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なぜあなたは空気が読めないのか? 「空気を読む」歴史と発達障害の誕生


なぜ「空気を読む」ことが求められるのか

空気が読めないことは、現代社会において非常に厄介な問題とされている。
権威が提供していた社会維持システムである大きな物語が終焉し、産業構造の転換により高度な情報社会と個人主義が跋扈し、「空気を読む」というコミュニケーションスキルがなければ「社会不適合者」の枠印が押される。
大きな物語とは、簡単に言えば無数の人々を押し込めて統治するためのわかりやすいストーリーだ。カースト制度のような身分制度はわかりやすい。宗教や国家や文化などの権威が規定した価値基準で、多数の人間がとりあえずまとまっておける状態を作るための「嘘」である。
近代以前は、大きな物語を信仰しておけば、とりあえず生存戦略としては正しかった。しかし、ナポレオン以降の近代国家は国民皆兵・富国強兵と共にあり、気づけば各々の権利を認めていかねば存続が許されなかった。
大きな物語は死に、そして資本主義の動力源として「市民」が生まれた。
大量消費社会は個人の権利を極限まで高め、労働者と消費者を兼ねる最高のお客様である家畜化された市民が大量生産される時代が現代である。

「空気を読む」という概念は、そもそも非人道的な強制である。

この記事でも書いたように、本来の人間の本質的な思考や生き方は「空気を読む」ようにはできていない。
故に我々は教育の名の下(憲法にまで書いてる強制)、長時間椅子に座って静かに空気を読む訓練を9年間も義務付けられている。
これは9年間も座り続け、空気を読み続けなければならないくらい困難なことであり、要するに非人道的な矯正である。
そしてこの強制矯正の大前提は「人間は皆平等」である。
昨今の情勢を鑑みればおわかりだろうが、人間は平等ではない。脳の器質的なレベルからも個性的であるし、思考や認知システムも多様である。
それを平等という美辞麗句で押し込めて、そこから逸脱したものは自己責任原則で排除、もしくは精神病院か牢獄に隔離されてきた。
これは文明が生まれた時代から行われていた集団統治システムの成れの果てである。

デヴィッド・グレーバーが書いているように、この統治システムは原始の未開社会と言われる時代のほうがよっぽど多様かつ自由であった。
現代社会はこの莫大な人口を統治するためという口実で、合理的に我々を矯正し、本末転倒なシステムを構築している。これは人間本来の生き方ではまったくないのにである。そう、社会システムに人間は乗っ取られたのである。

しかしそんな泣き言を言っていても始まらない。
我々はそんな社会システムのおかげで、とりあえずすぐ餓死したり殺されたりする環境からは逃れることができている。
この等価交換がペイできているかどうかはさておき、現代社会で生きるために「空気を読む」ことが必須なのはおわかりいただけたであろうか?
それは、社会システムに適応するためには、システムの要請する能力と価値基準の範囲に身を置かねばならないからだ。
いくら個人の権利を主張しようが、人間本来の生き方を考察しようが、価値基準を握られている以上成すすべはない。
ここからは「空気を読む」とは何かを考察してみる。

「空気を読む」とはなにか?

空気を読むとは、社会システムの要請に自らを適応させることである。
現代社会において、例えば東京大学に入ることは善とされている。
これは普遍的な価値でも生存戦略でも、すべてにおいて善である。
東京大学に入ると、今後の人生だけでなく、子々孫々まで社会システムからの恩恵をより多く享受できる可能性が高いからであり、また東京大学に入るような人間を社会は欲しがっている。
それは黙って社会システムから与えられた課題、それは従順で問題を起こさず、システムが提供する価値基準の中で必要とされている課題を忍耐強く突破していく「選ばれし民」であるからだ。
そんな社会が求める人間像を頂点としたピラミッド型の価値基準の中での競争原理こそ、社会システム存続の基盤であったりするのだが。

