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星のない夜を見上げる

※こちらの小説は、2015年に文学フリマにて頒布した「闇鍋」に収録したものに一部修正を加えたものです。再録の予定等ないので掲載いたします。

星のない夜を見上げる

1.

『元気?』
 巽遼平からメールが届いたのは、三年か四年ぶりのことだ。それで私は、自分がもうずいぶん長いことアドレスを変えていなかったのだと知った。
 たった一言の文面は、何年も音信不通だったとは思えないほどあまりにも普通だった。だから、メールが来ていることに気づいた瞬間こそ「ええー遼平!?」と思わず声を出してしまったけれど、こっちばかり気にしているように思われたら嫌だと思って、考えた末に送ったのはこちらも淡白なメールだった。

『まあまあ。急にどうしたの?』
『なんとなく。ふとまなみのこと思い出して、生きてるかなって』
『なにそれ。普通に生きてるよ』
『いやいや、生存確認できてよかった』
『それはよかった。遼平こそ元気?』

 名前を。呼び捨てにしてもいいものかと一瞬ためらって、でも今さら「巽くん」なんておかしいから、昔の通りに。

『元気だよ。そのうち飲みながらつもる話でもしよう』
『そのうちね』

「そのうち」なんて絶対来るはずがない、と思いながら、私はそのメールを打った。そのあとしばらく待ってみたのだけど返事は来なくて、馬鹿馬鹿しくなって、携帯を部屋の隅に放りだした。
 そして、ベッドの上にあおむけになり、過去の遼平について考えた。私の知っている、二十一歳の巽遼平。

 私たちが付き合うきっかけになったのは、大学三年の夏のゼミ合宿だ。
 場所は大学のセミナーハウスだったけれど、それがどこだったのかさえもうはっきりとは覚えていない。ただ関東のどこかで、そう遠くないところに有名な湖があったはずだ。ゼミの三、四年生約二十人で、バスに乗ってそこへ行ったのだ。
 一日目の前半は事前に指定されていた図書(大江健三郎の何かだった)についてのディスカッションと教授からのフィードバック、後半は翌日の発表のために各々準備の時間に充てられた。夕食後少しだけ明日の準備をして、その後すぐに飲み会が始まった。
 はじめは全員で宴会場で飲んでいたのだけど、夜が更けるにつれて一人一人と部屋に引き上げていった。残った人たちは何人かで輪になってはゼミのこれからだの誰かの恋愛遍歴だのを真面目くさった顔で話し込んでいた。深夜独特の、自分の信念やら思いや悩みを吐露するあの時間だ。私はなんとなくどこの輪にも入りそびれてしまい、かといってせっかくの合宿でこのまま寝てしまうのはもったいなくて、飲みかけのスクリュードライバーの缶を手に宴会場を出た。
 時刻は十一時過ぎとか、そのあたりだったと思う。大人しい子はさっさと部屋に帰ったにしても、本当にみんなもう寝てしまったのだろうか。どこかで別のグループを作って盛り上がっていたりしないのか。はだしに室内用スリッパをつっかけて当てもなくセミナーハウス内を歩いていたら、食堂の灯りがついているのが見えた。話し声もする。
 やっぱり起きてる人がいた。交ぜてもらおうと思って覗き込んだら、一番奥まった場所で四年生カップルが身を寄せ合って話し込んでいた。目を凝らせば、テーブルの上で手なんか握り合っている。
 うわあ。あそこには入れない。
 諦めて振り返ったら、すぐそこに大きな人影があって心臓が止まりそうになった。
 それは同期の巽遼平だった。私は声を低くして言った。

「び……っくりしたあ。驚かせないでよ」
「中入んないのかなと思って見てた」
「だめ。入っちゃだめ。中村夫妻がいるから」

 遼平は深く納得したようにうなずいて、「ロビーに椅子があるからそっちで飲もうぜ」と言って勝手に歩き出した。遼平の、ジャージの裾をまくったところから見える脚の筋が、なんだかやたらと目についた。
 非常灯だけがついたロビーは薄暗く、ひんやりと静かだった。遼平は座面の部分が破れて綿が飛び出した合皮のソファーにどっかりと腰掛け、私は一瞬迷ってから、少し離れた隣に座った。

「タバコ吸ってついでに携帯いじって宴会場戻ったら、やたらとシリアスな雰囲気になっててさ、入れなかった」
「私も。なんかタイミング逃しちゃった」
「ああいうのってさあ、話してるときはめちゃくちゃ真剣なんだけど、傍から見るとただの酔っぱらいなんだよなあ」
「なに語っちゃってんのって感じだよね」
「そうそう。まあ、それが楽しいんだけどさ」

