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『Şivan Perwer 50年間の創作』(著:Kakşar Oremar)

 本稿は、Şivan Perwerの50年間の活動の中で創作してきた作品の譜面、分析、理論についてまとめられた書籍『Stranên Şivan Perwer Nota・Analîz・Muzîkteorî』(Amani Yahya著、 Hakan Akay編、2023年、Rupel)内で Kakşar Oremar氏によって著された章を翻訳したものである。
 Şivan Perwerは、芸術活動50周年を記念したワールドツアーの一環として2024年1月14日に日本公演を行った。その折、Şivanがこの書籍を授けてくれた。そして「たくさん学びなさい。何でもサポートするから」という言葉をかけてくれた。この書籍を読み進める中で、Şivan Perwerという人がクルド人にとってどれだけ大きな存在なのかを再認識している。
 私は歌い手として、しばしばŞivan Perwerの作品を歌う。「誰もŞivanのようには歌えない」という前提に立っているにも関わらず、だ。それは、Şivanが人々に伝えようとしたその言葉の数々が、自分の中で激しく鳴り響き、それを周りの人とも共有したいと強く思うからなのだと思う。
 Şivanが祖国から逃れ、異国の地において、母語で歌を作り、歌い続けてきたのはなぜなのか。そのことに触れた本稿を読むことにより、彼の作品の重みが一層増したように感じられ、Şivan Perwerへの敬愛の念もまた深まった。
 向学のため、以下に翻訳文を掲載する。


『Şivan Perwer 50年間の創作』(著:Kakşar Oremar)


Şivan Perwerのような人は、単なる一個人としてではなく、己のアイデンティティの拠り所として見なされる。つまり、自分が自分自身として見られ、また民族的な属性をそれとして認識されるということである。70年代、北クルディスタンにおける「沈黙の断食」はŞivanの声によって打ち破られた。この時期、トルコ共和国建国に伴い、少数派の人々にとっては、虐殺、流血、蜂起、抵抗など、様々な困難に晒された時期だった。Şivan Perwerの芸術が持つ希望の言葉は、これらの「遺産」によって形成されたと言えよう。

Şivan Perwerの声は、「存在の否定」に対する人々の怒りや憎しみによってできた黒々とした深い傷への薬となった。彼の声と芸術は、政治的・社会的イデオロギーのルネサンスへの道を開いたのだ。若く力強いŞivanは、「抵抗の芸術」として認識されているクルディスタンの新たな表現手法の先駆者となった。

70年代、Şivanという若者の類い稀なる熱い声は、恣意的に引かれた「国境」を超えてクルディスタン中に遍く広がり、抵抗運動に対する大きな力となったのである。

Şivan Perwerは1955年12月23日、北クルディスタン、Wêranşar(ウィランシェヒル)の「Xerareşka Jêrîn」という村で生まれた。

彼が生まれた地は、伝統的に芸術の盛んなエリアの中において色彩豊かな地域だった。Riha(シャンルウルファ)のような由緒ある街は、音楽や楽器という分野においても、重要な要素を多分に持っている。それらの要素は、クルディスタンの芸術史を形成してきたŞivan Perwerやその他の芸術家にとって、創作のインスピレーションを得る要因となった。

Şivan Perwerの祖父は、偉大なDengbêjでありBîlûr(縦笛)の名手であった。村の中でも彼が歌や笛を披露する会は別物だった。彼の会には常に人が集まり、特に冬にはそれが顕著で、彼の周りに他のDengbêjがいない夜などほとんどなかった。

このようなコミュニティにおいて、音楽、伝説、物語、哀歌、Payîzok(Denbêjの歌の形式の一種)などの文化的表現の場を主催する人は、自宅の中に芸術家を住まわせたり、招待したりしていた。Dengbêjたちが集い、何時間にも渡って、伝承歌の数々を力強い声で高らかに歌ったり、新たな物語を創作したりした。

これらの会合では、以下のような歌や伝説や伝記が語られた。メムとズィン、スィヤベンドとへジェ、エヴドゥル・ゼイニケ、アイシャ・イベ、デルウェシェ・エヴディ、エレベ・ジャネ、レレ・ベマル、デラレ・ケレジダヒ、エイシャナ・エリ、ラウィケ・メティニ、シェハ・デラルなど。時には踊りの歌が披露され、その集まりに異なる彩りを与え、場を楽しいものにした。