このような御恩と奉公の関係が、「空気を読む」の大きな物語であり、我々はこの空気を読む生き方を強いられる。
そしてそれは東京大学に入らなくても、我々凡人にも適応されている。
「従順で問題を起こさない」、これこそ基本的人権の尊重である。
「従順」は時代によってその条件は違う。戦争中は敵兵を殺してくることが従順であったが、現代は殺人は「問題」にされてしまう。
現代の従順とは、公共の場でタバコを吸わないだとか、セクハラやパワハラはしないだとか、TPOをわきまえろだとか、そういったわかりやすい案件が示すように、他者を尊重して生きなさいということだ。
現代人から見ると異常な昭和のオールパワハラ時代が放置されていたのは、そのほうが社会システムを低コストで維持しやすかったからである。
スマホを中心とした消費生活が代表する個人主義の極限に達した現代社会において、以前よりも過剰に他者を尊重することはコスト管理的に正しいのである。そこにあるモラルや規範などというものは単なる後付である。我々「個人」は現代社会から見れば最高のお客様である労働者であり消費者なのだから。

では現代社会が求める「空気を読む」の条件である「従順で問題を起こさない」とは何か?
それは資本主義経済のためにあらゆる権威を排除した生活空間において、従順で問題をおこさないことである。
権威があった時代、わかりやすいのは昭和経済成長期のオールパワハラ時代だ。家父長制や宗教的慣習や男女差別といった権威は、当時の社会システム維持のための低コスト化に貢献していた。
しかし、お客様である家畜化された個人を必要としたグローバル経済により、そういった権威は排除されていく。
故に、権威が包摂していた「従順」がより末端の人間性にまで降りてきたのである。
かつては父親に言われるがままに結婚を強いられていた女性は、現代ではGDPを押し上げるために働き、消費し、Instagramの経営に貢献している。
これは進歩とされ、僕も個人としてはとても良い時代になったと思う。
しかし、権威に任せてきた抑圧が開放されたため、より個人にセルフ抑圧を求めることになる。
かつての「空気を読む」が「父親の言うことを守る」であったものが、個人のコミュニケーションにまで浸透してきたのである。
ゆとり教育はまさにその典型で、上からの抑圧を緩ませたために、下からの抑圧を惹起させた。わかりやすい指標(勉強ができる、運動ができる、喧嘩が強いなど)が権威を失い、末端の人間性にまで落ちてきたことでコミュニケーションスキルやキャラクターで自己を守るという強制力が働く。
権威が守ってくれていた暗黙の了解が消え去り、個人で戦わなくてはならなくなったのだ。
故に「空気が読めない」は「問題」になってしまった。
その「空気」は権威が消失したため、一見わかりにくく、また関係や環境ごとに違う世界を持つようになった。
さらにスマホが登場し、ネット上でのコミュニケーション空間まで誕生したため、より高度なコミュニケーションスキルが必要とされる。
時代も高度情報社会、就労に必須なスキルは多様かつ広範囲であり、サービス業偏重の社会はコミュニケーションスキルに自己責任をも包摂する。
こうして権威が失墜し、個人が生きやすくなった社会は、逆に個人が空気を読んで責任を取ることが当たり前になってしまった。

「空気を読む」の空気とはなにか?

それではその空気とはなにか?
これは先程も書いたように、関係、集団、環境によって違う。
職場とプライベートの線引が厳しくなったことが示すように、空気を読む「空間」がシンプルに増えた。しかもそれは多層的で変化のスピードも早い。
「空気」とは、その場の関係性における自らのポジションである。
よって、現代人は自己を分割し、その場その場の自己のポジションを設定することが求められている。
社会適応能力とは、このポジション取りを高度なコミュニケーションスキルであるべきところに自己を充てがうことをいう。
かつては、権威によってわかりやすく表示されていたポジションが曖昧模糊となったため、自己の行動によりポジションを明確にしなければならないのである。
ここで「問題」を起こすから、発達障害は「病気」になったのだ。

発達障害や愛着障害などが世間的にも共有されるレベルで浸透しているのは、現代の高度なコミュニケーションスキル必須な社会では、こういった傾向を持つ人間が「問題」となるからである。
かつてはこういった傾向を持つ人間も、社会でなんとか生きていけた。もちろん理不尽な暴力などによる矯正もあったであろうが、世界はそれほど複雑ではなかったからだ。
いわゆる発達障害者の問題行動の一つとして、言ってはいけないことを言ってしまうなんて「症状」がある。かつては許されていたか殴られて矯正されていたかもしれないが、現代では簡単に訴訟を起こされる案件だ。
このように、個人に降り注ぐコミュニケーション発の自己責任原則が理解できない、合わない、納得できない人々は病気とされ排除され自己責任の名の下それなりの扱いを受けてしまう。

なぜ発達障害やメンヘラは「空気」が読めないのか?