 遼平は笑って、ちゃっかりパクってきたらしい缶ビールのプルタブを開けて啜った。
 それまでグループで話したりディスカッションしたことはあっても、遼平と二人きりになったことはなかった。だから、スムーズに会話できていることにまずはほっとして、私はソファの上で体育座りになった。冷えはじめた足先を温めるように両手で握りしめる。
 エントランスのガラス戸の向こうは、夜の山がひっそりと広がっている。遠くまで来ているんだなあ、と改めて思った。そして、施設案内に書かれていたことを思い出して、そのまま口に出していた。

「湖があるらしいよ」
「湖? なんて湖?」
「名前は知らないけど。結構近いみたい」
「俺、でかい湖とか見たことないなあ。見たことある?」
「私もない。そういえば、山とか海とか行くけど湖は行かないよね」

 そう答えてから、しばらく返事がない。つまんない話をしてしまったと思っていたら、遼平は唐突にビールをぐっと飲み干して、言った。

「行く? 湖」
「えっ? 行けるの?」
「知らん。でも遠くないんでしょ。俺ちょっと歩きたい」
「冗談でしょ。え、本当に?」 

遼平は空の缶を潰してもう歩き始めていた。そのままエントランスに向かい、施設のサンダルをつっかけて外に出てしまう。なに言ってんだこいつと思いながら、ついつられて後を追ってしまった。

「ちょっと待ってって」 

 もたもたと大きめのサンダルを履いてガラス戸を出ると、遼平は両手をポケットに突っ込んでこっちを向いて立っていた。そのシルエットは痩せて大きくて、改めて自分とは別の個体なんだと実感した。

「……本気で行くの?」
「だって見たくない?」

 なんだか、その主語は湖ではないような気がした。なにかわからぬまま、そのとき私は強く思った。見たい、と。

「ばかじゃないの」
 私は遼平の横に並んだ。
 そうして私たちは、見知らぬ土地の見知らぬ夜を二人で歩きだしたのだ。

「わああああ」

 思わず枕に頭を突っ込んで叫んだ。
 恥ずかしい。ダサすぎる。馬鹿は私だ。
 何が湖を見に行くだよ。くだ巻いてた同期やいちゃついてた先輩達よりよっぽどひどい酔っぱらいだ。
 ああ、恥ずかしい。だから遼平のことを思い出すのは嫌だ。必然的に、当時の青臭いエピソードまで掘りおこすはめになる。
 ため息をついて、枕から顔を上げた。壁に貼ったカレンダーが、まだ前の月のままになっていた。
 一瞬放置しようかと思ったけれど、放っておいたらずっとこのままにしておきそうだと自分を叱咤して、古い月の紙をべりべりと剥がした。下から、十一という大きな文字が出てくる。

「しかももう六日かよ……」

 無意識に口に出して、そのセリフのあまりのありきたりさに軽い自己嫌悪を覚えた。同じことを毎週毎月言っているから、もう口が慣れてしまって勝手にこぼれ出てしまう。
 もう一度ベッドに戻って、枕を抱えてごろんとひっくり返った。
 もうすぐ一時になるところだった。明日の仕事がつらくなるから、そろそろ寝ないと。
 今日は木曜日だから、明日一日仕事に行けば休みだ。そういえば、「あと何日働けば」もすっかり常套句になっている。休日はもちろん待ち遠しい。でも、それじゃあ休みまでの何日間が捨て駒みたいだ。一日一日はいつからこんなにどうでもよくなってしまったんだろう。

「……寝よう」

 照明の紐を引っ張って、電気を消した。
 体は疲れていたけれど、まぶたの裏に映るまるい電気の残像が妙に鬱陶しくて眠れない。持て余した思考が勝手にゼミ合宿の夜を回想しだす。
 あの夜の散歩がただの偶然だったなんて言うつもりはない。お互いに全然関心がなければ遼平だって「湖に行こう」なんて言わなかっただろうし、私だってのこのこついて行ったりしなかった。私たちが並んで歩くことになったのは、きっともっと前から共鳴するなにかを感じていたからなのだと思う。たとえば言葉の選び方や、考え方やしぐさのなかに。
 そうだ。あのころの私は、巽遼平がなにか言ったり、笑ったり、ふとぼんやり窓の外を見ていたりするたびにそこになにかが明滅するのを見た気がして、それが一体なんなのかを知りたいと思っていた。きっと遼平のなかにも同じような感情があって、それがあの夜うまいこと噛みあって、だからその後私たちは付き合うことになったのだ。
 だけどあれは、本当に恋だったんだろうか?
 私が遼平の中に見出した、あの残像のような淡い光の正体は。
 ふとそんな思いが浮かんで、それから夢のない眠りに沈んでいった。

