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レインボーになれなかった人のために 〜活動家でもなく教育者でもなく、二丁目にも行かないセクシャルマイノリティより〜

「私は今、同性愛者です」


今の私は、こんな風に自分のことを書いたり話したりできるなんて、10代の頃にはまったく思ってもいませんでした。


「自分は、人と違うセクシャリティなんじゃないか」


中学生くらいのころから極度に人と違うことを恐れてきた自分が、今は自分のことを、何かこうして言葉にして発信しようとしているのだから、人生とは不思議なものだなと感じています。

ここに書くことは、セクシャリティのことで悩んでいた中学生くらいの自分に宛てた、手紙のような文章です。

手紙といっても、私個人の事だけに焦点を当てるような狭さではなく、深いけど遠くが見渡せる広さのような、多くの人の心の底に通っている、やわらかいところにそっと話しかけるような

そんな言葉を丁寧に選んで、編んで文章にして、どこか懐かしい風合いの切手を貼った封書のようにして。
「言葉を編んでいってできた一点物の手紙」を、読んでいる人に届けられたらいいなと、ひそかに思っています。


「あの時に悩んでいた自分は、こんなことを聞きたかったんだよなぁ」

そんなことを、何となく考える時があります。


その「聞きたかったこと」を今書くことは、過去の自分や、今悩んでいる誰かのためになったり、何かしらの役に立ったりするんじゃないか。

過去の誰かを、今で救うことだって、
できるんじゃないか。

確かに、そんな気がしています。
なぜなら、時は回っているから。
そう思うのです。


中学生の時の自分は、自分が同性に感じる感情を、自分の中でうまく扱うことができませんでした。
世に言う「セクシャルマイノリティ」に、自分が当てはまるのか・・・?

当てはまるのなら、私はこれから、
セクシャリティをアイデンティティとするような活動家になったり、
昼間は職場で適当に自分を偽って夜は"本当の自分"であるかのように二丁目に行ったりしないと、生きていけないのだろうか?
一生隠し通したり、もしくはカミングアウトしたりしないと、生きていけないのだろうか?

いわゆる「フツウ」には、生きていけないのかな・・・


そんな風に悩んでいました。
何より、「フツウ」に生きているセクシャルマイノリティの存在を、知りたかった。


もし、この文章を中学生の自分が見ていたら、伝えたいことがあります。


将来に対して、未来がないような絶望を感じたり、漠然とした不安を抱える必要は、ないんだよ。私は活動家になってないし、教育者にもなっていない。二丁目にも行ってないけど、フツウの生活者として、今、幸せに生きてるよ。


何者なのかと、足りない頭で自分のことを考えて、考えて、何かに当てはめて、答えを出しても、「今の自分がそうだ」という、それだけのことに、すぎないことなんだよ。
変わることだし、変わっていっていいことなんだよ。
今、悩んでいることは、小さくて大事なことなんだけど、それは、
大事だけど小さなことでもあって、
それだけのことなんだよ。

あなたはそのままで生きていけるから。
不安もあるかもしれないけど、大丈夫。安心して進んでいっていい。


自分を「何者なのか」と問い続け、決めることは、必要なかったんだと思う。
例えそれで一時的にほっとしても、また違った自分が、自然にむくむくと湧いてくるから。
必要なのは、「何者でもない流動体である自分」を、「それでいい」とほおっておくこと、だったんじゃないかなぁ。


現在、私は同性の恋人と暮らしています。だから、「私は今」、同性愛者なのです。

ですが、それよりも、前提として、
私は、いろんな人と同じところも違うところも持ち合わせた、フツウの生活者なのです。

セクシャリティのことは、自分の一側面でしかありません。人は多面体であり、流動体であると思っています。
そして、小さな生き物です。


私は大きなことをしたいわけでも、言いたいわけでもなく、「彼女が好きで、彼女と一緒に生きている」、そんな小さな好きから始まる小さな世界で、小さな幸せを感じながら、これからも生きていきたいです。


レインボーのように輝けなくても。
輝きが眩しすぎて近づけなくても。
ここでこうしています。

光に包まれる朝も、光を見ていたいと願う時も、光が辛く感じる夜も。


誰かに、「こんな感じで生きている人もいるんだなぁ」と思ってもらえたり、居ることを知ってもらえれば、それでいいのです。そのための発信でもあります。
なかなか、フツウの生活者のセクシャルマイノリティには、出会いにくいかもしれないから。



人って流動的な存在で、ゆらゆらしてて揺れている。曖昧で、それでいいんだと思います。
それ故に、カミングアウトとか同性愛者という言葉よりも、「今、女性の恋人がいます」という言葉の方が、しっくりきます。

「カミングアウト」、「同性愛者」とあえて言う必要は、あまり無いように感じています。


人が人を愛おしいと思うのは、とても素敵なことじゃないのかな。それは多様性でも最先端でも、何でもない。


誰かと幸せの価値観が違ってもいい。誰かに何かを言われたとしても、それはそれ、ということだと思います。


誰かや何かを「好きになる」という気持ちは、小さくて、尊いもののはずだから、
誰かに奪われたり、誰かのを奪ったりできるようなものじゃない。
その気持ちをそのまま、大事にしていてほしい。自分のも、他人のも。


居場所がないと感じてる人に、少しでも「ひとりじゃないよ」と伝えられたらいいな。
そして、何かを考えたり感じたりするきっかけとなることができたら。


ここに書いたことが距離や時間を越えて、
必要な人に、必要な時に、届きますように。


ありがとうございます!嬉しいです!