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束縛

皆さんは、自由をどれだけ感じていますか。

毎日、好きなことをして、自由に生きている。

そう思っても、私たちはたくさんの束縛の中で生きています。

家族や人間関係、時間、仕事、住む場所、経済…。

これは私が選んだことですからと、そうはわかっていても、逃れられないしがらみ、そこから自由になれたら私は一体どうなるのだろうか、考えたことはあるでしょうか。

今日、掃除をしながら私はふとこう思いました。
ああ、私はもう何にも縛られたくないんだな、と。

仕事は好きなことをしているとはいえ、その時間を自由に決められるわけではないし、仕事も、住むところも、スケジュールも今日の気分ですべてができることばかりではありません。

また、収入を得るためには当然、自由を手放し、それと引き換えに安定をいただいているところもありますから、すべては等価交換であることもよくわかっています。

ただ、断捨離が終わって、物が少ない部屋にいて、毎日掃除をする心地よさを感じた時、私の毎日はもうこれで十分だ、そう思ったのです。

以前の私は、たくさんのフィットネスクラブでレッスンを持ち、いろんなカテゴリのプログラムを担当して、充実していると思っていました。

忙しく働くことが充実していることだと勘違いをしていたのです。

しかし、常に集客や内容をことばかり考えて、好きなことをしているようで、仕事の束縛から離れることが出来ませんでした。

生活していくことやお金の事、人間関係だけではなく、私という存在に対しても、こうあるべきという束縛を強いていたと思います。

ただ、今考えると、何かに束縛されていたり、しがらみの中で生きることによって、どこか安心しているところもあったように思います。

なぜなら、一人で立つことがとても不安だったからです。

一人で立つということは、私が考えて私が決める、という人生の選択を人に任せないことだと思います。

私はそれがとても恐かったのです。

ですから、好きなことはしたいけれど、どこかの誰かが決めてくれて、その通りに仕事に行き、言われたことをする、ということに安心があったのでしょう。

自由に生きるというのはどういうことでしょうか。

それは、すべての責任を背負うということだと思います。

好きなことをして、自由に生きるということは、とても魅力的に聞こえますが、すべての選択を私が決めて、その結果の責任を私が負うということです。

選択したことが全部良い方向に行くことばかりではないし、批判されたりすることもあるでしょう。

それでも、私が選んで決めたことだと、何かのせいにすることなく、結果のすべてを受け入れることだと思います。

そう考えたら、どんな場所で、何をしていようと、それは私が決めたことだとはっきり言えて、何のせいにもせずに、すべての結果の責任を負うことが出来るなら、その人はどんな状態であっても、何からも束縛されていない人なんだと思います。

すべての出来事の責任を負うということは、結果に対して淡々と処理をするということです。

その時に自分を責めたりしないのと同時に、何のせいにもしないということが大事なのではないかと思います。

私達は、出来事や経験にその意味を付けたくなります。

良いことでも悪いことでも、普段の行いがその報いとなるとどこかで考えているからです。

ですから、悪いことが起こった時、行いを顧みたり、何か罰を受けているような感じになることもあり、自分を責めてしまうこともあるでしょう

その結果次第で、自分を褒めたり、ダメだと思ったりしていては、いつまでたっても、自らの束縛からは離れられません。

私達は良い人間もダメな人間もおらず、居るのは、ただの人間それだけです。

結果に対して、何のせいにもせず、淡々と処理をする。

それこそが、責任を全うしたことであると思いますし、結果を受け取った姿勢だと思います。

本当の自由とは、その姿勢で生きることではないでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!



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