発達障害やいわゆるメンヘラが空気を読めないのは、先天的後天的な原因はあれど、それを自己責任で片付けるのはあまりにも狭量な気がしてしまう。
今まで長々と述べてきた通り、これは社会システムによる矯正であり、人間本来の認知システムとは簡単には混ざり得ないのだ。
発達障害やいわゆるメンヘラが空気を読めない原因は脳の器質的差異であったり、正常なコミュニケーションの発達段階を踏めなかったから、などなど科学的なエビデンスは提供されているが、ここからは僕の超個人的な考察を踏まえて打開策を提示してみよう。

ウィトゲンシュタインの論理空間を魔改造して使って考察してみよう。
ウィトゲンシュタインのいう「論理空間」とは、全ての「事態」の集合体を指す。これは実際に起きているかどうかに関わらず、全ての「起こりうる可能性」が集まったものが論理空間という。
「赤いリンゴ」と言われれば、たいていの人は似たような赤いリンゴのイメージを思い浮かべるであろうし、「ペガサスがスマホを食べている」と言われればそんな非現実的なことであってもイメージはできるであろう。
論理空間とは、簡単に「人間が言語を使って考える場所」であると定義したい。魔改造なのであしからず。
人それぞれ論理空間を持っており、そこから意思として世界を認識し、我々は(哲学的ゾンビでなければ)生きている。
そしてこの論理空間こそ、コミュニケーションにおいて非常に重要である。
論理空間にはあらゆる事態が詰め込まれており、そこから善悪を判断して行動している。現代は個人の論理空間が社会システムによって支配されているといっても過言ではない。
東京大学を目指す動機づけは、社会システムからの要請であり善であるからであり、そこに違和感など生じないレベルで普遍化されている。
論理空間は他者の論理空間も意識することができる。それが共感や空気を読むことである。
論理空間は、言語化して納得するための場所なのだ。

ということは、言語化するプロセスが行われる場所でもある。
もちろん場所というのはそれこそ言語化であり、それは単なる脳の神経物質の受け渡しによる現象ではあるが、言語化して認識されたことを意識として表出しているのが人間だと仮定しよう。
発達障害、特に自閉的傾向のある人は、この言語化プロセスが社会システムからの支配に抵抗している。
いわゆる健常発達者は、自らの言語化プロセスを容易に社会システムに明け渡すことができる。これは教育という名の矯正の賜である。
自閉的傾向により、コミュニケーションスキル自体に特質があったり、言語化プロセスの柔軟性が欠けている場合、そういった社会システム論理空間OSのインストールができない。※OSじゃなくて、スマホアプリでも可、キャラクターでも良し。
健常発達者は、学習という過程でその時の社会システム論理空間OSをインストールできているのである。
社会システムに論理空間などないはずだが、サピエンス全史よろしくそれをOSとして認識し、平然とインストールすることこそ人類の文明化でもあった

なぜ論理空間としたかというと、この無意識下で行われる言語化プロセスを「言語化=OS」とすることが重要であるからだ。
健常発達者は、このOSを使い分けている。プライベート、仕事、学校、職場の上司、家族、学生時代の友人A、取引先の人間B、なじみの居酒屋の店長C・・・
健常発達者とは、からっぽのパソコンのようなものだ。OSをシームレスに適時切り替え、世界を情報として処理しているマシン。
発達障害とは、この言語化プロセス=意識の客観的認識ができないことをいう。
なぜなら、人間本来の認識ではそんな芸当は困難であるからだ。
かつての人類にも、こういったOSは存在した。宗教がそうである。聖書やトーテムや仏陀の教えは、OSとして往時の社会システムを支えたのだ。
現代はこのOSが多層かつ多様に必要なくらい、脳に負荷をかける社会となっているのである。