 
2.
 絶対に来ないと決めつけていた「そのうち」は、今日の昼になってあっさりと私の手元に届いた。

『今日夕方まで渋谷にいるんだけど、暇だったらその後飲もうよ』

 それでのこのこ出て来ているのだから、我ながら呆れる。
 白いコーデュロイのペンシルスカートの丈がいまいち気に入らなくて、裾を乱暴に引っ張る。気合が入ってるように見えないだろうか。もっとラフな格好にすればよかったと、何度目かの後悔をする。
 時刻は午後八時少し前だ。渋谷駅からは絶え間なく人が吐き出されてくる。私は二十四時間営業のスターバックスの前で、世界一有名なスクランブル交差点を溢れんばかりの人波が芸術的に交差するのを眺めた。もうすぐ待ち合わせの時間だった。遼平が昔のとおり時間には几帳面であれば、もう近くまで来ているはずだ。
 自分でも、遼平に昔のままでいてほしいのか、変わっていてほしいのかわからなかった。本当のところ、遼平に会いたかったのかどうかさえ、ここまで来てもまだはっきりしない。好きとか嫌いとかいいとか悪いとか、そういう感覚的な判断がある種のものに対してはうまく働かなくなることがあって、私にとって巽遼平はその一つなのだった。
 ため息をつき、スカートから手を離す。服装に気合いが入ってるというなら、当日に誘われてほいほい承諾している時点ですでに浮かれている。スカートの丈ごとき今さら気にしたってしょうがない。
 手持ち無沙汰にスマートフォンを弄っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、遼平が立っていた。
 相変わらずの痩せ型だけれど、かつて纏っていたあの若さゆえのぐらぐらした危うさみたいなものは感じられなかった。彼の体は納まるべき場所をちゃんと見つけたみたいだった。それが意外だった。私はどこかで、遼平は大人になれないんじゃないかと思っていた。
 遼平はよう、と言って、それから変に取り澄ましたような顔を作って目を逸らした。数年ぶりに元恋人と会うときの顔のレパートリーを持っていないのだ。私と同じように。それがわかって、なんだかおかしくなってしまった。

「久しぶり。ねえ、髪長くない?」 

 浮ついた気持ちのまま、反射的に目についた遼平の髪をさして言った。事実、遼平のくせのある猫っ毛はもうすぐ肩口に届きそうで、しかも染めすぎたのか色素も薄くぱさぱさに痛んでいた。遼平のほうもそれで会話の調子がつかめたのか、表情をゆるめて毛先をつまんだ。

「いや、伸ばしてるんだよ、これ」
「なんでよ、もう充分長いって」

 今だってシルエットだけ見れば女のショートヘアのくらいあるのに、それ以上髪の長い男なんて俳優やミュージシャンくらいだ。

「仕事それで平気なの?」
「いいのいいの。とりあえず行こう。どこでもいい?」
「うん、別にどこでも」
「じゃあこっち」

 遼平に先導され、宇田川町方面へと向かう。東急ハンズを通りすぎ、ぎらぎらした喧騒が遠ざかった辺りで右手に曲がって、狭い急な坂道の途中にある紺色ののれんのかかった居酒屋に入った。
 中にはカウンターが何席かと、それを囲うように畳敷きの個室がある。そこまで広くない店内はほぼ満席で、にぎやかだけれどやかましくはなくて、不思議と落ち着いた雰囲気だった。

「いいとこだね」
「本当は、チェーン店でいっかと思ってたんだよ」

 通されたカウンター席で、熱いおしぼりを受け取りながら遼平は言う。

「でも、それ人に話したら『二十六の女子をそんなとこに連れてったら怒られるぞ』って言われてここにした」

 二十六歳をまだ女子と呼んでくれるとは。嬉しいんだかむなしいんだかわからない気持ちになりながらおしぼりを広げた。
 魚がうまいんだよと言う遼平に勧められるまま料理をいくつかと、ビールを頼む。ビール飲めるようになったんだ、と言われて気がついた。遼平と付き合っていたころはビールのおいしさなんて全然わからなくて、ジュースみたいなカクテルばかり飲んでいた。
 結局、酔っぱらって羽目を外せればそれでよかったのだ。自力では抜け出せない枷から解放してくれるものならなんだって。それがカクテルからビールに変わったって、お酒に求めるものは変わっていない。
 れんこんのはさみ揚げを箸で割りながら訊いた。

「いま、何してるの?」
「劇団」

 げきだん、という四文字の音以上の意味は一切見いだせない言い方だった。その軽さに、遼平が手にした安定感の正体を見たような気がした。

「まじかよ」

 反射的にそう口にしたけれど、心のどこかではやっぱりそうなったか、と納得してもいた。
 明るすぎて長すぎる髪の毛やくたくたのパーカーにサルエルパンツという出で立ちが、見るからに会社員然としていなかったから、というだけじゃない。もっと前から――それこそ、まだ二人きりで言葉を交わすようになるより前、自覚もないままその姿を目で追っていた頃から、私は遼平が最終的にはそういう道を選ぶだろうということを知っていた気がした。つまり、私が選ぶのとは違った生き方をするのだろうということを。
 大根サラダが運ばれてくる。気を紛らわすように添えられていたトングを取ってそれを交ぜた。灰褐色の器のなかで細切りにされた白い大根と水菜が瑞々しく交ざり、れんこんチップスがぱりぱりと壊れていく。

