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若い頃はどうしてあんなに文字数書けたのか?

私が女子高生のとき、授業中は寝るか手紙書くかだった。

本来、ノート取るために使用するはずのルーズリーフは、友達に捧げるために購入してたと言っても過言ではないくらい手紙に消費されていった。

上から下までギッシリ書き上げた手紙はキレイに折りたたんで、授業中に他の生徒たちに暗黙の協力を得て、届けたいあの子の席まで回してもらった。

だいたいこういう折り方

今思えば、授業終わってからだって、昼休みだって、放課後だって、帰宅後の長電話だって、毎日のように話す機会はあった。手紙を書く必要のないくらいコミュニケーションの時間は十分あったはずなのに、それでも伝えたいことが日々溢れまくって手紙にしたためていた。

何をそんなに書いて、喋ってたんだろう・・・。

大学生になってから、当時はmixiが流行っていた。mixiで毎日日記を書いてて、友達たちは毎回それを読んでコメントをくれた。

まじで、何をそんなに書くことあるんだよと気になって、数億年ぶりにmixiにログインして昔の日記を読み漁ってみた。

日々の音大生活、恋愛のこと、旅行行ってきた話。・・・至って普通だった。

普通なのに、今の私が書く文章よりも圧倒的におもしろかった。脳みそと口が直通になってるかのような、無責任な、突拍子もない発言。なーんも考えてない感じが危なっかしいけど、それがなんだかクスクス笑えた。

あの頃の方が「将来の漠然とした不安」とか「今思えばどーでもいい悩み」が多かったはずなのに。

文章から、自由さと、キラキラしてるのが伝わってきた。

そう。自由だったんだ。

大人になるにつれて、「よく考えてからモノを申す」とか「人の意見をちゃんと聞く」とか、社会で生きていくための常識を身につけていく。そうじゃないと、迷惑をかけるから。

空気が読めるようになる反面、自由さみたいなものは失われていくのかな。

特に私みたいなADHDの人は、思ったことをそのまま口にしやすいらしい。子供の頃からお母さんに「思ったことをそのまま言っちゃダメ。一回頭で考えて、クッションを置いてから発言をしてね。」としつこく教わった。

そのおかげで、なんとか最低限働ける人間にはなれた。だけど、“頭でクッション置く“をやってるうちに、言葉がクッションの中に埋もれていって、口にしようと思った時にはもう何も無い・・・みたいな状態によく陥る。

「日常生活」と「発信」の間を泳ぎ回る。そのうちに、自分の中のクッションが、日々の気づきを、想いを、ブラックホールのように消してってるのかもしれない。その消去力は、大人になるほど、人の意見を尊重するほど、強くなっている気がする。

私は昔の日記を読み返して、あの頃のアウトプット量と自由さを取り戻したいと思った。

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