相対性理論「小学館」

小学生の少女の頃の私にとって、「明日は嫌いな体育の授業がある」だとか、「日直の当番に当たっている」だとかは、深刻な問題だった。明日学校に行きたくないな、そんな夜にベッドに横になりながら浮かべていた妄想がある。

天変地異が起きて、二階にある私の部屋は水だか宇宙だかにぷかぷか浮かんでいる。カーテンを開けると窓から見える景色はすっかり変わってしまった。とても学校へは行けない。
さてどうやって過ごそう。食料は一階が無事なら大丈夫だろう。
でもこのままだと、楽しみにしているあの漫画はもう読めないかも。そうだとしたら退屈すぎる。

相対性理論の「小学館」という曲を聴いたとき、その頃のことをありありと思い出した。驚いた。独特で不可解な歌詞だが、私にはあまりにも「あの妄想」そのものだった。

崩壊する世界。「寝てなきゃいけない」と言われたかった自分。お気に入りの漫画だけが気がかりな自分。可哀想なヒロインになりたかった自分。

小学校という場が自身に全く合っていないだけだった。それを自分だけが理解していた。
周りはいい人ばかりだった。自分だけが嫌な人間だった。
身体は健康そのものだった。冷水を浴びても腹を出して寝ても、風邪を引くことができなかった。
何もできなかった。世界の崩壊を願う以外は。
「今日から三週間目覚めちゃダメだよ」と言われたらどんなに嬉しかっただろう。

あの頃私は何度も何百回も何千回も、「学校へ行くこと」と「世界の崩壊」を天秤にかけていた。「体育の授業」で大きく世界崩壊へと傾く天秤の反対の皿に、大好きな「漫画」や「ゲーム」がいくつか乗せられる。それで毎回世界は救われてきた。

そうでなかったらどうなっていただろう。私は私の世界を崩壊させていただろうか。

小学生の頃は一番死について考えた時期でもある。
私の世代の持つ死生観は、他の世代と少し違うかもしれない。小学校に入ってすぐ、阪神大震災があった。そして立て続けに地下鉄サリン事件が起こった。大人が大騒ぎしているのを見て、災害や事件で世界が変わってしまうことを私たちは幼心に知った。
リアリティある死の情報をテレビは取り扱い過ぎていた。友達と「どんな風に死ぬのが理想か」ということをふざけながら話し合ったこともある。もっとも小学生なら不謹慎なトークは世代関係なくやりがちなことかもしれない。私の希望は「爆死」であった。今なら選ばない。

「小学館」を聴くときにイメージする色は、あの頃の部屋のカーテンのピンクと、その向こうの窓にうつる夜の黒だ。


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