「なんていう団体? 役者?」
「そう。劇団『浮遊』」
「売れてんの?」
「まさか。じり貧だよ。週四で派遣やってる。コールセンター」
「うそー、遼平オペレーターとかできんの?」
「できるさ、やろうと思えば。でもあれだな、人って客の立場になると本当タチ悪くなるんだなって思ったよ。姿が見えないからかな、電話の先にいるのも人間だってわかんなくなるのかな」
「嫌じゃない?」
「まあ、たのしかないよ。でも派遣だから責任ないし、時間がくれば終わるから」

 そう言ってビールを煽る遼平の横顔には屈託がない。
「仕事だから」と割り切れるのは、自分のなかに仕事ではない部分をしっかり確保できているからだ。疲れてはいるようだけど、疲弊しているようには見えなかった。ある種の確信を持って生きている人だけが持つ余裕みたいなものを、遼平は鱗粉のようにまとっているようだった。
 視線を落とすと、箸を握る自分の爪が目につく。二週間前にサロンでやってもらったサーモンピンクのフレンチネイルは、根元からわずかに地爪がのぞいている。出かけるときに気がついてまあいいかと思っていたその部分が、突如として気になりだす。みっともないという意味ではなくて、その中途半端さがなにかを象徴するようで。

「まなみは? 仕事なにしてるんだっけ」
「今年から経理部に異動になってさ」
「文学部なのに?」
「そう、文学部なのに。もう全然わかんないよ」
「へえ。おもしろくないの?」
「おもしろくないよ、全然。部署も封建的だし。まあそれは会社全体的にそうなんだけど」

 そう言ったあとに、「お局のおばさんが文句ばっかりで全然仕事しなくて」とか「教育担当は仕事しない上に八つ当たりしてくるし」とか「上司がいつも帰り際に仕事振ってくる」とか、ペットボトルのふたをひねった直後の炭酸飲料みたいに愚痴がいっせいに湧き上がってきたけれど、なぜだかそれを口に出す気にはなれなかった。
 相手が大学時代のほかの友人や、あるいは会社の同期の長谷部蓮花であればなにも考えずに話していただろう。だけど今は頭に浮かんだだけでしおしおとしぼんで、文章として形をなしたときには口にするにはあまりに下らなく、無意味なことに思えた。
 遼平の前でこうして言葉がつまってうまく出てこないことが昔もよくあった。それは恋しているがゆえの、愛しさがあふれていっぱいになるような甘やかな感覚とは別物だ。もっと直球で、もっと本質に近いぎりぎりな部分での問いかけに似ているなにか。
 そうだ、遼平の前に立つといつも私は問われている気がした。意味を。価値を。思いを。それがしんどくなって、耐えきれずに私は逃げるようにして遼平から離れた。大学四年のときのこと。
 そのあとは二人でだらだらと、ゼミ時代の昔話や誰それの噂話をした。私は少しハイペースでお酒を飲み、きっと上機嫌に見えたと思う。気持ちよく酔っぱらいながら、一方で余計なことを考えないよう注意深く気持ちと心を乖離させていた。それは、わざと焦点を合わさずに景色を見るのに似ていた。
 十一時少し前に店を出て歩き出したところで、遼平はふと思い出したように言った。

「今度、公演あるんだ。暇だったら来てよ」

 そう言って鞄からクリアファイルを出して、A4サイズのチラシを手渡してくる。
 貴族みたいな立派な格好の男と、黒い布で目元を隠したぼろぼろの服の男が並んで立っている。貧乏な男のほうが遼平らしかった。
 劇団浮遊『星見る男』。前売り券三五〇〇円、当日券四〇〇〇円。

「……ねえ、まさか、勧誘のために呼んだ?」
「まさか。そのためにいちいち飲みに行ってたら割に合わない」
「そりゃそうだけど」

 なんとなく不満で、足元にあった空き缶を蹴った。そしたらまだ中身が入っていて、少しずつこぼしながらアスファルトを転がっていった。
 その音に、少し前を歩いていた遼平は呆れた目をしたけれど、何も言わなかった。大学のころだったら私がどんなに下らないことをしても「何やってんの」と笑ったくせに。
 冷静な部分では、それは過去の話で、もう遼平がそうやって私を甘やかしてくれる相手でないことはわかっている。でもなんとなく感情の振れ幅をコントロールできなかった。実際酔っているのだろう。たとえ意識がはっきりしていても、七センチのヒールで歩けても。

