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質問上手は聴き上手

“もし、自分が死にそうになって助かる方法を探すのに1時間あるとしたら、最初の55分は適切な質問を探すのに費やすだろう”

これは相対性理論で有名なドイツ生まれの物理学者アインシュタインが残した言葉だ。

日常は質問で溢れている。
「朝食何にしよう」
「今日はどんな服を着よう」
「今日はどんな音楽を聴こう」
「仕事終わったら何しよう」
自分ひとりであれ、対人であれ質問の連続である。
それもそのはず。
人間の脳は前方にある前頭葉で質問し、後方にある側頭葉で考え行動を起こす。
側頭葉はこれまでの経験で得た知識などの情報を蓄積し、前頭葉の対話に応じた答えを出し、その答えに沿った行動を起こしている。
同時に人は一般的に1日6万回も意識・無意識併せて自分に対話しているのだ。
だが残念ながら無意識の場合はその9割は1週間変わらないとの研究結果もある。

質問力は対人関係における一つの能力としてかなり重要とされる傾向にある。
その背景もあってか、質問力に関する書籍は増えていく一方だ。
Amazonで検索をかけただけでもかなりの量の書籍が出てきた。
自分に対するものや、面接などの就職関連のものや組織を活性化するためのもの、異性に気に入ってもらうためのもの等多岐に渡る。
私自身はコーチングを学び始めて質問について学ぶことになったが、学ぶまではそこまで質問をする人間はではなかった。

話は小学生時代に遡る。
私は大体、教科書に書いてあること、先生の言うことはそうなんだと何の疑いもなく入ってくるタイプの人間だった。
同級生が授業の途中に質問するとだいたい
「いやそれ、教科書に書いてるやん」
と心の中で思っていた。
なんとなく、質問するのは恥ずかしいことだと思っていたのもある。
自分で調べて分かることなら自分で調べればいいし、揚げ足取りみたいなことをしたくなかったのもある。
だが質問することをしてこなかった一番の理由はみんなの前で自分は理解できてないんですよと宣言しているようで嫌だったからというのもある。
ドラえもんに例えるとのび太君タイプだったのかもしれない。
クラスにいる出木杉君のようなタイプの子がすごい質問をすると、毎回ではなかったが
「なんかすごい発想してんな」
と思う反面、
「かっこつけちゃって、けっ」
と心の中で思うこともあったと思う。
「なんだよ!出木杉のやつ」
と石を蹴りながら出木杉君に嫉妬しながら帰宅するのび太君のように。
ただ教師側からすると、私のようなタイプの生徒は心配なタイプらしく、
『質問をしてこないので本当に理解できているのかな……』
と母が懇談で言われることもあったようだ。

ただそれは専門学校に進学すると一変する。
同じく学び始めた同級生たちはみんな出木杉君ばかりだった。
当たり前のことを聞く同級生は少なかったが、教科書を読めばわかることは
「教科書を読んどいて」
で終了だ。
講師の先生の機嫌が悪いと聞かなかったことにされる。
だが、周りの出木杉君たちの質問はそうではなかった。
出木杉君が繰り出す賢者の質問は1つの現象に対して、色んな視点と解釈があることに気づかせてくれる。
それは揚げ足取りだとも、かっこつけやがってとも思わない。
その事象について自分にとって新たに学びがあり気づきがあった。
アインシュタイン先生が言う適切な質問とはこういう質問のことなのだろう。

ただ質問の嵐を受けるのは別物だ。
「彼氏いるの?」
「結婚しないの?」
「子供作らないの?」
根掘り葉掘り聞かれるのは苦しいしほっといてくださいと、心を閉ざしたくなる。
私も1度だけ、もうこの人とは2度と話したくないと思ってしまったことがあった。
それはとあるセッションを受けた時だった。
自分で開発したプログラムがあるので、受けてみてフィードバックを欲しいと言われたのだ。