Şivan Perwerはおおよそこのような状況、地勢において開眼し、その生に光を見出した。つまり、彼の芸術の強さと豊かさはこのような環境で顕在化した。父や叔父たちの語りが彼の芸術の源泉となったのだ。

Şivanは誰かから特別な教育を施されたわけではない。しかし、兄のXelîlから幾許かの影響を受け、歌い始めたのは彼が幼少期のことであった。己の身に起こったこと、見聞きしたこと、全てを、自らの感情から湧き出る音楽という言語を用いてコミュニティの中で表現した。自らの理想や深い思考を歌に落とし込み、時には自分の感情を歌に込め、力強い声で何時間も歌い続けた。村の大人たちにとって、その表現は子供の目を通したものではなく、もはや成熟した大人によるもののように思えるものだった。

Şivanによると、この狭く未成熟なコミュニテイは同時に美しい個性や様々な潜在性を持つものであった。彼にはわかっていた。そのコミュニティが、社会的、政治的な観点からは変容させられることが必然であることを。それは彼の革命の第一歩であった。当時の状況において、その小さな世界はいかにして変容されることになったのか?彼の問いのうちの一つはこれである。そして、その思考と自分自身を歴史書の中に放ったのだ。アリフェ・ジズィリ、ヘセン・ジズィリ、メリエム・ハン、セイデ・ジズラウィなどの声から、またその他の芸術家が遺したものを学ぶことによって、彼は革命の歩みを進めていこうと試みた。その時すでに彼の眼前にはイバラの道が開かれていたと言えよう。しかし、ライオンのように強い心を持つ者は、愛の道を邁進することを恐れないということも彼にはわかっていた。解決策を探し求め、飽くなき研究を続けた。世に出ていくことを望んではいなかったが、少なくとも、自らの論理的手法により、学術的活動に対して持てるものを授け、その後に自らのコミュニティに返ることを望んでいた。つまり彼が掲げたのはこういうことである。「我々の社会に自由をもたらす過程において、Şivan Perwerが使命を持つということは明らかである」。彼は年若い少年であったが、すでに為すべきことを詳細に描いていたのである。クルド人は全方位から取り囲まれ、何年もの間、暴力や迫害の憂き目に遭い続けていた時代であった。彼はそれを自分の目で正しく見通していた。

「モノクロの同化」政策は、人生の色彩を彼の眼前から奪っていこうとしていた。祖国を想う一心でありながら文化や言語のために貢献することが不可能な状況で、いかなる道も残されてはいなかった。クルド人の芸術家や知識人や自由を希求する者の前で、理論的にもまた実践的にも、多くの道が閉ざされた。Şivanにはわかっていた。当時の状況では、彼の進む旅路に、いかなる発展も進化も機会も持ち込むことのできる可能性がないことを。

彼は重大な目的を達するため、祖国を出た。当時はŞivanだけでなく、クルド語で歌う全ての芸術家は困難の淵に立たされており、非常に障害の多い状況に置かれていた。

1976年、彼は国家から尋問を受けた。数多の困難のため、スウェーデンへ向かおうとしたが、移民の申請は認めらなかった。その後ドイツへ向かい、ケルンで暮らすこととなった。それから数年、音楽、特に西欧の音楽を学ぶことに重きをおいていた。

Şivan Perwerは1975年から、プロの芸術家としての活動を開始した。彼は世の中の状況に対して警鐘を鳴らす芸術家となり、自らの作品を通してその姿勢を示してきた。他方で、ムヘメド・アリフェ・ジズィリ、セイード・アガ、ヘセネ・ジズィリなどの芸術家への敬意から、彼らが残してきた伝承歌を紹介するという仕事も行なってきた。

Şivanは母語以外にも、トルコ語、英語、ドイツ語が堪能である。

長年にわたる彼の作品、彼のプロジェクトは、まるで連作映画のように、この50年間のクルディスタンの歴史の中で燦然と輝いている。



Kakşar Oremar "Şivan Perwer û Keda Wî ya 50 Salan", Stranên Şivan Perwer Nota・Analîz・Muzîkteorî (2023): pp. 7-9.

翻訳:上田惠利加

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