「ねえ」
「ん?」
「なんで演劇続けようと思ったの」 

 んーと唸って、遼平はポケットに手をつっこみ、ゆっくりと歩き出した。

「俺、結局一回普通に就職したんだよね。ゼネコンで二年正社員やって。結構いいとこだったんだよ。福利厚生もしっかりしてたし、ボーナスも出たし、頭いい人も多くて。でも二年働いて、あ、これ駄目だなと思った」
「駄目ってなにが」
「なんだろな、具体的に説明すんのは難しいな。でも、十年後もこうやって働いてるのかなってふと考えたら、無理だなって」
「だって、いいとこだったんでしょ」
「うん。いいとこだったよ。過労死とか有り得ないし、潰れることもなさそうだし。だからこそ駄目なんだと思った。この先、まあ何年生きるかわかんないけど、まあそこそこ生きていけるだろうし、じゃあそこそこ生きることになんの意味があるんだろうって。一回そう思ったらもう気が狂うほど嫌んなっちゃって」

 一瞬だけ、湿っような気配が遼平の背中から滲み出て、すぐに消えた。それでも、その一瞬には二十四歳だか二十五歳のころの遼平の苦しみや葛藤が凝縮されていた。

「ま、もともと演劇で食ってけたらなって思ってたから、二年かけて軌道修正したような感じだよ」 

 振り返った遼平からは、さっき匂わせた雰囲気は跡形もなく消え去っていた。その笑顔の屈託のなさが、私の気持ちを翳らせる。
 いつもこうなのだった、巽遼平という人は。嬉しいことも苦しいことも、全部一人で軽々と抱えてしまって、その片鱗さえ掴ませてくれなくて、ただ私のまぶたの裏に光の残像だけを置いていく。
 そして今も、もうただの友達なのに、やっぱりそこにいるだけで遼平の存在はじわじわと私を追い詰める。問いかけてくる。だから私は逃げた。今も、逃げる。

「ねえ、いつまでそうやってくの?」
「そうやってって?」
「だから。演劇で生活していけんの? 年とってずっと成功しなかったらどうすんの? それでいいの?」

 遼平が振り返って、こっちを見ている。やかましいばかりのネオンの逆光でその表情はわからなかったけど、それでも、その目で見られていることがすごく嫌だった。

「……そうだな」

 黒い乗用車が一台、すぐそこの車道を通り過ぎる。目を焼くようなヘッドライトが、遼平の顔を半分だけ照らす。その表情に既視感があって、私の胸を刺す。

「でも、しょうがないんだよ」
「しょうがないってなにが!」
「俺が」 

 それ以上はなにも言えなかった。
 駅までの道すがら、何を話したか覚えていない。ただ、気を抜くとよろめきそうになるくらい酔いが回っていて、足に力を込めて歩くことだけに集中していた。

3.
「で、デートはどうだったの?」 

 月曜日の昼、食堂で席につくなり弁当も開けずに蓮花は切り出した。日曜に元彼に会うということを話してから、ずっと報告を待ち構えていたに違いない。

「デートじゃないって」
「男女が二人で会ったらデートでしょ」
「男女とか、キモイからやめて」

 私はため息をつきながら、B定食の味噌汁に手を伸ばした。社員食堂の日替わりの定食はいつもAが肉で、Bが魚。

「なんでそんな疲れてんの? だって、全然脈なしだったらわざわざ会わないでしょ」
「ないよ脈なんて。なんにもないから会ったの」
「ええー」 

 蓮花は不満そうな顔をしながら、リバティプリントの小さな包みから弁当箱を取り出す。
 小さな二段弁当にはブロッコリーやきんぴらごぼうやミートボールが隙間なくきっちり詰まっている。ややギャル寄りの風貌に反して、彼女は毎日こうして弁当を作ってくる。暇な休日くらいしかキッチンに立たない私はただただ感心して眺めるばかりだ。
 そぼろと海苔の乗ったごはんを少しずつ崩しながら蓮花は言う。

「でもさあ、学生時代の彼氏から何年も経ってから連絡が来るなんて、それだけでよくない? 漫画みたいで」
「いやそれがさあ」
「なによ」
「劇団員だったんだよね」
「えっ?」
「げ、き、だ、ん、い、ん」

 一瞬固まった表情が、意味を理解してじわじわと厳しいものに変わっていく。眉間にしわが寄るところまできて、断罪するように蓮花は言った。

「あたし、そういうの無理」

 そう言うだろうと思った。
 蓮花の性格を思えば、それは容易に予想できる反応だった。そして、だからこそ私は蓮花に話しているのかもしれない。やっぱ無理だよね、ありえないよね、と言い合うために。女は同調する生き物だから。