いわゆるメンヘラ(パーソナリティ障害、愛着障害など)は、後天的に言語化プロセスが歪んでいる。
もちろん先天的何かが影響していることもあるが、親子関係や友人関係、過去のトラウマなどで健常発達者のような言語化プロセスが学べなかった状態を指す。
初歩的なOS(礼儀、暗黙の了解、お約束、傾向と対策)を学べなかったために、また過去のトラウマが邪魔するために、普遍的な言語化プロセスで生み出された空気が理解できない。
理解できないから除け者にされる、嫌われる、しかしその理由がわからない。
不安が強まり、極端なコミュニケーションを取りがちになる。
こうして初歩的なOSの認知の歪みにより、コミュニケーションによる失敗体験が重なることで負のスパイラルが形成されてしまう。

発達障害もメンヘラも、この社会システムが要請する論理空間(従順で問題をおこさないこと)と時代や関係や集団や環境ごとに違うOSの学習、これが達成できていないことが空気が読めないことの原因である。
そして失敗体験により、「空気」を恐れ、不安となり、逆に攻撃的になったり、鬱のような精神の病に陥る。
負のスパイラルの原因は、こういった論理空間を単なるツールとして客観視できないことだ
基質や不安により、自閉的傾向の認知の歪みに陥ることで、余裕がなくなりむき出しの個人として世界に立ち向かっている。
OSを入れる容量が少なかったり、うまく利用するコツが掴めていないだけなのだ。
健常発達者は個人を殺し、OSをファストファッションのように使い分けている。
個人など存在しないのである。
だから職場のあなたの評価は、あなた個人の評価ではない。
健常発達者は、そういった不安を個人ではなく職場の「わたし」という他者のせいにしている。もちろん気に病むだろう。しかし、あくまで職場のOSのミスマッチである。適度な憂さ晴らしや他の「わたし」で休日を楽しめば、そこまで苦にすることはない。
もちろんそういった「わたし」に囚われてしまうと、悲劇的な状況に追い込まれる。
兎角、日本人は自己責任原則が強く、「わたし」の手札が少ないように思う。
「わたし」をOS化して、思うように使い分け、日々のストレスを上手く細分化して本体にダメージを与えない、これが現代に生きるためのライフハックである。
社会に囚われてはいけないのだ。

発達障害者やメンヘラは、基質や認知の歪みにより、「わたし」の手札がほとんどない。故に常に不安にさらされ、それから逃れるために起こした行動により、さらに誤解を招き負のスパイラルへ突入していきやすい。
不安は自己の客観視をできなくさせる。
だが環境を変えたり、OSを入れ替えてみたりすれば、簡単に解決する問題であることが多い。それができない、そんなこと簡単に言うな、そう思うあなたはすでに社会に囚われている。
なぜ、自分に合わない社会システムに認められようと苦心するのか?
社会システムの排除の倫理に不利な戦いを挑むのか?
なぜ価値基準を他者に委ねるのか?
それが生きづらいのであれば、場所や考え方を変えてみよう。
そして論理空間は、自ら学ぶことで簡単に変えることができる。
本や映画でも良い、尊敬する人の話を聞くだけでも良い、社会システムと『空気』を客観的に見る視点=OSを手に入れよう。
「空気を読むこと」は社会システムを生きる上で有用であるが、私の価値基準には作用しない。有用なだけで、価値ではないのだ。
なんせ社会システムが要請する理想の人間とは、社会システムの論理空間に疑問も持たずに没入することを指すのだから。
これはマトリックスの世界だ。それで良いのだろうか?
答えはないが、空気が読めないからこそ見える世界もある。

参考文献

現代社会の方が異常事態だという人間の本質に迫る鈍器本

ウィトゲンシュタインの論理空間という単語を魔改造しました。
しっくりくる言葉であれば何でも良かったのですが、野矢先生ごめんなさい。
というか、ウィトゲンシュタインに殴られそう。

過去記事と全然違うことや同じことを宣っているが、細胞は入れ替わるのです。

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