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■7月21日 短歌、始めました。

先日、歌会に参加してから毎日短歌を詠み続けています。一日5首以上詠むことを自分に課していて、それは脱落せずにいます。おかげで、始めてから2週間経たないうちに、100首以上詠みました。

出来不出来の具合で言えば、「不出来」が圧倒的多数です。しかし、自分の詠んだものに「ナニカ」足りないことは理解できても、短歌を「読む」経験が少な過ぎるために、それをどう直せば足るようになるのかがさっぱり分からない。

それでも、1首詠むのに3日かかった初めの一歩から考えれば、一日で5首以上ざくざく詠めるようになったのは、ずいぶんな成長と言えましょう。

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短歌を詠むようになって、短い時間でものの見方や感じ方、言葉の使い方などが如実に変化したように思います。

詠み始めたとき、まずはつくり方を知ろうとコチラの本を読んだのです。

木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』(ナナロク社)です。こちらは、木下さんご自身がどのように短歌を作られているかをものっそい明快に言語化されています。それは、ここまで細かく教えてしまってもいいの? と思うほどの丁寧さで。超初心者である私であろうと、とりあえず何をすればいいか、道標になってくれる本でした。

そして、この道標を頼りに作歌していると「短歌」というのは思っているよりもずっと動的なものなのだなという感慨を持ち始めました。

もしかすると、文章を書くという営為自体が動的なのかもしれません。

短歌であれば「詠む」ことを、文章であれば「書く」ことを続けることで初めて得られる自分自身の変容がある。そして、それに伴って、詠んだり書いたりする短歌/文章をも変化していく。短歌を詠み続けることで、その実感をリアルに手にしたのです。

逆に言えば、詠んだり書いたりしなければその変容は絶対に起きないし、そう考えれば「辿り着ける場所」というのもまったく違うものになってしまうでしょう。そういう意味で、作歌や文章を書くことというのは「動的」だろうと感じたのです。

また、短歌を詠むことで、ようやく木下さんの書かれている内容を血肉にし始めていることも「動的」な部分の一つだと考えています。

それは、アタマのなかだけで、本の内容を「へぇ~」と思うのとはまったく異なる、木下さんが本書で書かれていることを自分の武器として装備し始めた感覚で。

もちろん、まだその武器はLv.1でここからずいずいと鍛えることが必須ではあります。でも、兎にも角にも、文章としてアタマにイメージとして入れたものを「自分の武器」として、現実的に手に入れ、装備することができた。それは、自分自身で呻吟しながら詠むことを積み重ねているからだろうと思うのです。

そういう意味でも、作歌とはものっそい動的なことだなと思うのです。

そして、そのなかで上にも書いたように、ものの見方や感じ方、言葉の使い方に変化が訪れました。

その変化がどういうものであるかは、まだまだ途上ですからそっと置いておこうと思っています。言葉に置き換えることで失われてしまったり、固定化してしまったりするものがあって。それは今の段階では惜しむべきことであろうと思うからです。

何にせよ、短歌を詠むのは苦しいけれど、楽しいです。

苦しいのは、ほら、自分の限界を毎回スルドク突きつけられるから(笑)そういう意味では、なかなかに自罰じみた部分もあります。でも、それ以上にわくわくしたり、楽しかったりするのです。次はどんなふうに詠むだろうかと、自分自身にどきわくできるんですね。そして、それはすっごく楽しいし、幸せな感覚だなとほこほこしてしまうのです。

自分が短歌でどこ/何を目指しているのか。それすら、全然五里霧中過ぎて、絶賛迷子中ですが。それでもせっかく乗り始めた舟ですし。ぶいぶいと漕ぎ続けて、おもしろいモノを創りたいなと思っています。

…そのうち、短歌、発表しますね(笑)

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今日もここまで読んでくださり
ありがとうございます。
今日がいい日でありますように。
んじゃ、また。

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