「夢追い人的な?」
「そう、いい年した夢追い人」

 嫌いな料理を、それがまずいことを確かめるためにわざと噛みしめるような慎重さでは蓮花は言う。

「二十七で劇団員……キツいわ」
「キツいかな、やっぱ」
「キツいよ」

 プラスチックの箸を握るバルーンフレンチのネイルで光る細い指にぎゅっと力が籠る。私のように地爪が見えていたりすることはない。いつでもきっちり整えられた指先。

「夢を見るのはいいんだけどさ。いいんだけど……うーん、やっぱり、せいぜい二十歳くらいまでじゃない? あたしの知り合いにも、実家暮らしでバイトしながらイラストレーターやってる子がいるんだけど、正直、いつまでやるんだろう、って思っちゃう」

 綺麗に内巻きになったロングヘア、武器みたいに尖ったジェルネイル。アイラインでひとまわり大きくなった目と、いつでも六センチ以上あるピンヒールとフレアスカート。長谷部蓮花には隙がない。内面も外面も、強い芯が通っている。それが時に、私の目には過剰に映る。

「将来のこととか家族のこととか、ちゃんと考えてるのかな。だって、自分とか親が急に病気になったらどうするの? 子どもが生まれたら? 何の保険もないわけでしょ? そういうのって無責任だよ」

 白い食堂のテーブルをわずかに睨むように目を落としながら、蓮花は言った。

「自分の人生に責任を持てない大人なんてありえないよ」

――かつて飲み会の帰り、二人で並んで電車に乗っていたときに一度だけ聞いた。
 蓮花には放蕩者の叔父がいて、ずっと定職につかずに金を溜めては旅をするような生活をしていたのだそうだ。その叔父があるとき借金を抱えて戻ってきた。本人は当然返す当てもなく、泣きつかれた結果借金は兄である蓮花の父が肩代わりすることになったのだという。そのせいで、蓮花の兄は大学進学を諦めた。

『自分は好きに生きて、挙句周りに迷惑かけて、どういう神経してるんだろうね。私には理解できない』

 あのときの蓮花も今と同じ目をして、窓の向こうに見える暗い街を睨んでいた。

『そのとき思ったんだよね。お金とか知識とか立場とか、そういう現実的な力がないと戦えないし、何にも守れない。夢なんてなんの役にも立たないよ』

 そのときも今も、そうだねと頷くこと以外、なにを言えただろう。
 いつだって私は語る言葉を持たない。問いかけに答えられない。演劇で生きていくと言った遼平を勝手だと感じるくせに、蓮花の切り捨てるような言葉に心のどこかが反発する。
 私は怖い。遼平や蓮花のような人間が。二人は正反対なのにどこかが共通している。重なり合うその部分が、私の心を焼く。
 だから私は口をつぐみ、頷く。思考を停止する。目を閉じ、逃げる。
 大学四年のとき、遼平は突然ゼミを辞めた。卒論も書かなかったし、就職活動もしなかった。
 何考えてんの、将来どうすんのと詰め寄った私に遼平は困った顔で、演劇をやりたいんだ、と言った。
 理解できない。付き合いきれない。そんなに演劇がやりたいなら勝手にやってよ。
 それが別れの文句になった。遼平は決して私に取りすがったり、言い訳したりしなかった。あいつはあのときも、「しょうがないね」と言ったのだ。
 私が悲しかったのは、遼平がそう言うだろうことがわかっていたからだ。おかしな話だけれど、付き合う前から、好きになる前から、そんな結末を知っていた気がした。
 自分で決めて離れたのに、遼平の危うさが、奔放さが、いつまでも追いかけてきて私にこう訊くのだ。
 まなみは本当にそれでいいの、と。

4.
 なんで私はこんなことを。
 十一月三十日午後五時、私は一人五反田駅にいた。劇団浮遊の『星見る男』の前売りチケットを手に。
 遼平に買ってくれと頼まれたわけではない。そもそも、今日の公演に来ることも本人には言っていない。私が自分で勝手にチケットを購入して、自分で自分の行動が理解できなくて、それで勝手に苛々しているのだ。
 だって本当に観に来る気なんてこれっぽっちもなかったのだ。遼平とは当分顔を合わせたくなかったし、そもそも演劇なんてさっぱりわからない。観たいと思ったこともない。
 なのに来てしまった。週にたった二日しかない大切な休日を費やして。
 地図に従って公演場所へ向かう。劇場があるのかと思っていたら、道の狭い住宅街を歩いた先にあったのは大きな倉庫のようなプレハブの建物だった。入口には派手な立て看板と、チラシと同じ写真のポスターが貼ってある。
 うっかり遼平と会ってしまわないようわざと開演時間ぎりぎりに来たので、もう始まっているかもしれない。入っていいのかためらっていたら、入り口付近でチケットを数えていた小柄な女性が気づいて、ぱっとこちらに近づいてきた。

