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「ジョジョ・ラビット」と大人はつらいよ

ジョジョ・ラビットに出てくる大人たちは皆、ひたすらに濃厚な俗物として描かれている。
大人とは社会の何かしらのポジションに屹立するセルロースの塊、動けない生命である。
大人とは成長するにつれ、親ガチャや社会との適合性、社会からの要請への返答次第で、社会の用意された場所へ自ら出向くか流されるかでどこかに収まるのである。

ジョジョの母親、第二次世界大戦期にしてはフェミニンごりごりの強き女性ではあるが、彼女のアイデンティティは反戦活動家でありナチへの反抗というポジションにあることで醸造されている。
彼女は凛々しく格好良さげに描かれているが、所詮社会の時代性により抹殺されてしまった。
大杉栄のようなものである。
結果論で見れば、社会に用意されたポジションに自らを置くことで自己を規定し、そして殺される運命にあったといえる。
大人はつらいのである。

サム・ロックウェル演じるゲイ疑惑のあるクレンツェンドルフ大尉。
大尉は軍人というポジションに身を置いたが、個人的な成因によりそのポジションで浮いている。収まりが悪い。
故に破天荒かつ自暴自棄のような振る舞いをみせる。
彼は流されて収まっただけのポジションにいることがムズ痒い。
このムズ痒さ、収まりの悪さを耐えることができれば、社会の時代性により社会から見て善とされているポジションへの競争に打ち勝つことができる/できた自己を手に入れることができる。
収まりの悪さに耐えきれなくなった大尉は自暴自棄のまま終戦を迎え、しかし軍人というポジションのまま死を選ぶ。
ジョジョを救った最後のヒーロー的気質こそ善き軍人の散り際であった。
大尉はもうポジションの変更を強いられることを拒否したのである。
故にあの美しい散りざまを演じることができたのである。
大尉の死は与えられたポジションから逸脱した自己突出であり、その突き抜けた瞬間こそ、何者にもポジションづけられない人間らしさ、大尉が望んだ自由があったのだ。
大人はつらいのである。

ではジョジョのイマジナリーヒトラーは?
それこそ、10歳のジョジョに社会への恭順を促すプレッシャーである。
教育や学校や社会的な圧力により、社会への従順なポジション選択を強いられているという見えないストレス、それがヒトラーという象徴である。
ナチス信奉者のジョジョは社会に染まり始めており、子供ながらの無垢なヒトラーへの憧れは、社会からの強力な矯正力の賜物でもある。
反ナチの母親との葛藤、匿われたユダヤ人少女との会合により、社会への違和感に苦しむジョジョは少しずつイマジナリーヒトラーを懐疑し始める。
母親は反ナチという秘匿すべき自己=ポジションにいる自分を愛する我が子へ極端に強制することはできなかった。
それは母親こそ、矯正から逃れているポジションに身を置くことで自己を規定しているからだ。その危険性は彼女を酔わし、自らの規定をより強固にする。
彼女の愛情に見えるそれは、単なる我儘でもあるのだ。
愛息にすら隠さなければならない自己像とは、本当の自分と言えるのであろうか?
それは権力のために悪事に手を染める政治家であり、テロリズムに活路を見出す青年でもある。
イマジナリーヒトラーを蹴落としたジョジョは、社会との決別を決意したのである。
しかし、安易な決別は単なるアンチとしてのポジションに滑り込む危険性がある。
そう、母親のように。
現実逃避ではない社会と対等な自己を規定すること、その葛藤こそが若きウェルテルの悩みなのである。
大人になるのはつらいのである。

ユダヤ人少女は、そんなポジションに囚われているすべてを冷ややかに見つめている。
ナチス統治下の世界では、ユダヤ人にはポジションなどなかった。
なんせ人間ではなかったからだ。
この社会の突飛なちゃぶ台返しが理路整然と政治的に行われている世界に身をおいた彼女は、すべてが茶番だと見抜いているのだ。
すべては茶番である。
増えすぎた人口をまとめ上げるために捏造された社会、その社会が用意したポジションへ大衆を誘導し捌き押し込めることで時間稼ぎする権力者、そしてその権力者ですらアイヒマンのように「何も考えてない」のである。

大いなる茶番が終わり、新たな茶番が始まった世界で踊るジョジョとユダヤ人少女、その瞬間は何も規定されていなかった。
混乱した社会はポジションを与えることができない。
そのほんの一瞬にジョジョと少女は踊ったのである。
踊り、それは原始の時代から続く人間の非矯正された体の動きであり、真の自由な快楽である。


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