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連休に読む本:「マキアヴェッリ語録」

※「読む」本、と題していますが筆者は既に読了しています。本の感想とおすすめの文章としてお読みください。

差別への反対を唱える人間が、自分に賛同しない人間を差別する。

職業に貴賎なしと主張する人間が、ある職業への偏見と蔑視を隠さない。

万事を自己責任に帰す人間が、社会や政府について憂国の士を気取る。

なぜ、人が口にしていることと実際に行っていることはかくも違うのか。
日本社会では「ホンネとタテマエ」「それはそれ、これはこれ」で片づけられがちなことについて、日本社会では「そこまで言語化するのは危険だ」というほどに快刀乱麻の切れ味で理解したい、思考を整理したい、言語化できないもやもやにヒントが欲しい・・・

そういう人にお勧めしたいのが今回の「マキアヴェッリ語録」だ。
新潮文庫。筆者は塩野七生。マキアヴェッリの主著「君主論」「政略論」その他の手紙等から、彼の思想のエッセンスを「抜粋」する形で列挙している。
抜粋が中心ならば、原典を読めば済むと思うかもしれない。しかし原典は、マキアヴェッリが同時代の読者に向けて、当時の国際政治やイタリアの状況に関心がある人ならば「ああ、あのことね」と特に説明を要さない事例を使って自説を展開している。原典を読んだことがある人ならば分かるかもしれないが、高校世界史を一通り学んだ程度では太刀打ちできない。一方で我々日本人ならば聖徳太子や織田信長ならば「ああ、あの人ね」と理解できる。だから「マキアヴェッリが引用した歴史上の具体的なエピソードは取り払い、当時のイタリア人読者と同じ目線で読めるよう、彼の主張の部分を抜粋する」という方針を採っている。そのため本書の厚みは薄く、印象的なフレーズや段落の抜粋が続くので、非常にサクサク読める。

筆者の塩野七生がそのような方針を取っている以上、私もまた余計な解説をあれこれ付けるのは作品への無理解と感じるので、特に印象に残った部分をさらに抜粋する形で紹介したい。
なお、マキアヴェッリがどのような人物についてかは、ウェブで検索いただくか、あるいは同作家の「わが友マキアヴェッリ」を一読頂きたい。

しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは、大変にかけ離れているのである。
だからこそ、人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生き様を直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向かうしかなくなるのだ。
なぜなら、なにごとにつけても善を行おうとしか考えない者は、悪しき者の間にあって破滅せざるをえない場合が多いからである。
君主(指導者)たらんとする者は、種々の良き性質をすべてもち合わせる必要はない。
しかし、もち合わせていると、人々に思わせることは必要である。
人間というものは、自分を守ってくれなかったり、誤りを質す力もない者に対して、忠誠であることはできない。
君主にとっての最大の悪徳は、憎しみを買うことと軽蔑されることである。
憎悪は、国民のもちものに手を出したときに生ずるのだから、それをしなければ避けるのはやさしい。
一方、軽蔑は、君主の気が変わりやすく、軽薄で、女性的で、小心者で、決断力に欠ける場合に、国民の心中に芽生えてくる。
人間は、自分が最も大切にしていたものを奪われたときの恨みを、絶対に忘れない。しかも、そのものが、日々必要なものである場合はなおさらである。必要を感じるのは毎日なのだから、毎日、奪われた恨みをむし返すことになる。
人の運の良し悪しは、時代に合わせて行動できるか否かにかかっているのである。
サルスティウスが、その著書の中でユリウス・カエサルに語らせている次の言葉は、まったくの真実である。
「どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった」
はじめはわが身を守ることだけ考えていた人も、それが達成されるや、今度は他者を攻めることを考えるようになる。残念だが、これが現実だ。
天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。

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