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この世界の成り立ち③

前回に続き、罪悪感についてです。

キリスト教には教義の中に原罪の意識があります。
人は生まれながらにして罪びとであるという考え方です。

もちろん、キリスト教だけではなく、多くの宗教や社会的概念では、修行をすることで幸せになれる、といった考えも多くあり、何か良いことをしないと幸せにはなれないような考え方があります。

その一方で、罪を犯してしまえば、幸福にはなれない、もしくは幸福を許可できないと思っている人も多くいるのではないでしょうか。

何か良いことをしなければ幸福を許可されず、また罪だと思うようなこと、例えば法に触れることではなかったとして、本意ではなくても人を傷つけたりしただけで、罪の意識や罰を受けなければならないと考えている人も多くいるということです。

場合によっては、罪になるようなことをしていなかったとしても、複雑な家族や育った環境の中で、自分は愛される人間ではないとか思い込んでしまうこともあります。

文字にするとよくわかるのですが、
それはまるで崖のぎりぎりを歩いているようなもので、それは存在に対する幸福の許可ではなく、行為に対する幸福の許可になってしまっているのです。

良いことをしないといけない。
良い人でいないといけない。
そうではない自分はダメだ、と。

ですので、真面目な人ほど、自分を律することが出来るので、その分幸福を許可できなかったり、生き辛さを感じている場合もあるのではないでしょうか。

ここまで、ざっくりと分離と罪悪感について書きましたが、いかがでしょうか。

少し前の時代に比べたら、心の事のついて知っている人も多くいると思いますから、まあ、だいたいは何となくわかるし、理解ができるという方も多くおられるのではないでしょうか。

では、ここからは少し深い話になります。

よりよい人生を生きるために多くの人が自己肯定感をあげようとしたり、ポジティブに生きることやその考えを持つことに注目しています。

しかし、私はその中庸、ニュートラルでいることこそ大事なのではないかと思っています。

中庸とはいわゆる、道の真ん中を歩くという意味で、どちら側にも偏りすぎず生きるということです。

これは、私はどちらにも偏らない!真ん中しか歩かない!というのではなく、場合によってはどちら側にも行ける柔軟性があるが、真ん中を選んで歩いているというイメージです。

これは私のイメージですが、中庸は右脳の働き、左右の偏りは左脳やエゴの働きではないかと思うのです。

左脳やエゴは、その時々でいろんな声をかけてきます。
真ん中を歩いてるはずなのに、その都度左脳やエゴの声に惑わされ、脳内では、道の右や左を行ったり来たりしており、頭の中の小さい私はあっちやこっちやとても疲れてしまいます。

その声に、耳を傾けないようにするには、
『両方を愛す』
ことが必要となり、
その両方にOKを出し、肯定したうえで道の真ん中を歩くことを選ぶということです。

では、両方にOKを出すとはどういうことでしょうか。

ここから少し長くなりそうなので、次回に続きます。



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