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2023年5月4日の空は


ゴールデンウィーク真ん中の2023年の5月4日は、朝からよく晴れていた。空を見上げれば、誰しもが出かけたくなるような天気だというのに、家を空けられない事情があり、相棒の猫と二人きりで家でぶらぶらしていた。

遅めの朝の食事をすませると、猫は、尻尾をピンと立て、私を直視した。
 「ついてきて。」
そういわれて、
 「はいはい、なんでございましょう?」
と彼女の後をついて隣の洋室に入った。休みで私が家にいると、いつもここに連れてこられる。10時ころになるとこの部屋が一番日当たりがよくなる。この部屋の絨毯も彼女のお気に入りである。部屋の中心まで進むと、前足を長く伸ばして、思い切り背中を伸ばし、次の瞬間にバリバリバリバリ。絨毯で爪を研ぎ始めた。古い絨毯だから惜しくもなく、猫用の爪とぎに提供している。おかげで、我が家には猫用の爪とぎは不要なのである。この部屋のお好きな場所で、お好きなだけ猫は爪を研ぐ。

窓から入るさっぱりした風が心地よく、部屋の中には若い葉の青臭さが充満していた。あんまりすがすがしいから、窓辺のソファに寝転がった。窓を下から見上げると、真っ青な空が真上に広がっていた。目をこらせば成層圏の向こうまで見透かせそうなほどの青空だった。窓枠の辺りに見える、向かいの公園の桜の若葉が、さわやかな風にあわせてリズミカルにスイングしている。両手を頭の下に組んで、啄木の短歌を舌先でころがしてみる。
 『不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心』


猫が、前足をソファにかけ、次に当然のようにわたしのお腹に前足をかけて、這い上がり、どっこいしょと腰をおちつけた。油断も隙も無い。人がのんびりしているとすかざず、
「私も、私も」
とやってくる。ちょうどへそのあたりで、しばらくもぞもぞし、後ろ足を置く位置やら尻尾の落ち着き具合などを探っている。居心地の良い場所を見つけると、うずくまって、居眠りしだした。人のへその上で。

猫はど真ん中を好む。わたしは端っこが好きで電車の座席も、映画館も喫茶店も、空いていれば壁際に座るが、そういう謙虚さはないらしい。布団を敷くと、私が寝る前に布団の真ん中で寝ている。追い払うわけにもいかず、私は申し訳ないように布団の端っこに寝るのだった。私が先に布団に入っていると、人が寝ているのもお構いせず、のしのし這い上がり、へその上あたりに乗って寝る。人一倍臆病なくせに、『世界は自分を中心に回っている』と考えているようなふてぶてしさが、なんともおかしかった。

こうしてお腹の上で寝られると、私は身動きできなくなる。猫はそれは気持ちよさそうにスヤスヤ寝ているから、安眠を遮るわけにもいかず、それに付き合って動けなくなるのである。この日もそうだった。下から見上げる空は美しくて、風は気持ちよくて、緑も爽やかで、お腹に愛猫のクロちゃんがスヤスヤと寝ていて、幸せだった。何一つかけることがなく完璧な幸せだった。

猫につられて、うとうとまどろんでいると、小鳥がさえずりながらとびたった。その声で我にかえったが、猫はまだ寝ている。この完璧な幸せを写真に残したいと思った。スマホは手元にない。取りに行こうかと思ったのが先だったか、猫が目覚めたのが先だったか。猫はわたしのへその上から下りてしまった。スマホを取り、またソファに寝転んで、猫を呼んでみた。
「クロちゃん、クーロクロクロ、クロちゃん」
猫は気まぐれな動物である。もう私の上に上がろうとせず、そっぽを向いて行ってしまった。あの、完璧なる幸せな時間は、もう、二度とやってこなかった。 一番撮りたい景色は、案外、写真に収められないものである。
二日後の朝、猫はあのソファの上で亡くなっていた。今日が初七日。
2023年の5月4日が、素晴らしい快晴であったことだけは、一生忘れない。

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