「小田さんは今の職場を辞めたいと考えているんですよね」
「はい、そうなんです。」
「なぜ辞めないんですか?」
うわ、直球で聞いてきたなと思った。
「奨学金の返済などもありますし、検査技師の仕事自体は好きだからです」
「なぜ返済しないといけないんですか?」
「いや借りたものは返さないといけないでしょう」
「わかりました。辞められなかったらどうなりますか?」
「今の繰り返しです」
「今を繰り返すと、どうなりますか?」
この時点で若干嫌な気持ちになった。
「時間に追われて、やりたいこともできないと思います」
「時間に追われてやりたいこともできないと、どうなりますか?」
「ただ疲れるだけで楽しくないと思います」
「疲れるだけで楽しくないと、どうなりますか?」
「……生きてる意味ないと思います」
「生きている意味がないと、どうなりますか?」
「死んだ魚状態だと思います」
もうこれ以上はこの人とは話したくない。
そう思い始めた。
追い打ちをかけるように、
「死んだ魚状態だと、どうなりますか?」
と聞いてきたものだから、やや怒り気味に
「死んだらもう何もないです。無です。無」
と答えたが、相手はひるまず
「無だったら、どうなりますか?」
と聞いてきた。
「無は無です」
さすがに私の声のトーンと顔の表情を察したのか、
「すいません、おかしいな……今日はうまく行かなかったな」
と言われた。
当然気分も悪かったが、この人とはもう2度と関わらないぞと思ったのと同時に自分の中でとある気づきが起こった。
『これが自分のための質問か』
と。
コーチングを学んだ時に講師の先生から言われたことを思い出した。

コーチングは思考を刺激し想像的なプロセスを通して、クライアントが自身の可能性を最大化させるようにコーチとクライアントの関係を築くものだ。
国際コーチング連盟はそのように定義している。
コーチはクライアントが話したい特定のテーマをもとに、クライアントの話を聞き、質問を問いかけることで気づきを引き出し、クライアントが自ら答えを見つけて行動をサポートする。
ただこの質問はコーチの個人的な主観や関心で質問であってはならない。
日常の
「なんで?」
「どうして?」
では自分が知りたい情報しか手に入れることが出来ない。
それでは相手の能力を発揮させ、気づきや成長には繋がらないからだ。

人は質問されると答えないわけにはいかない生き物である。
質問されると一旦脳が空白状態になる。
この空白状態の中、自分で考えるからこそ、気づきや学びが得られる。
だがそれは舞台でスポットライトが当たり悲劇のヒロイン状態になっていることに気づける質問だからこそだ。
あの時も
「じゃあ、あなた本当はどうしたいの?」
と聞かれていたら自分の中で一旦考え、向き合っていただろう。
きっとこの人とはもう2度と話したくないとは思わなかったと思う。
自分の知りたいこと、関心のある事しか聞いていなければ質問は自分のための質問でしかない。
だが相手のためになる質問はどうすればいいのだろうか。

それはやはり“聴く”ことに尽きると思う。
ただ”聞く“だけではない、”聴く“のだ。
私たちは日常、人や物事を見たいように見て、聞きたいように聞いている。
“聞く“は漢字の成り立ちから見ても、黙っていても耳に入ること。
BGMとして音楽をただ流している場合は“聞く”だし、授業なんかも意識的ではなく教科書を見ながら先生の授業の様子を聞いている。
意識的にあえて聴こうとしなくても、広い範囲で聞こえてくるのだ。
街中でサイレンを鳴らす消防車のように。
だが、“聴く”は違う。
積極的に、理解しようと耳を傾ける。
ラジオやテレビから私がこよなく愛しているB‘zの音楽が流れてきたら曲や歌詞を心の底から堪能する。
まさに、意識的に聴いている。
学校の授業でもあまり関係のない単元や試験に直結しないと思われるようなことは馬の耳に念仏状態だが、いざ試験に関わるとか重要な情報は積極的に聴きに行くのだ。
私が小中学生の時あまり質問しなかったのも、今になって思えば先生の話は聴いているようで、ただ聞き流していただけだったのかもしれない。
自分の知りたい情報だけ知ることが出来ればいい。
心のどこかでそう思っていたからなかなか質問できなかったのだ。
先生が質問してこないから理解できていないかなと考えるのは合点がいく。
話し手はこうだろう、とか決めつけてしまえばその情報しか聞き取らないし、見ようとしない。
だがちゃんと話しを聴いていれば、相手の意図を汲み取ることが出来る。
相手が求めていることを理解できる。
それが他人であっても自分であっても同じだ。

良い質問を繰り出せる人は“聴く”天才なんだと改めて思う。
自分本位な少し調べればわかるような質問はしない。
なぜならちゃんと相手の話を聴き、しっかりと理解しているから。
だからこそ賢者の質問を繰り出すことが出来るのだ。


◇あとがき◇
良い質問の共通点と言うテーマでチャレンジした記事です。
この時私は質問について悩んでいたので、このお題を書いて改めて質問について考えさせられました。
ちゃんと相手の話が頭に入っているからこそ、良い質問が繰り出すことができるし、なおかつ相手のことを傷つけない。
質問が上手な人は聴き上手なんじゃないかな。

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