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英語ができるようになると人格も価値観も変わる パート2

Part 2では英語では「曖昧さを残さない」ことと「個人の責任の所在をはっきりさせる」ことの大切さを見ていきます。(パート1はこちら

これらは人格や価値観にも関わる項目ですが、言葉が変われば考え方も変わります。人格が変わるくらいまで英語をマスターするつもりでいなければなりません。

実際にバイリンガルの人は(悪い意味ではなく)二重人格と言ってもいいくらいなことが心理学の研究で明らかになってきています。以下の実験で、

日本語と英語のバイリンガルの人に、ハッキリとしないある絵を見せて何が描かれているかを日本語で訪ねたところ「この女性は自殺を考えている」と解釈しますが、別の日に同じ絵を見せ、英語で何が描かれているかを訪ねたところ「縫い物をしている」と解釈した[1]といった例があります。これほど言語は脳の働き方や使い方にも影響を及ぼしているのです。

ポイント
1. 言葉にしないと伝わらない(Part 1
2. 曖昧さを残さない
3. 個人の責任の所在をはっきりさせる

曖昧さを残さない

「和の精神」と言われ続けて二千年。今でも「和」の定義は曖昧なままです。日本の「和」の精神は、
個性よりは集団の秩序と安定
好き嫌いよりは礼儀と作法
勝ち負けよりは全体で分かち合う
などということでしょうか。そのくらい日本の文化の良さや日本語の美しさは、曖昧さを残すことによって成り立っているのです。

このような伝統的な曖昧文化の中でも、最近の特に若者の間では以下のような不思議な言葉が多用されています。これらはいずれも断定を曖昧にする目的で使われていると解釈できます。つまり責任逃れであったり、自分の意見をハッキリ伝えずに推測してもらうために使われるようになっています。

文末に「〜みたいな」とつける
例えば「好き」と言われて「いきなり言われても困るんだけど、みたいな。」

これは「困っていない」つまり「嬉しい」を示唆しているとも受け取れます。

このような曖昧な伝え方は英語では不可能ですし、言外の意思を汲み取ってもらうという文化がありません。

本当に困っているのなら”I’m sorry. I don’t think I’ll be with you”などと断る。あるいはいますぐに返事できないのなら、”Really? I can’t decide now.”とか言わなければなりません。

日本の曖昧感覚をそのまま英語で “It’s... like... I’m confused...”などと言おうものなら、自分の意思を第三者的に見て解説していることになり、理解されることは大変難しいと思います。

文頭に意味なく「なんか〜」をつける
「なんか、そろそろ帰ろっか?」など。

これも自分の意思で次の行動を決めるべきところを、自分の意思でないことに影響されているという主張、つまり責任逃れです。

英語では”I want to stay, but I have to go.”と言わなければなりません。つまり自分の願望と意思決定が一致しないことをはっきりと言葉にすることです。

日本の曖昧感覚をそのまま英語で(、、、考えても英訳が思いつきません。)

やたらと「〜的」をつける。「〜な感じ」も同様の用法
「あれ食べてみたい感じ」なども、「食べたい」という意思を婉曲にしています。

つまり「おごって」や「このレストランに入ろう」という願望を表現せずに、他人に意思決定を任せているわけです。

英語では自分の意思表示をするか、相手の気持ちを聞いてみることしかコミュニケーションの方法がありません。

「〜とちがう?」
例えば「良いと思う」と自分の意見をハッキリ述べずに「いいんとちがう?」と曖昧にする。しかも質問形式にしていますから、相手が良いと思うのなら私も良いと思う、という無言の同調圧力みたいなものが根底にあります。

英語なら”I think it’s good but am not sure.”つまり「良いと思うけど私の評価は不確かだ」と言うことになります。英語では「良い」と評価したのは自分の「何となく」の感覚であるけれど自分の評価としては今は不確かだ、と明確にすることです。

日本の感覚の ”I think it’s good if you think it’s good”は、特別な関係や特別な場合をのぞいてはあり得ません。

ここまでは若者言葉特有の曖昧な言い回しと、英語のlow context コミュニケーションの違いを指摘してきました。ここからは、さらに大人も気にする必要のあるもっと一般的な日本的会話について、そのままの感覚で英語にすると問題の出てくることを拾い上げます。

「結構です」という言葉を使う場面を思い出してください。肯定の意味で使う場合と否定の意味で使う場合がありますね。頂き物に対して「結構なものですね」と褒める。あるいは「もう少しいかがですか」と何かを進められて「いや、結構です」と断る。

「はい」も英語のyesとは限りませんし、「そうですね」も常に”I think so”ではなく、”oh, you thnk so? (but I don’t think soを言わない)”であったりしますね。

英語ではハッキリと意思表示をしなければなりません。日本語の曖昧の美学から切り替えなければなりません。(なんでもかなりハッキリ言う私も、日本語で話していると、周りとの調和を考えて何となく曖昧にすることが多くなってしまいます。)

