の酸性温泉は残念ながら肌に合わない。温泉はその対極にあるアルカリ性の泉質が好みだ。

この日は学生時代からの友人であるYとその家族と一緒に、貸別荘に泊まる予定だ。チェックインまでまだ時間があったので温泉街を散策した。ここはいつ来ても混んでいるので、なるべく平日しか近寄らない様にしているのだが、この日はあいにく土曜日で、やはり人はごった返していたが、西の河原までは散歩することにした。

チェックインの時間に貸別荘に行くと、ちょうど友人家族も来ていた。Yとは家族ぐるみでもう20年来の仲で、Yの子供達はホームスクーラーの息子にとって子供の頃から遊んでいる数少ない友達でもある。いや、ホームスクーラーうんぬんではなく、いつだって子供にとって友達とのお泊り旅行は格別の思い出になるだろう。夜はお酒も入りながら「人狼ゲーム」でおおいに盛り上がった。

翌日、Yの家族と共に「小諸城」へと向かう。

小諸城 大手門

関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠軍はここを拠点にして隣の「上田城」を攻めるが、守るは名将、真田昌幸。昌幸はこれを撃退する。少数の真田が徳川の大軍を破るのはこれで2度目である。関ヶ原で西軍が敗れた為、真田親子は高野山へと流されるが、大坂の陣にて息子の真田信繁が参戦、これを聞いた家康は障子を掴んで震えながら、「籠城するは、親か?子か?」と言ったそうな。この時すでに親の昌幸は亡くなっていたが、息子の信繁は大坂の陣にて家康に死を予感させるほどの奮戦を見せ、散る。

その「上田城」。

上田城跡 真田神社

本丸跡地には真田神社があり、信繁の銅像が建っている。私は大河ドラマの「真田丸」も「どうする家康」も見たことがないのだが、兵(つわものども)が夢の跡を見るのは好きだ。

上田城への向かう道中、「海野宿」という旧街道の宿場町を見学した。

海野宿

ここは源平合戦で有名な木曽義仲(源義仲)の挙兵の地でもある。またもや歴史の話だが、「斎藤実盛」と「巴御前」について話したい。


木曽義仲は、武蔵国(埼玉県)で生まれた。幼少の時に父が戦で負け、殺されかけそうになる所を、斎藤実盛によって助けられる。その後、実盛は平家に請われ平家に忠誠を尽くすことになり、義仲は信濃国(長野県)の木曽で育つ。

時は満ちて、義仲は平家打倒に立ち上がる。

北陸で快進撃を続け、倶利伽羅峠の戦いでは、平維盛率いる10万の軍を壊滅させ、義仲軍は逃げる維盛を追うのだが、そこに立ちはだかるのはただ一騎の武人。この武人の孤軍奮闘により、維盛は京都へ逃げるのに成功するのだが、武人は最後には義仲の将の手塚光盛に討ち取られる。

手塚光盛は首を持って義仲にこう伝えた。

「妙な武人を討ち取りました。ただの武人かと思うと大将格の錦を纏い、大将かと思えばただの一騎で後には続かず、名を名乗れと言っても名乗ろうとはせず、言葉は関東の訛りでした。」

この話を聞いた義仲は、この武人はあの斎藤実盛ではないかと思ったのだが、首を見るとまだ若い。70歳近い実盛の髪と髭の色が、こんなに黒々しい訳がない。

だが実盛の友人、樋口兼光にこの首を見せると、この首はまさしく実盛のものだと言う。実盛は生前、年老いた自分の姿で戦の後れは取るまいと、白く染まった髪と髭を黒く染めてから戦場に向かう話をしていた。いざ首を池で洗ってみると、白髪で白髭の老人の首になった。

実盛が錦を纏っていたのは、故郷での死を覚悟していた為で、名を名乗らなかったのは、義仲への気遣いだったのだ。

義仲は自分の命の恩人を討ち取ってしまったことを大いに嘆き、人目もはばからず泣いた。


この話を知った私と妻も、息子の目の前で、はばからず泣いた。

この旅は木曽義仲の跡を辿った旅ではないのだが、行く先々に木曽義仲の足跡があった。松尾芭蕉も芥川龍之介も新井白石も、義仲を敬愛した。その一端が、斎藤実盛の話からわかってきた気がする。

後編は「巴御前」について。

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