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小澤征爾さんについて思うこと

YouTuber 頼みで世相のウォッチを続けるじぃじですが…
先日の小澤征爾さんの訃報は Twitter で知りました。

そもそもクラシック音楽に縁もゆかりもない僕が小澤を知ったのは大人になってからで、たぶん彼の自叙伝のドラマを見たのがキッカケだったと思います。その時点で既に世界的な指揮者として名を知られていたのですが、彼の音楽的な業績についてはもちろんチンプンカンプン。ですが、彼の人間的な魅力に魅了されたことを記憶しています。
で、彼の訃報を知ったのは次のツイートを目にしたから。

このツイートで語られている「N響事件」は Wikipedia の彼のページでも、まとめられています…

…ですが、やはりツイートで引用された文章が感動的でした。

小澤はまだ27歳の若輩で、大半の楽団員は年長だ。しかも、N響の楽団員は東京藝術大学の卒業生が多く、新興の桐朋を出た小澤を見下す雰囲気にあった。小澤が遅刻したとか、ミスをしたとか、さまざまな要因が積み重なったところに、11月の定期演奏会が新聞で酷評されると、楽員代表による演奏委員会が「今後小澤氏の指揮するコンサート、録音演奏には一切協力しない」と表明する事態に発展した。楽団員は積極的に取材に応じ、いかに小澤が無礼な若者か、音楽の伝統を知らないかを吹聴した。マスコミは、小澤を「海外で賞をとり、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調で揶揄し、批判した。
これに危機感を抱いたのは、同世代の若い文化人たちだった。演出家の浅利慶太や作家の石原慎太郎は、小澤を救うために団結した。N響が小澤に「協力しない」と内容証明を送ってきたので、小澤サイドは契約不履行と名誉毀損で訴えるなど、泥沼化していった。小澤はデトロイトへの客演のため1月22日からアメリカへ行くが12月1日には帰国する予定だった。契約当事者でもあったNHKは、小澤との契約期間が12月いっぱいだったので、小澤に「病気になったことにして、12月いっぱいはアメリカにいてくれないか」と、「誰も傷つかないが姑息な解決」を打診したが、小澤は断った あくまで、12月11日から13日までの定期演奏会と年末恒例の第九を指揮する姿勢を示した。4日にリハーサルが始まったが、楽団員はボイコットして来ず、翌5日に事務局に小澤の降板を求めた。6日に事務局は楽団員に対し、定期演奏会に出れば、「第九」は小澤に振らせないと密約を持ちかけた。浅利たちはNHKという巨大組織を巻き込んで戦線を拡大する戦術を取った。「演奏会中止」をNHK側から言わせるよう、この日は偶然にも、小澤の恩人の田中路子が、声楽としての引退コンサートを日比谷公会堂で開いた日でもあった。  
しかし、定期演奏会が予定されていた12月11日、小澤征爾は会場の東京文化会館へ向かった。ステージには楽団員の座る椅子と譜面台が並び、指揮台もあった。楽団員さえ来てくれれば、いつでも始められる状態だった。そんなステージに、小澤はひとりで座り、楽団員を「待って」いた。その様子が取材に来た報道陣に撮られ、新聞には「天才は一人ぼっち」「指揮台にポツン」などの見出しで報じられた石原慎太郎と浅利慶太が「誰もいないステージ」の場面で、小澤に「孤独な天才」を演じさせ、カメラマンを呼んで撮らせたのだ。そういう裏の事情は関係者しか知らない。ステージにひとりしかいない写真で、世論は一気に小澤に同情的になった。「若き天才」を「権威主義で意地の悪い狭量な楽団員」がいじめている構図になったのだ。
指揮者と楽団とのトラブルは世代間闘争へと発展していった。若き天才たちにとっては「他人ごと」ではなかったのだ。中止が決まると、石原、浅利のほか、三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹といった当時の若手藝術家、文化人たちが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響とNHKに対して質問状を出すなど、社会問題となっていく。  
この渦中に、恩師のミュンシュが来日した。日本フィルハーモニーへ客演するために来日していた。1963年1月15日、「小澤征爾の音楽を聴く会」という名称の演奏会が、日比谷公会堂で開かれた。オーケストラは日本フィルハーモニーで、小澤の指揮でシューベルト《未完成交響曲》やチャイコフスキーの交響曲第五番などが演奏され、聴衆は熱狂的な拍手を送った。三島由紀夫は翌日の朝日新聞に「熱狂にこたえる道 小沢征爾の音楽会をきいて」と題してエッセイを書いた。〈最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆がこんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。正に江戸っ子の判官びいきが、成人の日の日比谷公会堂に結集した感がある。小澤は、17日に吉田秀和、黛敏郎らの仲介でNHKと和解した。訴訟を取り下げるという意味で、N響へ復帰するわけではない。
18日、小澤は羽田空港からアメリカへ飛び立った。この一連の出来事は「N響事件」と呼ばれる。これが小澤の勝利を象徴していた。「ベトナム戦争」がベトナムでは「アメリカ戦争」と呼ばれるように、この事件はN響にとっては「小澤事件」なのだが、世間でそう呼ぶ人はいない。誰もが小澤サイドに立ったので、「N響事件」となったのだ。
このとき小澤が「深く反省」し頭を下げてN響に復帰していたら、「世界のオザワ」は存在しない。出世術としても藝術上の成長の面からも、この青年は日本を離れたほうがよかった。すでにヨーロッパとアメリカで名は知られている。カラヤン、バーンスタインミュンシュという超大物の後ろ楯もあれば、最強のマネージメント会社もついていた。日本にいる必要など、なかったのだ。日本を出た小澤は、以後、そのキャリアのほとんどを「日本人初」として達成していく。

至高の十大指揮者 第9章「冒険者」小澤征爾

この文章は次の書籍から引用されたようですが…

僕の世代にとっては、浅利慶太だの、石原慎太郎だの「幾つになっても懲りないヤクザな爺さんたち」の面々が名を連ねていることに、思わず苦笑してしまいました😛 やっぱり爺さんたちは若い頃からヤクザだったのかぁ…

ちなみにヘッダーは渡米後の小澤が指揮する次の映像から撮りました。

冒頭で小澤を紹介するレナード・バーンスタインが映ってます。この映像は1962年4月14日に米CBSで放映されました。これを見てて思うことは指揮をしている最中の表情って老けないんですねぇ…

小澤の同世代というと、石原慎太郎(1932年生)、浅利慶太(1933年生)の他に、先日次の記事で紹介した兼高かおる(1928年生)や黒柳徹子(1933年生)などが挙げられます。

この世代は生涯を通じて文字通り「破天荒な生き様」を示してくれましたが、もし彼らがいなければ、世界では敗戦でマイナスになってしまっていた日本の評価が早期に一気にプラスに転じることはなかったんだろうなぁ…と感慨に耽っています。

ご冥福をお祈りいたします。

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