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『鶴かもしれない2020』通し稽古レポート

いよいよ明後日。『鶴かもしれない2020』の幕が開く。

たったひとりで800人を集める。駅前劇場への小沢道成の挑戦が、どんな結末を迎えるのか。その審判のときが近づいてきた。

そんな中で今日お届けするのは、昨年の12月27日、稽古納めの日に行われた通し稽古の模様について。そこには、2016年の再演が終わったその日から1433日かけて小沢道成が培ってきたものが、確かに息づいていた。

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通し稽古の開始は、14時30分から。僕は細々と片づけなければいけない仕事があって、その2時間前に稽古場近くの喫茶店に立ち寄った。すると、店内に見慣れた人なつっこい笑顔がある。小沢だった。軽く腹ごなししてから稽古場に入ると言う。

僕はケーキを、小沢道成はカルボナーラを食べる。とろりと卵の乗ったカルボナーラに、小沢はタバスコをたっぷりかける。「カルボナーラにタバスコ?」と僕が目を丸くすると、なんでもタバスコが好きで、いろんなものにタバスコをかけると言う。生クリームのコクが台無しじゃないか、カルボナーラに失礼だ、と心の中でつくった人に謝ってみたけど、とてもおいしそうに小沢が平らげるので、それも良しかと思い直した。

小沢は基本的にいつでも明るい。その日も通し稽古とはいえ、特別気負った様子はなかった。今にも歌い出しそうな足取りで、ご機嫌に稽古場へと向かう。

稽古場に入ると、僕は事務作業のため一旦パソコンに向かう。小沢は、ひとりで稽古用の着物を羽織り、動きの確認をする。

一人で稽古をしているので、特に会話はない。たまに自分に確認するように小沢が声をあげるくらいだ。淡々とした時間が流れる。

彼はいつもこんなふうにひとりで稽古をしているのか。ふとそう感慨深い気持ちになった。

普段稽古場を覗くときは、当然だけど僕という人間がいる以上、小沢が完全にひとりになることはない。でもこうしてお互い別々の作業をしていると、何だか自分が透明人間になって小沢がひとりきりで稽古をしているところを覗き見しているような感覚になる。

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フィードバックしてくれる人が誰もいない中、自分でPDCAをまわし、芝居の精度を高めていく。それは文字で書くよりずっと精神力と集中力のいることで、改めて以前助っ人でやってきた竪山隼太がつぶやいた「これは孤独だよ」という言葉が耳に甦ってきた。

時計の針が14時を差した頃、スタッフが2名稽古場に到着した。本番に向け、スタッフたちも小沢と合わせる練習をしなければいけない。軽い雑談と打ち合わせを経て、スタッフが定位置につく。いよいよ、通し稽古の始まりだ。

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小型のスピーカーから、音楽が流れる。日常から非日常へゆっくりと移ろっていくような曲で始めたい。そんな小沢のオーダーに応えて音楽の岡田太郎が用意した今回のための新曲だ。優しくて、シンプルな調べが世界を静かに変えていく。そこに、ラジカセから聞こえる小沢道成の朗読が溶け合う。耳馴染みのある『鶴の恩返し』が、小沢独特の艶のある声で読み上げられる。気づくと、そこは稽古場ではなく、ある安普請のアパートの一室になっていた。

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『鶴かもしれない2020』は、ある男と女の物語だ。街中で困っていたところを男に助けられた女は、お礼をするために男の部屋を訪ねる。筋立ては、『鶴の恩返し』と同じだ。でも、ただの昔話の翻案で終わらないところが、小沢の脚本の面白さだ。

人を楽しませることが大好きで仕方ない小沢道成流のユーモアが次々と飛び出してくる。小沢道成の笑いは、愛嬌がある。人のちょっとおかしなところやぶっ飛んだところを、可愛げたっぷりに笑いに変えてくれるから、ちっとも嫌な気分にならない。むしろ「こんな人いるいる」とか「こういうところ自分にもあるある」と、くすくす笑っているうちに、自然と登場人物が自分か、あるいはよく知る友人のように思えてくる。そうやって小沢道成は観客一人ひとりの懐にするりと入り込んでくるのだ。本人同様、芝居も人たらしだなあ、とつくづく思う。

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男に惚れた女は、勢いそのまま男の部屋に住みつくようになる。今回はひとり芝居なので、当然、男も女も小沢道成が演じ分けるのだけど、やっぱりぐっと心を惹かれるのは、女を演じているときの小沢道成だ。

ちょっとシナをつくるような仕草もお手のもの。指先から微笑み方まで女性的で、それがちっとも下品にならないところがいい。しかも、完全に女性になりきるというより、どこか「男性が女性を演じる」という虚構の部分を残していて、それがいい滑稽さになって、芝居を軽やかにさせる。

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あでやかなんだけど、さばけている。しとやかなんだけど、毒味がある。まるで名うての女形の芸を見ているみたいだ。小沢道成という人間の体を借りて、愛しい人に喜んでほしくてたまらない、ちょっと愛情表現が過剰な、でもそこがとびきりチャーミングな女性像がくっきりと立ち上がってくる。

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今回の見どころとなるミュージカルシーンも、実に楽しい。包丁の音に合わせて食材を切るところなんかも、うまく音に合わせながら、ユーモラスに演じている。ここはどこか『トムとジェリー』のような古き良きカートゥーンを見ているみたいだ。ポップで、さわがしくって、コミカル。小沢の歌唱もノリノリで、見ているこちらの気持ちも弾んでくる。

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だからこそ、ここからの顛末に心がノックアウトされる。

ただ愛したいだけ。ただこの幸せな時間を守りたいだけ。たったそれだけのことがどうしてこんなに難しいんだろう。たったそれだけのことをどうして私はこんなにも上手にやれないんだろう。

愛し方が下手な彼女は、きっといつかの自分だ。何もかもわからなくなるぐらい誰かのことを好きになって、傍目から見たらバカだってわかっているのに全部を捧げたくなって、そしてすべてを失くしてしまう。まただ、と小さくつぶやいて、だけどどうやったらそこから抜け出せるのかわからなくて、うずくまったまま泣いている。

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雑踏に翻弄され、一枚、また一枚と着物がはだけ落ちていく彼女を見て、もういいんだと代わりに自分の上着をかけてあげたくなる。そんなことで、彼女の心を満たせないことはわかっていながら。

僕はこの作品を再演のときに初めて見たのだけれど、いちばん鮮烈に心に焼きついたのは、おそらく最大の山場である、“あの”ショッキングな場面だ。けれど、今回の通しでは、むしろそのあとの女の方がずっと心に残った。

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間違えて、間違えて、間違え続けた先に、幸せはあるのだろうか。いや、そもそもほしがっているのは、幸せなのか。それとも、このさみしさを埋めてくれるぬくもりなのか。きっとそれすら彼女はわからないのかもしれない。わからないから、彼女は旗(はた)を織り続ける。

ただ男に恋をした彼女が、本当に乞うたものは何だったのだろうか。最後の彼女の「なき声」に、僕はそんなことを考えていた。

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『鶴かもしれない2020』、開幕まであと2日。きっと多くの観客が、彼女の姿に、延々と恋しい人の名を呼び続ける弱い自分を見つけることだろう。

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EPOCH MAN『鶴かもしれない2020』

2020年1月9日 ~ 2020年1月13日

下北沢・駅前劇場

■小沢道成Twitter:@MichinariOzawa

■EPOCH MANホームページ:http://epochman.com/index.html/

<文責>
横川良明(@fudge_2002

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