「『星見る男』ですかー?」
「あ、はい」
「チケットはお持ちですか? 当日券ですか?」
「持ってます」
「ありがとうございますー」
 パンフレットやリーフレットを束にして半券と一緒に渡してくれる。
「今日はどなたかのご紹介なんですかあ?」
「えーと、知り合いがいて」
「えっ、誰ですかー?」
「巽遼平、なんですけど」

 お姉さんの、演劇をやっている人特有の抑揚の強いわざとらしい喋り方に気を取られていたら、つい口が滑った。

「あー遼平くん! 彼今回初主演なんですよ。脚本の原案もやってて。じゃあ楽しみですね」

 それは全然知らなかった。
 遼平がなにを見て、なにを考えてきたかがこの劇に詰まっているのかと思ったら、なんだか緊張で下腹がきゅっと痛くなった。
 私の気持ちなどつゆ知らず、お姉さんはにこにこしながら奥に垂れ下がっている暗幕を細く開いて手招きする。

「もう始まるとこなので急いでどうぞー。中に誘導員がいますので」

 急かされながら片足だけ踏み込んで、それから振り返った。

「あの、知り合いが来たって、遼平には秘密にしといてもらえますか」

 なにを勘違いしたんだか、まるい眼鏡の奥のつぶらな瞳がきらんと光った。

「オッケーですよ。それじゃ、お楽しみください」

 遊園地のアトラクションの添乗員さんみたいな芝居がかった台詞に見送られて、私は今度こそ暗幕の内側へと入った。
 中は薄暗かった。正面にステージがあり、光源はその上のぼんやりとした明かりだけだった。舞台と向き合うようにざっと五十くらいのパイプ椅子が整列していて、驚いたことにほとんど埋まっているようだった。
 空いている席を探してきょろきょろしていたら、「浮遊」と書かれたTシャツ姿の若い男の人が近寄ってきて、「もう始まりますから」と小声で言って後ろの端の席を示してくれる。
 狭い通路を通って椅子に座ったちょうどその時、照明が消えた。抑揚のない女性の声が流れ始める。

「ようこそ、劇団『浮遊』へ。今宵お話いたします物語は、『星見る男』でございます。これはあなたの知らない世界で起こる、けれどきっと心のどこかで知っている物語――」

 ぱっと、舞台の上に弱い照明が灯る。そこにはいつのまにか二人の男が頭上を見上げて座っている。一人は遼平だった。

「なあ、すごい星だ。この星空だけは、ほかのどこにも負けないよな」
「そうだね。金がなくたって運がなくたって、見上げればいつだってこの満天の星が見える」
「大人になっても、またこの星を見よう、テオ」
「うん。なにを忘れても、なにを失くしても、ここで星を見よう。そうしたらきっと思い出せるよ」

 もう一度照明が落ちて、代わりに天井に星のような細かい光が散って、ゆっくりと消えて。
 そして、『星見る男』が始まった。

 それは、テオとバルト、二人の少年の物語だった。田舎の農村で暮らす天涯孤独の遼平扮するテオと、彼の友人で体の弱い妹を持つバルト。働きづめで貧しい生活を送りながらも、彼らは力を合わせながらたくましく生活していた。
 あるとき、バルトの妹の難病が発覚する。バルトはなけなしの金を集めて村の医者を訪ねるが、治す手立てがないと断られてしまう。都市部へ行けば最先端の医療を受けられるかもしれないと聞かされても、どこにもそんな金はない。消沈する彼は、とある噂を耳にする。
 曰く、村にほど近い国の軍事施設が新兵器開発のための人体実験を行っており、その被検体を探している。そこに志願すれば、見返りとして莫大な報奨金が与えられる。
 バルトは悩む。実験に参加すれば妹を助けられるかも知れないが、その実験は五体満足どころか生命の保障すらないという。自分がいなくなれば妹は一人になってしまう。きちんと治療を受けられているかも見届けられない。
追い詰められたバルトの頭に、ふっと浮かんだ考え。それは、テオを自分の代わりに実験に差し出すことだった。天涯孤独のテオなら残される家族もない。自分の思いつきを嫌悪しながらも、その可能性を捨てられないバルト。
 そのさなか妹の病状が悪化し、バルトはついにテオを裏切ることを決意する。二人で星を見た丘にテオを呼び出す。

「わざわざ呼び出したりして、どうしたんだ?」
「ああ……。くそ、どうして今夜はこんなに星が光ってるんだろうな?」
「本当にどうしたんだよ。妹の調子はどうなんだ?」
「よくない。全然よくないよ」
「そうか……。俺にできることはないか?」
「……ある。あるよ。妹のために、俺のために……死んでくれ」