「〜お願いできますか?」と言う依頼に対して「わかりました」と言う答えがよく用いられます。これはyes, noの結論を先送りにすることのできる便利な返事です。あとで「無理でした」とNoに切り替える余地を残しているわけです。

”Can you ~ by next meeting?”と尋ねられたことに対して、この日本の感覚で”OK, I understood.”だけで済まそうなら、”Will you do it or not?”と食ってかかられることになります。YesかNoかはハッキリと言うことを心がける必要があります。

「軽く一杯飲みに行かない?」に対して都合のつかない時は「いや今日はちょっと。。。」と、ハッキリと断らないのが日本の和の精神です。

英語でこのままの感覚で曖昧に伝えようとして”well, I want to but…”などと言っていたら、一度くらいはいいかもしれませんが、何度も続けば「自分で何も決められないやつ」と思われます。英語のコミュニケーションではハッキリと言葉に出して断る方がスムーズです。理由を言いたくなければいう必要もありません。それは個人を尊重する文化ですから。

日本ではyes, noをハッキリと言わずに相手に悟ってもらうことが高度な交渉技術であり美学とも考えられますが、英語でこの考えでやるのは全くダメです。日本人は決定ができない、結論を出せない、と評価されがちな所以です。

個人の責任の所在を明確にする

日本ではチームとしてのアクションプランが決まっても、誰が何をいつまでにやる、などの明確な発言を避けようとする傾向にあります。

それよりは、何をやらなけれならないのか、について全員が共通認識を持つことに重きを置き、責任の所在を分散させ、何か問題が起きたときに個人が責めを負うことの無いよう、「みんなで一緒になって頑張る」やり方をしますね。

この日本のやり方にはそれなりの利点もあるのですが、日本文化の外ではなかなか理解してもらえません。個人のタスクに対する責任、結果を出すことに対する責任を明確にしないといけません。それでチーム全体の成果が出ると考えるのが、英語圏というか欧米の文化であり、日本を含むアジア圏との違いです。

ちなみに私の感覚では、英語のresponsibilityやaccountabilityは、必ずそれをやり遂げるという意味がある一方、日本語の「責任」は責任があるだけで結果を出すか出さないかとは直接関係ないような使われ方をしていると思います。

しかし日本の「責任は組織全体にある」と考える美しさにはそれなりの価値があります。

飛行機が故障で遅れることになれば、日本の航空会社ならばチケット再発券のカウンターの担当者は「本日はご迷惑をおかけしており申し訳ございません」から始めるのが当たり前です。

しかしヨーロッパ語圏ではこれは期待できません。チケット再発券カウンターの担当者にとってみれば、機材の故障は自分の責任ではないからです。自分の責任はチケットを出すことですから、乗客が怒り心頭でも、会社を代表して謝るという発想がそもそもありません。これに対して怒っても仕方がないのです。文化の違いですから。

大阪弁の文末の「知らんけど」は明らかな責任回避です。私も癖でいつも語尾に「知らんけど」と言ってしまいます。例えば探し物のアドバイスを求められて「〇〇行ったら△△は絶対あるはずや。いつも私はあそこで買うてる。知らんけど」などと言うのが大阪では普通です。

これは自信を持ってアドバイスした後に責任回避の一言を入れているわけです。大阪ではこれがまかり通りますが、この感覚のまま英語にしてはいけません。”If you go to 〇〇, I’m sure you should be able to find △△, but I don’t know.”などと「訳して」言おうものなら相手は確実に混乱します。

自信がない場合は”you may be able to…”とか”I’m not sure but I believe…”とかの言い回しの方が適切です。

ちなみに私は英語で話しているときは、この「大阪弁モード」から「英語モード」に切り替わっており価値観も考え方も異なります。

海水浴場などでの「遊泳禁止」の看板。よく英語で”No Swimming”と併記されます。問題は「誰が」禁止しているのかが不明なことです。看板を立てた人(例えば行政)が「禁止」していると考えるのが妥当でしょう。

しかしその禁止を無視して泳いで事故にあったら、、、行政の責任が問われることもしばしばありますね。「看板に気づかなかった。看板の場所が悪い。だから事故になった。」という点で裁判で争われるわけです。行政が管理の責任を持っているのか、それとも泳ぐ人個人の責任なのかどうか、と言う点において、行政担当者も曖昧なんだと思います。

英語圏では”Swim at your own risk”です。つまりこれは命令形で「(泳ぎたいのなら)自分の責任で泳げ」と言っているのです。

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Reference
[1] Scudellari, M., Does Your Language Shape Your Personality?, New Scientist, Feb. 6, 2016, p31
[2] Alicia M. Prunty, Donald W. Klopf & Satoshi Ishii (2009) Argumentativeness: Japanese and American tendencies to approach and avoid conflict, Communication Research Reports, 7:1, 75-79, DOI: 10.1080/08824099009359858
[3] Nisbett, R. E., Peng, K., Choi, I., & Norenzayan, A. (2001). Culture and systems of thought: Holistic versus analytic cognition. Psychological Review, 108 (2), 291-310, DOI:10.1037/0033-295X.108.2.291

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