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日本には近代まで賠償制度が無かった。それは日本人が戦後賠償をスルーした事や、十字架上の贖いの意味が解らない事に繋がる。

日本の捕物時代劇には毎回最後に御白洲の場面が登場しますね。その際、町奉行などからの判決言い渡しでは、賠償金の支払いと言う刑は登場しません。必ず量刑です。
日本には近代になって外来由来の法が整備されるまでは、古来より賠償制度は存在しませんでした。

この事実は今でも影響を与えている事の様です。例えば学校の先生達は、授業で古代メソポタミアのハンムラビ法典の「目には目、歯には〜」と言う条文に付き、復讐行為に付いて定めた条文だと教える事が多いと思います。でも、あれは当時の賠償行為に付いて定めた条文です。

古来、オリエントでも地中海世界でも欧州でも、賠償と言う習慣や制度は地域を越えて共通の物だったのですが、何故か日本には長い間存在しなかった事が影響しているのではないでしょうか。

日本は元々が賠償に付いて感覚の薄い文化なので、第二次世界大戦の戦後賠償に付いても、日本だけがスルーしていた状況を国内では誰も問題視しない事実がありました。
また、キリスト教の十字架上の罪の贖いに付いて、賠償と言う意味が理解されずに、多神教ローマの公開処刑制度や古来の日本人の人身御供と同じ目線からのイメージで受け取られていると思います。
もちろんそれらは問題、間違ったイメージです。
(古代ローマの円形闘技場の決闘ショーは、元々は戦死したローマ兵を弔う為に、その墓前で戦争捕虜同士に殺し合いをさせていた習慣が、時代とともに皇帝の人気取りの為の見せ物に成長していった史実があり、元々は人身御供要素が有りました。)

戦後賠償に付いては、日本は敗戦時の要らなくなった艦船や兵器生産設備の引き渡しや、その後のODA援助以外は、極少数の例外を除いて金銭での賠償は行いませんでした。額面上の賠償額はトリックです。そして謝罪さえ村山談話を撤回して拒否した訳です。

またキリストの十字架に付いて理解されなかった事は「知らない物に関しては、得手して両極端なイメージを生む」と言うパターンを踏襲しました。
今、日本人は、学校教育でナ○スはキリスト教、メディア報道でもキリスト教はナ○スだと教わり、多くの人々が今でもその通りに信じていますね。
更に、キリスト教徒とは自己が罪人の代わりに犠牲になる事を教理としている筈だ、と一般に思われている為、賠償と言う意味合いは理解されず、替え玉や人身御供になる様に望んでいる被虐願望の様なイメージさえ流布しています。
それはそうかも知れません。罪の贖いの意味が分からなければ、人身御供による解決や追加の人間などと言う発想になるのは、寧ろ自然なのでしょう。
つまり事実無根に過ぎる、キリスト教はナチスであり、また、キリスト教徒はマゾヒストであると言う、両極端なイメージが流布しているのが日本の現場なのです。

(因みにナ○ス式敬礼は、多神教時代のローマ帝国軍の敬礼を、後世のナ○スが採り入れた物です。そしてそれは、聖書の中でピラト配下のローマ兵達が、キリストを侮辱する為にわざとふざけて行った際の敬礼です。
また、多神教ローマ帝国時代に、皇帝像への敬礼を拒否したキリスト教徒は、公開決闘刑や猛獣の餌刑に処されたと言う史実に於ける敬礼方式でもあります。
ついでに言うと逆さ万字は多神教の太陽を表すマークを、後世のナ○スが採用した物です。
つまり、キリスト教から見て、ナ○スとは多神教的な現象であり、日本での報道・教育は事実とは逆のイメージの流布なのです。)

テレビの時代劇では、下手人には島流しとか、市中引き回し、磔獄門などの刑が言い渡されますね。しかし被害者に付いては御奉行からの労いの言葉で済まされてしまいます。感動を誘うBGMとは裏腹に、実は賠償無しの、やられ損な訳です。賠償が無いと言うのは、そう言う事です。

と言う訳で、日本には古来より賠償制度が存在しない時代が長く続いたのですが、それは古今、洋の東西を問わず非常に特徴的な事であり、現代日本にも今なお影響を与えており、教育や報道にも形として現れているのです。

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