 バルトはテオを昏倒させて拘束し、軍に引き渡す。報奨金を手にしたバルトは妹を連れ、都市へと向かう。
 だが長旅に耐えられず、妹は都へたどり着く前に命を落としてしまう。一人都市へ流れ着いたバルトは、失意の中生きることになる。
 一方のテオは、実験施設の中で妹を救うためにバルトが自分を売ったのだと知り葛藤するが、人を人とも思わぬ実験の日々に徐々に衰弱していくのだった。
 数年後。手にした金でがむしゃらに成り上がったバルトは、貧しかった少年のころとは見違えるような立派な出で立ちで、故郷へ戻ってくる。軍事産業で栄えたそこはもはや貧しい農村ではなく、石と鉄の工業都市へと変貌していた。中心部には巨大な工場がそびえ建ち、そこから一日中吐き出される煙で空はいつも濁っていた。
 かつての村の面影を見つけられぬまま街をさまよっていたバルトは、テオと二人で星を見上げた丘に辿りつく。そこには、目元に黒い布を巻いた貧しい身なりの男が座っていた。バルトは一目で、それがテオだと気づく。

「誰かいるのですか? こんなところに人が来るなんて珍しい」
「歩いていたらたまたま……。あんたは、目が見えないのか」
「はい。昔軍の実験に参加していて、その時に失明しました」

 自分のしでかしたことの結果を見せつけられ、テオに名乗り出られないバルト。

「あんたはこんなところでなにをしているんだ」
「星を見ています」
「だって、目が見えないんじゃ。それに、工場の煙で曇って、星どころか空も見えない」
「確かに目は見えません。でも、不思議なことに、まったく見えなくなってからしばらくして、光が見えるようになったんです。わかると言ったほうがいいのかな。まぶたの向こうに、厚く覆った雲の先に、いつでも星があるのがわかるんです」
「馬鹿なことを言うな」
「友達がいるんです。妹思いの友達が。彼と、大人になってもここで星を見ようと約束しました。僕はその日を待っているんです。彼にもここへ来て、満天の星を見てほしい。そうしたらきっと思い出せるから」
「見えるわけがないだろう! お前には見えたとしても、俺にはもう見えるわけがないんだ!」
「見えるよ」

 詰め寄るバルトに、テオは静かに、けれどはっきりとそう言った。

「いつでも必ずそこにある。ずっと君を待っている。それを知っていれば、見えるよ」

 布で隠された顔で空を見上げるテオ。つられるように顔を上げるバルト。頭上にはスモッグが焚かれ、光は一つもない。
 舞台の上の照明も、静かに落ちていく。

「――ああ、そうか」

ふっと正気に返ったようなバルトの声が、闇に沈んでいく場内に響く。すべての光が完全に消えて。

「きれいだ」

 拍手が鳴り続けている。明るくなった舞台上で、役者たちが何度も頭をお辞儀をしている。
 長い間座り続けて変に固まった体を無理に動かして、私は一人そっと建物を出た。
 外はすっかり暗く、冷たい風がコートの隙間から体を冷やした。
 空を見上げると、あの劇のように分厚い雲に覆われて、それが街のあらゆる明るすぎる照明を受けて灰色に濁り、到底星なんて見えなかった。
 こんな空を見て、それでも遼平は星が見えると言うだろうか。
 あれはただの物語で、彼は遼平ではなくテオという役で、それはわかっていても、あの話を書いたのが遼平だということも相まってうまく切り分けることができなかった。
 だって、私には光が見えない。見えたこともない。
 そう思ったとき、ふいにあのゼミ合宿の夜のことが蘇ってきた。
 あの夜、結局道がわからなくて、私たちは湖に辿りつくことができなかった。
 雨が降ったわけでもないのに車道のアスファルトは黒々としていて、空気は濃密に湿っていた。どこからか絶えず虫の声がして、静かなのに生き物の存在を感じることができた。そういうなかを、私たちは揃いの茶色いゴム製のサンダルを履いてただ歩き続けたのだ。
 あの夜も、曇っていて外灯もほとんどなくて、星どころか月も見えなかった。なのにどうしてだろう、私は一度も暗いなんて思わなかった。それどころか目に映るものが全部、なんとなくまぶしいような気さえした。あの光は、いったいどこから来たものだったのだろう?
 あのとき、私自身も光を発していたのだろうか?
 遼平も同じ明るさを感じていたのだろうか?
 今はもうわからない。ただあの夜からずいぶん遠くへ来てしまったのだということ以外は。
 星のない空を見上げ、今夜の私は一人で歩く。

『見えるよ』

 どこかからテオの、遼平の台詞がこだまして、凪いだ湖面にそっと石を落とすように、ゆっくりと私の中に沈んでゆく。
 それは、あの夜辿りつけなかった湖に似ている気がした。
                        〈了〉

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ハッピーになります。