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TAKRAM RADIO|Vol.190 言葉との距離感〜表現芸術と死の準備

6月29日深夜の放送、トークセッションは前回からの続きで鴻巣友季子さんがゲスト。わたしにとって大切なテーマなので、前編に引き続きnoteする。

ネガティブ・ケイパビリティの話からスタート。
「不自由さ」についての話だと捉えた康太郎さん、鴻巣さんに「それとどう向き合っていますか」と投げかける。

翻訳の仕事は立ち止まると先に進めないため、答えを出さないままで先に行く。小説はロジカルなのでそれがあまり起こらないけれど、たとえばアマンダ・ゴーマンの詩を訳すときなど。

解決方法の①:先の景色を見に行く
解決方法の②:ChatGPTを導入する

ChatGPTに翻訳を指示するとものすごくベタな訳が返ってくることが多い。その翻訳を見て、逆にインスピレーションを得られることがあるという話はおもしろかった。
一人で煮詰まってしまったときでも、相手のリアクションによって思考が捗ることはよくある。

ここで再びのジュンパ・ラヒリ。コンテクストデザイナーとして「分かりにくい」仕事をしている自覚のある康太郎さん。メディウムがある程度決まっている・想像のつく職業とちがって、コンテクストデザインは説明しづらいし説明してもポカンとされてしまう可能性が高い。そこが悩ましいところでもある。

ラヒリにおいて、英語からイタリア語へ移行したことが不思議である。いちばん得意で使いこなせる英語にもう戻ってこないというのはどういうこと?
超絶技巧の人がほかの表現を試して元に戻ってくるのとはちがう。

飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』(青土社、1975年)
詩:「母国語」
異国では一度も詩を書きたいと思わなかったが、日本に帰ってきてしばらくすると詩を書かずにいられなくなった。日本では日本語に日々傷つけられている。といった内容の詩。

(ホームグラウンドであるはずの場所で、そこに属しきれていないことで傷つく感覚?)

ここまでの康太郎さんの話を聞いた鴻巣さんが「自分の言葉が遠く感じる」という話を始める。あるある、そういうこと!

鴻巣さんによれば、翻訳の言葉は非日常であって、苦しみや華やぎをまとっているもの。一方でエッセイや評論の言葉は、自分の日常の言葉であるはずなのに「遠く感じる」という。
訳語がうまくはまらないのとはちがう、日常だからこその余所余所しさだったり、母語だからこその疎外感がある。訳した言葉を自分のものとは思えない感覚もあり、「遠いからこそ近く感じる」ことがある。

以下、トークは「人が表現芸術を続ける理由について」に入っていく。

芸術と模倣について。鴻巣さんの著書『文学は予言する』にも書かれていたことだが、あらゆる形の芸術は、人の生を象ったものが多い。これは生の補完であり保管なのではないか。
私たちはmortalな存在である。そうでない人もいるかもしれないが、死の恐怖や、闇を感じている。それに対して芸術は“人間は死んでも無にならない”ということをずっと言ってきているのではないか。

すべての表現芸術は死ぬための準備———

私(これを書いている私)もそう思う。人間は、死んでも無にならない。生きた証さえあれば、本人の死後にそれを覚えている人が生かしてくれるものだと思う。だから私は自分の記憶、経験、感動その他をできるだけ残しておきたいのだ。このnoteだってその願望の発露だ。

康太郎さんが大学で授業をする時に感じていること。
若い人たちに向かって、いろんなジャンルを横断的に紹介したり語ったりしている。ホントに学生に届いてる? 届いてない? 今届かないとしても、時間が経ってもいいから、数年後に思い出してくれたらすごく嬉しい。
その人の人生の岐路に自分が立つことももちろん幸せだけれど、それよりもただ記憶してくれるということにも同様に尊さを感じる。

「生きた証を残そう」として残ることもあれば、「勝手にそう(生きた証を残している)なっている」ことも、両方ある。
たとえばコンペに参加するとき、制作作業に没頭している間はコンペのことをすっかり忘れていることがある。あるいは、迷子になるために没頭していることがある。

鴻巣さんが引き取って。
ここまでの話、そこまでずーっと考え続けてはいない。ある時記憶がスパークすることがある。これは「聖」と「俗」でいうと「俗」のほうのお話。
小さな火花を言葉が散らしている。細かな火花が散っている。ひらめきのような大それたものじゃなく、小さい火花が。

鴻巣さんからリスナーへの問いかけ。
あなたにとって、今愛おしい小事はなんですか?
(これに気付くこと自体にハードルがあるかもしれず、すぐに気付ける人は幸せなのかも)

→子の誕生を待ちながら、退屈な日々を過ごしていること、かな。(実際にはたいして退屈ではない)

鴻巣さんからリスナーへのお知らせ。
トマス・H・クック『緋色の記憶』の新版がハヤカワ・ミステリ文庫から4月に発売。元々は文春文庫に入っている作品。

「雪崩をスローモーションで見せられているような」、ブレイクやオスカー・ワイルドの詩が散りばめらていたりする、文学ミステリー。


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さて、トークセッションのノーカット版が1週間後から各種プラットフォームで配信される。それも楽しみに聞きたい。
私のこの先しばらくのテーマは、はじめてこの世に生を受ける予定の一人の人間といかに向き合い、その成長をいかに見つめるか。自分の子だからといって自分と同一視することはしないと決めている。あくまで一個の人間として尊重することをルールにしたい。
お互いにままならないまま、たぶん長い時間を付き合っていくことになる。その時私は何を感じるのか。その時その人は何を感じるのか。遠いのか、近いのか。どうだろうな。

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