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会計を忘れた時に国が滅ぶ:「帳簿の世界史」

 筆者は昔、簿記の資格を取ろうと勉強したことがある(結局、諸事情で棚上げとなった)。当時は貸方?借方?元帳??仕分け???とチンプンカンプン。特に熱意も持てなかったのだが、Twitterフォロワーから紹介された本書「帳簿の世界史」を読んで以来、会計への考え方は変わった。

 「帳簿の世界史」は古代社会の会計に始まり、2001年のエンロン・ショック、2008年のリーマン・ショックまで会計の歴史における転換点となったエピソードや人物にスポットを当てる、世界史の本らしい一冊になっている。アメリカの産業革命を扱うまではほぼヨーロッパ史となる。

 国家の金蔵や出納を握ることが権力に直結することは古代から現代まで変わらないが、会計の歴史として捉え直した場合、技術が大きく発達したポイントが三つある。ローマ数字からアラビア数字への転換(我々が893と書く数字は、ローマ数字ならばDCCCXCIII!)、共同出資が必然的に生んだ複式簿記、客観的かつ厳密な監査と決算。そして複雑化した会計システムを運用するために公認会計士の誕生に至る。

 特に興味深かったのは、会計とキリスト教の教義のつながりだった。黙示録では、死者たちは「命の書」という帳簿により裁かれ、天国行きか地獄行きかが決まる。世界の終わりはキリスト教徒の決算期というわけだ。ここから、心の会計(信心と善行と罪のバランスシート)は、教会への寄進で調整して救われることができるという発想が生まれる。「免罪符」の登場と相成るわけだ。それに反発したプロテスタントたちは、現世での勤勉の証として現実の帳簿管理を徹底することになる。

 そしてスペイン王フェリペ2世とフランス王ルイ14世は自らの権力と親政のため、国家の財政を把握するために会計を用いるのだが、両国にはそもそも国家財政を管理できるだけの十分な数の人材がおらず、また責任者が明らかにした国家財政の姿は、王にとって決して愉快なものではなかった。
 (ここで筆者は思った。歴史シミュレーションゲームなどでは国の資金の運用はプレイヤーが当たり前のように一元管理できるが、史実では大嘘だったのだ。王ですら国家の資産と負債を把握できていなかった

 フランスは国家財政の放任のツケをルイ16世の時代に支払うことになるが、彼の時代に「国家の収入と支出を一般市民でも分かる形で出版する」という当時では画期的な取り組みが行われていた。これによって王家の財政を覆っていた神秘性が剥がされ(それまでは王家の金を何にどれだけ使っているか、国民は想像するしかなかった)、国民が国家の金の使途を議論する、そして政治の良し悪しを判断するという、現代では当然とされる方向に進み始める。そして産業革命を迎え、鉄道が経済活動に組み込まれるようになると経済活動は一気に複雑化。企業の正確な財務状況を把握したい投資家と、それを明かしたくない経営者の鍔迫り合いが始まる。現代では信じられないことだが、経営者が投資家に決算や帳簿を明かさないことは珍しくなかった。

 歴史を通して一つのパターンとして見えるのは(そしてこれが本書のテーマと考えられるが)、興隆期を作った人は会計を厳密に管理して繁栄したが、その後に続く人たちが繁栄を享受する一方で会計を疎かにしたために、時に家が没落し、時に革命が起こり、時に経済危機を引き起こしたということだ。

 現代を扱う章では、大手の会計事務所が監査とコンサルティングで同じ会社の情報に接していながら、大きな利益を生む後者に注力している状況が危惧されている。経営者のための帳簿の操作と、帳簿の監査を行う人間が同一という状況は明らかに不適切であり、その結果がエンロンやリーマン・ブラザーズの破綻であったのだから。
 数字に対する誠実さと、数字の意味を忘れた時に危機が起こるのは歴史の教訓だが、現代のハイスピードな経済活動と複雑化した取引は人間の会計士を何万人揃えようと把握できない規模に達している。いつか訪れる「清算の日」に備えるには、日本語で言うところの「襟を正す」意識こそが欠かせないのだ。

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