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恋したい人しか恋できない

つい昨日、友達に恋人ができた。
その人はちょっとだけ特殊な状況にあって、だから「両想いになる」ということが、たぶん一般的な恋愛よりも難しかったと思う(恋などというものを語るのに「一般」なんて枕詞がどれほどの意味を持つかは置いておくとして)。

その友達はその少し困難な状況と、少しずつ移り変わっていく相手の方との関係性と、そんななかで育つ恋心を日々Web上で書き記していて、私はそれを連載小説のように読んでいた。二人の出会いからをずっと追っていたので、『恋人になりました』というタイトルのついた文章が投稿されたのを見た時には、あまりにもよくできたハッピーに(ハッピーエンドとは言わないでおく。なぜなら人生は続くので)、このストーリーが現実なのかフィクションなのか一瞬わからなくなって混乱してしまった。すごいね。現実ってすごい。

感嘆とともに思ったのは、ああ、あの子恋してたもんな、ということだった。日々書き連ねられる恋心をずっと読んできたから知っている。
恋したい人は、たとえ困難だろうと恋できるのだと知った。
それはつまり、恋したい人しか恋できないってことでもあると思った。

*

「恋愛の話を書かないんですか」とたまに言われる。
まったくの0ではないけれど、確かに恋の話はほとんど書いてない。周りを見渡すと、「恋愛」というジャンルを武器に文章を書いたりしている人もたくさんいて、恋愛ひとつでそれだけ話を広げられることに驚いてしまう。一方私は「書くことがないんですよねえ」などと答える。

自分を、「恋愛」というものに対して蚊帳の外に置いているような感覚がここ数年ほどずっとある。
他人のものとして、フィクションとして、エンタメとしては興味深いしおもしろいと思うのだけど、あくまで自分の外のものとして見ている。海外のテレビ番組を衛星放送で見ているような感覚。そこに自分はいないし、うっかり足を踏み入れることもない。断絶された場所にある、遠い国の違う文化と思っている節がある。
だから、それがふいに自分の身に降りかかりそうになるとぎょっとしてしまう。テレビの中の俳優が突然こっちを見て「で、君はどうだい?」と話しかけてきたような感じ。いやいやいや待て。液晶を潜り抜けるな。そこでよろしくやっといてくれ。

なんでこういう考えになったのか、自覚している理由がないわけではないのだけど、面倒なので説明しない。何が面倒かというと、理由をわかるように言語化すること、それを理解してもらうことだ。
ひた隠しにしたいわけではなくて、わかってもらいたくていっしょうけんめい友達に説明を試みた時期もあるのだけど、うまく伝わらなかった挙句、いつも「そのうち恋愛したくなるよ」みたいな結論を出されることにうんざりしてしまって、ある時から説明するのをやめてしまった。

色んな人と話してみて、世間は大概「みんな恋愛をしたいと思っている」という前提に立っているんだと知った。そういう状況で私の説明はいつも、「恋愛できないんだけどどうしたらいい?」という相談ごととして解釈されてしまう。「別に恋愛しなくてもいいじゃん」ということを言いたかっただけなのに、その状況がエラー状態であるかのような返答をされ続けると嫌になる。
表面的には会話が成り立っているとしても、そこに共通言語はない。通じていない。さっき異国のテレビと言ったけど、そもそも私自身が異国に立っている感覚に近いかもしれない。そして、それを乗り越えてまでわかってほしいとも思わない。

あーあ、この間も会社の人から「彼氏作らないんですか? 恋したくないんですか?」「今恋愛しないと後悔するよ」となどと散々言われて本当にうんざりしたのだ。私は誰かに「恋するな」なんて言ったことないのに、どうしてこっちばかり「恋をしろ」と言われなきゃなんないの。

恋愛をしたくない、恋愛をうち滅ぼせ、というわけじゃない。私だって、顔も性格も好みど真ん中花丸満点な人が目の前にボンと置かれたら、その瞬間恋愛スイッチをオンにしますよ。
でも、裏を返せばそういう、ダーツで言うブルを一発で決めてくれるような出会いがない限り、恋愛の優先順位なんか遥か下だ。だって、楽しいこともやりたことも他に山ほどある。

恋をしたい人は恋をする。たとえ置かれた状況がどれだけ過酷でも恋をする。私の友達がそうであったように。
私だって、気が向いたらする。ダーツがブルにズバンと決まったらその時は手のひら返して立ち上がる。
だからそれまでほっといてほしい。

私はテレビの音量を下げる。

#エッセイ #コラム #恋愛


ハッピーになります。