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二つのマフィン

 昼休み、行きつけの屋外北側にある木製のベンチに一人腰掛けて、春の風に吹かれながら心までも温かくなるのを感じた。
 
 綺麗にラッピングされた手作りマフィンを封切り、一口食べてみる。とても美味しい。
 
 このマフィンには沢山の愛情がつまっている。私はあまり甘い食べ物が好きではないが、それは特別に美味しく感じて、私の心を満たしてくれた。
 
 その手作りマフィンは、娘の友達がホワイトデーの日に自宅まで届けてくれた物だ。娘は学校へと行かない派で、しばらくその友達とも顔を合わせていない。それに、バレンタインデーにその友達に友チョコをあげたわけでもなかった。その友達は、わざわざ遠い我が家まで手作りマフィンを届けるために自転車に乗って来てくれたのだ。
 
 私にはそれがとても不思議で驚いた。
 
 その友達と娘は保育園からの仲良しだ。しかし不登校の娘とはしばらく顔を合わせてはいない。存在は関わりが薄くなるのと同時に時と共に忘れられていくものではないのか。なのにわざわざ遠くから自転車に乗って手作りマフィンを娘に届けてくれたのだ。その子には他にも友達が沢山いる。いつも教室の娘の席は空白で、そんな日常が長く続けば娘の存在もだんだんと薄れていくのが自然の流れだろう。世の中そんなものだと冷めた見方をしていた私にとって、それは信じられない出来事だった。
 
 もしも私がその子だったなら同じことができただろうか。考えたとしても行動には移さないだろう。私がする事と言えば、いつも空白の友達の席を悲しい気持ちで見ながら元気にしてるかなと心配する程度だ。学校から支給されているタブレットにも、『待ってるよ。学校来れたら絵を描いて遊ぼうね』というメッセージが届いていて、娘は嬉しそうにそれを見せてくれた事があった。そのメッセージには私も喜んだが、それよりも、わざわざ足を運んで手作りマフィンを届けてくれたと聞いた時には、さすがの冷酷な私でも涙が出そうになるほどに嬉しかった。
 
 マフィンは二つあった。
 娘はその一つを私にくれると言った。
 大切なマフィンを私が食べてもいいのかと問うと娘は、『昨日お母さんの誕生日だったからあげる』と言った。
 本当に貰ってもいいのかと思いながら、すぐには食べられずに冷蔵庫の中にしまっておいた。

 翌日、冷蔵庫を開けると二つのマフィンは一つ無くなっていた。それは娘の胃の中に収まったのだなと思いながら、娘はその日どんな気持ちで食べたのかと想像した。
 いつまで経っても食べようとしない私に、
『すごくおいしかったよ。お母さんも食べてみて』と言ってくれたので、今日の昼休みに食べることにしたのだった。

 
 娘が貰った大切なマフィンを食べながら、色々な気持ちが溢れた。このマフィンは五年生の子供だけで作ったクオリティではない。きっと友達はお母さんと一緒に休日に作ったのだろう。バレンタインデーに友チョコをあげてもいない、長い間顔も合わせてもいない娘に、お母さんと一緒に心を込めて焼いてくれたのだ。
 
 私は食べながら涙が溢れそうになった。
 
 手作りお菓子の感覚。余計なものが入っていないシンプルな味。心が温かくなる味だ。
 
 大切なマフィンなのに私と来たら顎関節症で口の開きが悪く、うまくかぶり付けなくてボロボロと生地をこぼしてしまった。勿体ないな・・・と思ったが、蟻にも幸せをお裾分けしてあげると思えば悔しさは紛れた。
 
 
 娘の友達のお母さんとは以前はLINEで繋がっていたが、スマホを新しくした時LINEの引き継ぎが上手く行かずにそのまま途切れていた。別に日常生活に支障はないし、正直私の世界に有っても無くてもどちらでも良かった。あえて繋ぐ必要もないだろうと思っているうち流行り病で参観日なども無くなり再び繋ぐ機会を失った。だから連絡先は途切れたままでお礼もできない状態だ。それでも今回ばかりは『ありがとう』の気持ちを伝えたいと強く思った。
 
 私は自分の誕生日に特別な思い入れはない。ただ私が生まれた日で、ああ、もうこんなにも生きたの。頑張って結構生きてきたのですね。と思うぐらいの日。そんな日に、ついでのように『昨日お母さん誕生日だったからあげる』と言った娘の言葉にも考えさせられた。貰った大切な物をついでに分けてくれたという事。ついでに出てくる言葉や行動は、わざわざ用意した物よりも、当たり前に染み付いた本当の気持ちが有るように思えた。
 
 マフィンを食べながら、今までの私は常に受け身でしかなかったと気付かされた。来てくれたら受け入れる。こちらからは余程じゃない限り行動はしない。その方が気が楽だからだ。そんなつまらない考え方だったと気づいた。今までの私にケチをつけるわけではないが、たまには思った事を行動に移す時があってもいい。その方がもっと楽しく生きられそうな気がした。
 
 休日にはホワイトデーのお返しの手作りお菓子を娘と一緒に作りたいと思った。それを娘の友達に一緒に届けて、もしもタイミングが合えば友達のお母さんと再びLINEで繋がれたら嬉しい。お礼と共に、
『またLINE繋がりたいけど、大丈夫?』
 そんな風に軽く、でも大切に、声をかけてみようかと思った。
 
 
 
 
 

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